第655話:天使みたいな

「男の子ってかわいいですね。天使みたいでした。わたしも、黒髪に黒いひとみの、あなたそっくりの仔がほしいです!」


 リトリィが、弾んだ声で言えば、マイセルは「……男の子は、お兄ちゃんでもう、お腹いっぱいかなあ」と引きつった笑みを作る。マイセルにはハマーという兄貴がいたから、色々とリアルで面白くない思い出があるのだろう。


「……どっちができるかは、神様の思し召しだからな」


 俺が逃げを打つと、リトリィは「では、わたしはキーファウンタさまの神殿に毎日通って、だんなさまそっくりの男の子をくださいっておねがいします!」と意気込んでみせる。


「……それは、神様の思し召しだって言ったろう? 神様の決定に横槍を入れようとするのは、むしろ不敬じゃないのか?」

「で、でも、それくらいは……」

「俺たちが願ってもいいのは、俺たちに子供が来てくれること──それくらいじゃないか?」


 しゅん、とリトリィがうつむき、耳がしおれ、しっぽも力なく垂れ下がる様子を見て、俺は慌てて言葉を付け足した。


「……神殿まで押し掛けるのはどうかと思うけれど、愛し合うたびに子供を願うのは自然なことだと思うから、その時に強く思いを込めるようにすればいいんじゃないかな?」


 その言葉に、リトリィはすがるように俺を見上げて飛びつくものだから、「……多分」とまた逃げたけれど、リトリィは目をきらきらさせて、声を弾ませた。


「では、そうします! これからは毎晩、愛していただくたびにキーファウンタさまにおねがいします!」




 なぜこんなやり取りになったのか。それは、救貧院きゅうひんいんからの帰り道に、あえて例の父子の家に寄ってみたからだ。

 マイセルの出産に間に合わなかった原因のひとつであり、俺が今日、救貧院きゅうひんいんのありさまを目にする動機にもなった、例の父子だ。


 俺がどうして一カ月にわたって、不定期とはいえ放っておけずにいたのか、それを見てもらいたかった。もちろん、ただの自己満足にすぎないだろう。あの救貧院きゅうひんいんを見る間でもなく、そもそもヒッグスとニューとリノを引き取ったことを考えれば、この父子を上回る悲惨な境遇で生きているひとたちは、この街にいくらでもいるはずなんだ。


 それでも、見てもらいたかった。もしかしたら、「よくあることですよ?」などとあきれられるかもしれなかったが、それでもだ。


「どうも、スティフさん。ムラタです。入ってもよろしいですか」


 俺がドアの前で声をかけると、ドアの向こうから歓声が聞こえてきた。


「おじちゃん、もう来てくれたの!」


 開けられたドアのすき間から、弟のエンフティが嬉しそうにこちらを見上げ──「おじちゃん、そこの犬のひとはだあれ?」と、不思議そうに首をかしげた。


「おじさんの奥さんだよ。どうだい、綺麗な人だろう」

「ええ? おじさん、頭だいじょうぶ? だってこのひと、犬属人ドーグリングじゃないか」


 後から顔を突き出してきたのは、兄のツークだった。……が、のっけから言いやがったこの坊主。この期に及んで、世話になったひとの奥さんを指して「頭だいじょうぶ?」か。なかなか差別的偏見ってのは根深いものだ、こんな子供までもが。


「そうだよ。どうだい、こんなに綺麗な金色の毛並みなんて、見たことないだろう? おじさんの自慢の奥さんさ」


 あえてそう言ってやると、エンフティがドアから出てきて、リトリィのそばに寄ってきた。


「……ほんとだ、こんな色のひと、みたことない。きらきらしてる……! ねえ、兄ちゃん。すごいよ、このひとすごいきれいだよ! きらきらしてて、天使みたい!」


 うろたえたのはリトリィだ。俺に褒められるのは慣れているのかもしれないが、俺以外の他人から素直に称賛されるのは、慣れていないようだった。恥ずかしそうに俺の後ろに隠れようとしたが、そのまえにエンフティが飛びつくようにしたのは、リトリィの長いしっぽだった。


「お、おい! なにやってんだよ! エンフティ、戻って来いよ!」

「どうして? こんなにきれいなのに。それに、おじちゃんのおくさんだよ? ぜったいやさしいひとだよ!」


 慌てるツークだが、エンフティは、リトリィが困ったようにつかまれまいとして動かすしっぽをつかもうとして、楽しそうに手を伸ばしている。


「だ、だんなさま……?」


 困惑するリトリィが可愛らしくてもう少し眺めていたかったが、「きっと触らせてやったら満足するよ」と助言すると、リトリィは根負けしたような顔でしっぽを下ろした。歓声を上げて、しっぽをつかむエンフティ。


「わあい! 兄ちゃん、しっぽ、ふかふか! ふかふかだよ! きもちいいよ!」


 そういえば、うちのちび達も、リトリィのしっぽにくるまれるのが好きだっけ。もふもふでふかふかというのは、子供たちにとって魅力的なんだろうな。

 ……俺ももちろん大好きだ!


