第389話:がんばりました
マイセルが準備してくれていた夕食を三人で食べながら、俺はあらためて、三人で過ごす幸せをかみしめていた。
大きな鍋の中には、具だくさんのシチュー。なんと厚切りの
ほかにも、わざわざ夕方に焼いたらしい焼きたてのパン、芋の煮物、煮魚など。
この世界には「○○のタレ」とか「○○の素」みたいなものはないから、全て手作りだ。しかもマイセルひとりの手で。
きっと、俺たちが揃って帰って来ることを見越して、お祝いのつもりで準備してくれたのだろう。その心がけには、頭が下がる思いだ。
リトリィがいつものエプロンを着けて、しっぽを揺らしながらおかわりを盛りつけてくれる。おかわりして食べる俺に、作ったマイセルが嬉しそうに「おいしいですか?」と問いかけてくる。
もちろん答えは一択だ。
「ああ、うまい。ありがとう、マイセル」
「えへへ、おかわりいっぱいありますから! お姉さまも、どうぞ!」
「ええ、ありがとう、マイセルちゃん」
帰ったら、待ってくれている人がいる。
温かい食事が用意されている。
それが、どんなに幸せなことか。
改めて、思い知らされた。
「……そうか。やっぱりマイセルが呼んでくれたんだな」
月明かりの中、寒さに似合わぬ汗を浮かべながらコップを傾けてゆくマイセル。
口の端からこぼれた水があごを伝って落ち、リトリィと違って控えめな胸の上を滑ってゆくと、その色の薄い尖端からシーツへとしたたり落ちる。
「――はい。がんばりました」
口元を拭いながら微笑むマイセル。
俺も、先に彼女から渡されたコップをあおると、その肩を抱き寄せた。
上気した頬には乱れた栗色の髪が汗で張り付き、ともすればどこか幼ささえ感じさせる彼女の横顔を、ひどく艶めかしいものにしている。
マイセルは俺に体を預けるようにすると、背中越しに俺を見上げた。その桜色の唇を、そっとふさぐ。
今回、マイセルはあの貴族の館での騒動に直接関わったわけではなかったが、ナリクァンさんをあの場に引っ張り出すという、最高の働きをしてみせた。ナリクァンさんがあのタイミングで屋敷に来てくれたのは、彼女のおかげだったのだ。
あの屋敷に突入する寸前に駆けつけてくれたマイセル。ナリクァンさんのサポートは、騒動が終わってからでなければ得られないということを俺に伝えたあと、もう一度ナリクァンさんの所に走ってくれたのだという。
「……だってあのままじゃ、絶対にムラタさんもお姉さまも帰って来れないって思いましたから」
「どうしてそう思ったんだ?」
「お貴族様のお屋敷に忍び込むんですよ? 何事もなく、無事に帰ってこれるって思うほうが不思議です」
ただ、そう思えたのはナリクァンさんにそう諭されたからですけどね――そう言って、マイセルは舌を出して肩をすくめてみせた。
「ムラタさんがお屋敷に飛び込んでいったあと、やっぱり怖くなって。それでナリクァンさんのお屋敷に走ったんです」
二度目にナリクァンさんの屋敷に飛び込んだとき、最初は先に約束したこと以上のことはできない、と、実に冷たく断られたという。どうしてもというなら、我が商会の利益になる話をもってくることです――そう言われて、途方に暮れたという。
「でも、一生懸命お話していたら、だったら私は家で、帰って来るムラタさんたちにおいしいものを作って待っていなさいって。それが条件ですって」
……ナリクァンさん、マイセルにはえらく優しいじゃないですか。まあ、俺のときには男ゆえに条件が厳しかったというだけなのかもしれませんけどねッ!?
「貴族はメンツの生き物だから、メンツを潰されたとあっては絶対にムラタさんのことを何かの形で吊るし上げるだろうって。私が関われるのはその瞬間だろうって、ナリクァンさんはおっしゃったんです」
なるほど、元貴族のナリクァンさんが言うならその通りなのかもしれない。でも、その場で殺されるより吊るし上げられるということを予想したのはなぜだろう。
「大工ギルドをはじめとしたギルドに対して優位に立つために、きっとそうするはずだっておっしゃっていました」
なるほど、俺がしでかしたことをギルド全体の責任として押し付けることで、貴族といえどもうかつにギルドに手出しできない今のパワーバランスをひっくり返す、その口実にされかねなかったわけか。
って、ちょっと待て。奴がリトリィをさらったことはお咎めなしで、俺が侵入したことだけが問題にされるところだったってことか? そりゃないぜ、やっぱり貴族って連中は横暴だ。
「それにしても、マイセルは街のこととか貴族のこととか、いろいろと詳しいんだな。驚いたよ」
「そ、そんなことないです。ナリクァンさんに色々教えてもらったからで……」
はにかむマイセルもまた、可愛い。
可愛いが、今回の騒動の大きさのことを考えると、ため息が出てしまう。
「マイセルは謙虚だな。ありがとう、マイセル。――でも、もうこの街で建築をやっていくことは難しいかもしれないな」
きょとんとするマイセルに、俺は苦笑いをして続けた。
「今回は問題を大きくし過ぎてしまったからな。大工ギルドともうまくいっていない上に、貴族にも喧嘩を売った。――敵を作ってしまったんだよ、それもでっかい敵をね……」
「そんな! 大丈夫ですよ、それにお父さんなら――」
「だからだよ。このままこの街にいたらマレットさんに迷惑がかかりかねない。どこか別の街でも引っ越した方がいいかもしれないな」
なんなら俺だけでもしばらくほとぼりが冷めるまで――そう言いかけたら、それまで俺にもたれかかっていたマイセルが急に身を起こし、飛びついてきた。
「どうしてそんなことを言うんですか! ムラタさんに悪かったことなんて、何一つなかったでしょう!? それなのにどうしてムラタさんが街を出ていくなんて、そんな話になるんですか!」
爪を立てられている肩が痛い。だが、それも仕方ないだろうと甘んじて受け入れた。さっきの自分の言葉は失言だったと恥じ入る。自分のことを愛してくれている二人を置いて街を出る――そんなことを言えば、取り乱すのも当然だろう。
「ははは……マイセルは優しいな。優しくて、可愛い」
すがりつくようにして肩を震わせる彼女の、栗色の髪をそっと撫でる。
「ムラタさん! そんなふうにごまかすようなこと、言わないでください! 私は真剣に……!」
「分かってるって」
月明かりの中、揺れる瞳からこぼれた雫をそっと舐め取る。少し、しょっぱい。
「ひゃん――」
「君が俺のことを真剣に愛してくれていること――リトリィのことを真剣に慕ってくれていること、よく分かってる。君が必死に走り回ってくれたからこそ、今こうして三人で一緒にいられるんだからな。――本当によく頑張ってくれたね。ありがとう、マイセル」
すると彼女は急に顔をくしゃくしゃにして、またポロポロと涙をこぼし始めた。
「本当に……本当によかった! ムラタさんもお姉さまも無事で……! お二人を待っている間、本当に怖かったんですからね……!」
「ああ、ごめん。心配をかけた。――すまない」
珍しく隣で眠っているリトリィを見やりながら、俺は泣きじゃくるマイセルの頭を撫で続けた。
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