第376話:狼嵐

 月明かりの中で響き渡る、澄んだリトリィの遠吠え。


 そのあまりに美しい響きに、俺は幻想の中に迷い込んだような錯覚に陥った。ただそれは、俺に限ったことではなかったようだ。剣戟の音がしばらく止んでいたことからも、あきらかだろう。いや、そうに違いない!


 彼女は「犬」ではなく「狼」――原初のプリム・狼属人ヴォルフェリングだと言ったガロウの言葉を思い出す。


 月明かりに浮かぶ彼女の、白銀に見える豊かな毛並みのその姿は、まさに狼が遠吠えをする姿そのもので、けれどそれは、この世のだれよりも美しいと感じた。


 その美しい彼女を独り占めにできる幸運に、俺は感謝するしかない。彼女との間にはどんな子供が生まれるのか、いまいち想像しきれないのだが。


 百年前にこの世界にやってきた、賢者と呼ばれた日本人――頼人らいととかいう男は、魔狼――青白く輝くたてがみを持つ巨狼が言ったことを信じるならば、ではあるが――との間に子を成したという。


 あちらは子供も魔狼そのものだったので、もしかしたらこの世界の遺伝のルールとして、姿かたちは母親譲りなのかもしれない。

 とすると、俺の子もリトリィのそれが色濃く表れるのだろうか。金の毛並みを持った、ふわふわな子が。毛の色くらいは、変わるかもしれないが。


 純粋な狼の魔物と地球人、それも日本人との間に子供ができるのだ。獣人と人間――リトリィと俺との間でも、当然子供はできるはず。それがこの世界のルールなのだ。遺伝子はどうなってるんだとも思うが。


 長い長い遠吠えを終え、リトリィがこちらを振り向く。

 少しうつむき加減で、微妙に目を合わせてこない。


 そんな彼女を、ひしと抱きしめる。


「だ、だんなさま? みなさんがこっちを見て……」


 リトリィが恥じらって身をよじるが、そんなことはお構いなしだ。彼女がみせた野生の、その美しさへの感嘆。それを全身で表して、何が悪い。


 と、その時だった。


 硬い壁に何かを叩きつけるような音が響いてきた。

 というか、その音は近くと遠くを行き来するように、徐々に迫って来る――!


 リトリィを背にかばうようにして身構えた俺の目の前――リトリィが遠吠えをした窓から月を背にして顔を突っ込んできたのは、枯草色の体毛に覆われた狼の獣人――ガロウだった。


「……どうしたレンガ割り・・・・・。何があった」


 オイ! ここは二階だぞ!? どうやって入ってきた!


「さっきも言っただろう、向こうの壁とこっちの壁を交互に蹴って上ってきた」


 こともなげに言うガロウに、あらためて彼のとんでもなさを思い知って絶句する。

 向こうの館とこちらの館は、五メートルくらい間隔があるんだぞ! その間隔をものともせずに、壁蹴りを繰り返して上って来たって、それホントにやったのか!


「……で、オレを呼んだ理由はなんだ。あいつらをどうにかしろとでも言いたいのか?」


 ガロウはそう言って、三階の空中廊下を指差す。

 リトリィが神妙にうなずくと、ガロウはふん、と鼻を鳴らした。


「ひと使いの荒いヤツだ。……いいぜ、別料金でやってやる」

別料金・・・……?」


 俺が思わず問い返すと、ガロウは顔をしかめた。


「今のオレは冒険者だ。いくら女の頼みだって、ただ働きはしないからな?」

「もちろんです。別料金、ちゃんとお支払いしますね」


 ぱくぱくと口が開くばかりで言葉が出てこなかった俺に対して、リトリィが、全く動じることなく返答する。

 こういう時の彼女は本当に肝が据わっている。まったくもって頼りになるというべきか、俺が頼りにならなさすぎるというべきか……。

 

「約束だ。たんまりいただくからな?」


 ガロウの口が、大きく歪む。

 それが奴の笑いだ――そう気がついたときにはガロウはぐぐっと体を縮めていた。そして圧縮したバネが飛び跳ねるが如く、空中廊下に向かってカッ飛んでいく!


