第90話:ものの価値
「……なあ、リトリィ。三百マルカって、高いのか?」
「きっ、金貨三百枚ですよ!! た、高いなんてものじゃ――!」
リトリィの話によると、街の人の主食である丸パン一個がおよそ三十ブリンから四十ブリン程度、という金額らしい。うん、ぜんぜんわからん。
「ええと、まず、銅貨で払う金額が、ブリンです。百ブリンで一ゼニン。だいたい、十ゼニンくらいから、銀貨を使いますね。ただ、粗悪なものとか、真っ黒に錆びちゃったものとかだと、価値が下がります。
それで、丸パンに具材を挟んであるものが“サンドイッチ”ですけど、これがだいたい一ゼニンと九十ブリンから、二ゼニンと二十ブリンくらいです」
なるほど、ますますわからん。そもそも、粗悪だとか錆びたからとかいって、貨幣の価値が変わるってどういうことだ、例えば十円玉が真っ青に錆びたとしても十円だろうに。
まあいいや、とにかく二ゼニンあればコンビニでサンドイッチが買えるとすれば、おおざっぱに言って一ゼニンで百円くらいか?
そうすると、百ブリン=一ゼニンということなら、多分百ゼニン=一マルカだろう。ということは、三百マルカは――
「――それで、千ゼニンで一マルカです。さっき例に出した丸パンは、何も挟まなければ法律で値段が決められていますから、さっき言った“サンドイッチ”を買うとしたら、その、ええと……えっと……」
なにやら眉根を寄せて、一生懸命考え始める。……しかし、サンドイッチはともかくとして、マルカが、ゼニンの、千倍!?
「……とにかく、ものすごく、たっくさん買えちゃうんです! すごい額って分かりますか?」
腕を大きく振り回すように訴えるリトリィがおかしくて、つい笑ってしまう。君は、海を知らない子供に海の広さを伝えようとするお姉さんか?
OK分かった。一ゼニンが百円くらいだとしたら、つまり、三百マルカは――と、改めて計算しようとして、すぐにその単純な額の大きさに驚く。
――およそ三千万!?
日本なら家が一軒、建つじゃないか!! うちの事務所なら、三階建てか、ケチりにケチれば二階建ての家が二軒建つぞ!! いったいどんなお宝だったんだ?
「お宝といっても、よく分からない武具とか古道具とか――。がらくたばかりでしたわ」
出たよ主人のコレクションに理解を示さない奥方!
しかも売り払った挙句、庭と家の補修で使い切った!? いったいどんな豪邸なんだ!?
おまけにボランティアで、行政の支援も無しに炊き出し。金がある人間は違う。
「この小屋も、あのひとったらタキイさんの真似をして、『多少の古さはそれも“ワビサビ”だ』なんて言って。
あの人との思い出も確かにあるのですけど、あのひとを亡くしてコレクションも売り払って、でも小屋だけそのままにしておいたら、いつの間にかこんなになっちゃったのよねえ」
――異世界で「詫び寂び」なんて単語を聞くとは思わなかった。でも、瀧井さんの真似か。そう言われると納得してしまう。詫び寂びなんて俺には分からないが、きっと瀧井さんは俳句でもたしなんでいるんだろう。あとで聞いてみるとするか。
「ですから、直したり建て替えたりしてくださるなら、それはそれでありがたいのよ。このままじゃ、いずれ壊れて倒れてしまうでしょうし」
「わかりました。では、予算はいかほど?」
「あら、お金がいるの?」
当たり前やんけ!
……一瞬、思いっきり突っ込みそうになる。
「そうねえ、いまあまり余裕がなくて。五十マルカほどではどうかしら?」
――それでもポンと、五百万ときたもんだ。目が点になる。余裕がなくてそれ?