「ツーク、お前も本当は触ってみたいんだろう? 俺が特別に許可する。触らせてもらうといい」


 俺が言うと、ツークはおずおずとドアから出てきて、リトリィのしっぽに触り始めた。街に住んでいる獣人族ベスティリングの女性は、基本的にみな、しっぽを尾飾りの布で包んでいる。だから、リトリィのように晒しているのはわずかだ。


 リトリィによると、人前でしっぽを晒すのは、通常は新婚から子供を授かるまでだけだという。まして原初のプリム・獣人族ベスティリングとされるリトリィと同等のふかふかな毛並みのしっぽなど、俺もこの街で見かけたことがない。おそらく少年たちも、見たことがないはずだ。


「スティフさん、入りますね」

「どうぞ、お入りください。いつもお世話をかけますね」


 咳き込む音と一緒に、部屋の奥から、弱々しい男の声が返ってきた。俺たちを出迎えた子供たちの父親だ。「入らせてもらおう」と、マイセルとリトリィに声をかける。


 リトリィは相変わらず苦笑いを浮かべつつ、でも少年たちのなすがままにしっぽを触らせてやっている。そういえば俺がこの世界に来たばかりのころ、リトリィのしっぽを触らせてもらったときも、はじめはいい顔をされなかった気がする。特に付け根の裏側は「感じる」ところだから、思いっきり引っぱたかれたっけ。


 家に入ると、俺はいつものようにスティフさんに聞いてみた。


「どうです? 体調はいかがですか?」

「そうですね……。今日は少し、気分がすぐれませんが……」


 苦笑いをしつつ、彼はリトリィたちを見た。

 二人は部屋を見回し、少し引いている様子だった。俺もだいぶ掃除はしたんだけど、このカビ臭い部屋の空気はやはり変わらない。そもそもベッドがカビ臭いのだからどうしょうもない。


 床にはゴミや干からびた食べかすのようなものがあちこちに散らばっているし、カサカサと黒い親指大の羽虫とかが見られたりする。俺が初めて見たときよりはだいぶマシになったとはいえ、綺麗好きな二人には耐え難い環境だろう。

 そんな二人を、スティフさんは訝しげに見た。


「……この人たちは……?」

「ああ、お騒がせしてすみません。彼女たちは、私の身内です」

「身内……」


 スティフさんは言いかけて、一瞬、顔をしかめた。さっきは気分が優れないと言っていたし、体調が良くないのだろう。


「すみません。体調が思わしくないときに訪問してしまいまして。こっちはちょっとした食べ物です。日持ちするものを選んでますから、また召し上がってください」


 俺は紙袋をテーブルに置く。少年たちが歓声を上げて飛びつくのが、また胸痛む思いだ。初めて出会ったときは、子供たちもガリガリに痩せていて、いつ餓死してもおかしくないありさまだった。それを思えば、今はだいぶマシだとはいえ、やはり哀れだと思う。


「ねえ、兄ちゃん! 見てよ! ほら、乾燥果実! わぁい、ねえ、食べていい?」


 それまでずっとリトリィのしっぽにしがみつくようにしていたエンフティが、ようやくしっぽを放して無邪気にはしゃぐ。それに対して、ツークが兄貴らしく「おい、お礼を言ってからだろ」とたしなめる。


 そんな姿を見て、またため息が出る。せめてこの子たちが、うちで引き取ったヒッグスたちくらい大きければ、(児童労働とはいえ)働いて日銭を稼ぐことくらいはできたかもしれない。


 だが、これだけ小さいと、煙突掃除か排水溝のドブさらいか、あるいはごみ拾いか。いずれにしても、危険で、しかも実入りの少ない、使い捨てにされるような仕事しかないだろう。


 しかも、どんな扱いをされても、保護者が寝込んでいて外に出られないときた。何かあっても、抗議すらできそうにない。ろくでもない未来ばかりが想像される。


「じゃあ、また来ますね」


 俺が笑顔で手を挙げると、少年たち二人も、嬉しそうに手を挙げてみせた。


 その無邪気な姿に、俺はまた、胸の奥が痛む思いになる。あの子たち全員が幸せになれる道筋が、思い浮かばないからだ。


「それにしても、大変そうではありましたし、ムラタさんがほだされるのも分かる気はするんですけど……」


 マイセルが沈痛な表情で振り返る。


「でも、やっぱり、ムラタさんがやらなきゃならないことなんですか? その、ああいった家は──」


 言いかけたマイセルだったが、手を振り終えたリトリィが、実に楽しそうに振り返って、弾んだ声で言ったのだった。


「男の子ってかわいいですね。天使みたいでした。わたしも、黒髪に黒いひとみの、あなたそっくりの仔がほしいです!」


 ──ああ、本当に君は、天使みたいなひとだよ。



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