 そこから先は、スローモーションの映像でも見ているような気持ちだった。


 ――ガロウの突然の襲撃。

 リトリィが遠吠えをあげて呼び出した男なのだから、襲い掛かってくる今この瞬間だって、騎士たちは当然見ていたはずなのだ。それなのに、奴らはまるで紙人形が薙ぎ払われるかのように、ひどくあっさりとガロウに打ちのめされてゆく。


 ……いや、そうではない。

 確かに抵抗してみせているのだ。とっさのことでも剣を構え、鋭い突きを繰り出してみせる。さすが、冒険者たちを追い詰めた存在だ。

 ――だが、相手が悪すぎたのだ。

 攻撃をするりとかわし、片手で掴んでは後ろに投げ飛ばしていくガロウ。鎧を着た男たちを、一人ひとり、片手で!


 振り下ろされた剣をかわし、その腕をつかみ、流れるように背後に投げ飛ばす!


 突進してきた男をひらりと避けると、足を引っかけ転倒させ、その足をつかんで投げ飛ばす!


 突き出された剣をつかみ、反対の拳で横から殴りつけてへし折り、驚愕している相手の股間を蹴り上げ、くずおれそうになるところをつかみ上げ、背後にぶっきらぼうに投げる!


 誰もが息を呑み、声も出なかった。

 ガロウは無造作に、ゆっくり前進し続けるだけ。

 恐慌状態に陥った騎士たちが次から次へと挑んでは、流れ作業のように床に叩き付けられてゆく。


「……狼嵐おおかみあらしだ……」


 冒険者のひとりが、ぽつりと言った。


 ――嵐。

 なるほど、たしかに言いえて妙だった。

 体重がないかのようにふわりと浮き上がり、次の瞬間、後方に叩き付けられる騎士たち。

 ――まさに、ガロウを中心に吹き荒れる、嵐。


 そのまま虚空に放り投げれば、三階から投げ落とされた者は死んでいたかもしれない。

 だがガロウは、一人もそうしなかった。できたはずなのにやらなかった。おそらく、リトリィとの「ひとを殺さない」という約束を、律義に守っているのだろう。


 そうやって、三階の空中廊下を占領していた騎士たちはガロウ一人によって瞬く間に制圧されてしまった。

 通路の狭さゆえに訓練を積んだ騎士たちの方が冒険者を圧倒できたはずなのに、通路の狭さゆえにガロウに複数人で当たることもできず、一人ひとり、順番に投げ飛ばされてしまったのだ。なんという皮肉な展開なのだろう!


「ば、バケモノめ!」


 兜に立派な飾りをつけている指揮官らしき男が、狭い通路の中で滅茶苦茶に剣を振り回しながら吠える。


「薄汚いケダモノふぜいが! 百騎長の候補にも挙がる気配を何度も感じたことがあると誰もが称賛する、フェクトール様の右腕として覚えめでたき私をけがらわしい手でぶぎゃっ!」

「……さすがに今のクソはぶん殴ってもよかったよな、レンガ割り」


 顔面をぶん殴って沈黙させてから同意を求められても。だがまあ、気持ちはわかる。リトリィも苦笑しているしな。だがそれよりも、いい加減に人の妻をレンガ割りとかいう妙なあだ名で呼ぶな!


「今だ、突入班は突っ切れ! 処理班は起き出しそうなやつから縛り上げろ!」


 今の今まで最前線で戦っていた初老の冒険者の怒鳴り声に、負傷者を含めて、動ける冒険者たちが一斉に走り出した。


 空中廊下を駆け抜け、ドアを蹴破り、冒険者たちは獣人の女性たちが閉じ込められている館になだれ込む。身を起こしかけた騎士には、容赦のない蹴りを浴びせて再び沈黙させることも忘れない。


 廊下から冒険者たちの姿が消えると、暗い廊下には、俺たちとガロウだけが残された。


「……助かった、ガロウ」

「口先の礼などいらん。カネだ。カネを払え」


 ガロウの言葉に、俺はまた驚く。以前会ったときには、カネなどいらない、と言っていたのに。


「うるさい。今は必要なんだ。おいレンガ割り。オレは十分働いただろう。報酬は期待しているぞ」


 ぶっきらぼうなガロウに、リトリィは「だんなさまとの相談のうえで決めますから」と、にっこり微笑んだ。


「あ゛? おい、それはどういう意味だ」

「だいじょうぶですよ。だんなさまは公平なかたですから。お働きに見合った額のお礼を、ちゃんと考えてくださいますよ」


 ……本音を言えばいやだ! コイツになんて一円だって払いたくない! 今だって人の妻をレンガ割りだなんて呼びやがって。

 そう言い返そうとしたときだった。


「リトラエイティル嬢!」


 下から、聞き覚えのある声――あのクソ貴族野郎の声が聞こえてきたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る