「あらあら、ナリクァンさんだけでは忍びないわぁ。私も三十マルカほどなら出せるわよ?」
――なるほど、三百万。お小遣い感覚でポンと出せるこの人たちの経済感覚にはついていけない。
「私も混ぜてくださいまし。少ないですけど、二十マルカほどは出せますわ」
――少なくて二百万! しめて一千万円也! なにこのひとたちこわい。
すると、それまで黙って話を聞いていた
「では、私は以前のお話の通り、例の『
と名乗り出る。それに続くようにペリシャさんが、
「では、手続きの書類は私が進めておきますね」
と締めくくるのだった。
「え? 手続きを学びたい、ですって?」
俺の申し出に、ペリシャさんは少し驚いたようだった。
「そんな面倒なこと、私がやっておきますから」
あー、やっぱりお役所手続きってのは面倒くさいのか。じゃあ、ますます知る必要があるな。
「いえ、私も手続きとその手順について、建築士として学んでおきたいと思いまして」
「ああ……そういうことなのですね!」
なぜかリトリィの方を見て納得する。
なぜだ? リトリィはリトリィで、頬を染めてうなずいているし。
城内街の中央通りをまっすぐ進むと、いくつかの城壁をくぐったあと、大きな館が見えてきた。議事堂らしい。昔は、ここに王か領主が住んでいたのかもしれない。
今日は――というよりずっとだろうが、そこに用はない。
用があるのは、最後にくぐった城壁にへばりつくようにしている、これまた大きな建物だ。これが今後、俺の戦場の一つになるであろう、役所なのだそうだ。
「一度で終わらないことが多いですから」
ペリシャさんはそう言って苦笑いした。どこでもお役所仕事というものに付き合うのは、面倒くさいものらしい。
ペリシャさんについて歩いていくと、ある意味見慣れた場所についた。大量の書類の束が壁を埋め尽くし、職員たちが何やらカリカリひたすらになにかを書いている。
カウンターの奥では、仕上がったものを別の机の人間のところに持っていき、確認をしてもらっていたり、サインをもらったりしている人々の姿が見られる。
窓口では、書類に不備があったのか、客が書類らしき紙の束を突っ返されていて、ブツブツ言っていた。
ああ、「市役所」だ。この空気感、雰囲気。
まごうことなき
「ムラタさんは、こういう堅苦しいところは初めてかしら?」
どうも、物珍しそうに見ているところから、そう判断されたらしい。
「ここに来たのは初めてのですが、この雰囲気は、よ〜く存じております」
「あら、ではこれから一枚の書類をもらうたびに一刻ばかりかかるというのも、慣れたものなのかしら?」
「……は?」
結論から言うと、さすがに書類一枚もらうたびに一時間というのは大げさだったが、それにしたって長く待たされるということが分かった。
書類というのも、最初からすべて手紙のような手書きかと覚悟していたが、ちゃんとした様式に基づく印刷物だった。これは少々、意外だった。
まあ、現代のコピー機は当然無理としても、活版印刷自体は、誰かが発想さえすればそう難しいものでもないからな。あとは紙の問題があるだけで。
しかし、ペリシャさんはこの印刷物に俺が驚くことを期待していたみたいで、俺が当たり前のように受け取ったことに驚き、そしてがっかりしていた。
とりあえずは建物を撤去するための申請書と、そのための税の申告書。建物、土地の権利者の一筆のための書類。そして新しく立てる計画の建物に関する申請書と、納める税の申告書。
全部もらうのに二時間以上かかった。
しかも全部違う部署。ああもう、いつも思う。まさに、ほとばしる魂の叫び。
――窓口を一本化しやがれ!
「これでも早いほうでしたよ」
ペリシャさんが言った。
「これでですか?」
「今日は人が少なかったのかしらね?」
ころころと笑う。ああ、可愛らしい女性だ、と思う。瀧井さんはいい奥さんをもらったものだ。
「……これで、すべての書類が集まったってことですか?」
「残念ながら、もう時間が来ていますから。あとは、工事を始めるときの道路使用計画と、戦時下における建物の接収についての同意書と……」
とまあ、さらに必要な書類が提示され、あのクソガキどものせいで拘束されていた時間がいかに貴重であったかを思い知らされたのだった。
夕食は門外街の食堂で済ませた。あの宿の素っ気ない飯よりは、よほどボリュームがあった。いや、部屋自体には文句なんてないんだが。
特にパンが、リトリィの手料理で食べ慣れた、もちもちした、平たい種無しパンだったのが満足だった。
いつの間にかリトリィに餌付けされていた、と思わなくもない。
パンにスープ、蒸した野菜と肉をスパイシーなソースで絡めたもので、シンプルではあったが美味かった。
贅沢を言うなら、油で炒めたらさらに美味いだろうに、と思ったが、もしかしたら炒める、という調理方法が一般的でないのだろうか。
そう思ってリトリィに聞いてみたら、ソテーみたいなものは知っていたが、俺の知っている野菜炒めに相当する料理を、彼女は知らなかった。食用油が貴重品なのかもしれない。バターか脂身が手に入ったら、リトリィに野菜炒めを作ってもらおう。
とにかく、これで一人前七ゼニンと五十ブリン。五十ブリンは席代だという。宿の飯はたしか六ゼニンだったか。しかし飯は美味いに越したことはない。
門外街というのはリトリィを連れていても、ほぼ誰もが気にも止めないのがいい。実際、客の何人かは獣人だったし、スタッフの一人も獣人だった。
あまりの居心地の良さに長居してしまい、すっかり暗くなってしまったが、ペリシャさんも、いいお店を紹介してくれたものだ。
また来ることにしよう。
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