第654話:あなたが望むから

「ここが、救貧院きゅうひんいん……」


『行き倒れてしまったひと、あるいは病気やけがでいくばくもないひと、ケガをしたひと……けれど、手当てをしてくれるひとも看取ってくれるひともない、お金もなければ行く当てもない……そんなひとを受け入れる場所っスね』


 家を出る前に言っていたフェルミの、胸に刺さる言葉が思い出される。本当に崖っぷちのひとが利用する場所ってことか。


「崖っぷち……そう言われると、そうかもしれませんね」


 俺の独り言に、マイセルがため息をついた。

 リトリィは、さっきから渋い顔をしている。

 鼻が敏感な彼女には辛かろう。


 俺はただただ驚くばかりだった。

 建物自体、それほど大きいものでもなかったが、環境があまりにもよくなかったのだ。


 案内の老婆とともに館内を見て廻ったのだが、床が腐っているのか、あちこちがギシギシときしむ上に、場所によっては酷くたわむ。


 時折ネズミが床を走るかと思えば、ムカデが物陰からひょっこり姿を見せ、ハエのような羽虫は飛び回り、いつ体を洗ったのか分からない汚れきった人々の体からは、得体のしれないすえたような匂いが鼻を突く。


 板の上に直接シーツを敷いたかのような、固そうなベッドに寝かされた人々。うめき声を上げているが、何を訴えているのか、翻訳首輪を通しているはずなのに聞き取れない。骨と皮ばかりの痩せ衰えた男が、虚ろな目を天井に向けたまま、瀉血しゃけつを受けている。


 瀉血しゃけつというのは、「汚れた血を捨てる」という医療行為の一種なのだが、効果はほぼないとされる、過去の技術だ。地球の歴史上でも、ヨーロッパでは医療行為として広く行われてきた瀉血だけれど、なぜ血を捨てることが医療行為だと思われていたかといえば、血液は「使い捨て」であり、循環しているということがまだ理解されていない時代だったからだ。

 この世界でもその辺りは共通した理解のようで、一般的な医療行為らしい。


 日本でも一時期、血液クレンジングとかいう行為が流行ったことがあったけれど、もちろん意味なんてほぼない、迷信に近い擬似医療といってもいい行為だ。たしか芸能人がそれを受けているとかいって、話題になったのを覚えている。健康のためなら死んでもいいという世迷い言があるけれど、いつの時代も怪しい医療は、一部の人を惹きつけてやまないようだ。


 そして、見た目からは何を溶かし込んであるのかも分からない、茶色のドロドロのスープもどきを、小さな椀に半分ほど。それが、一人あたりの食事。

 何が悲しいって、それを提供する側も、受け取る側も、喜びに満ちた顔であるということだ。パンすらも出ないのは、間違いなくパンを振舞うだけの金銭的余裕がないからだろう。が、この得体のしれないスープでもありがたく受け取れるほど、ここにいるひとたちは貧しく苦しい生活を送ってきたのだということが分かる。


 これが、行き場のない人を受け入れる場だというのだろうか。


 以前、大怪我を負ったとき、リトリィとマイセルに「病院はないのか」と聞いて、相当する施設がこの救貧院きゅうひんいんであると聞かされ、なぜそこに俺を連れて行かなかったのかと聞いたら激怒されたが、その理由がやっと分かったよ。


『わ、わたしたちが、自分のだんなさまを救貧院きゅうひんいんにおくりこむなんて、そんなこと、するわけないじゃないですか!』


 リトリィの激怒と悲痛な叫びを思い出す。自分で言うのもなんだが、俺のことを愛してくれている妻二人が激怒して当然だと思った。俺だってこのありさまを知っていたら、自分を救貧院きゅうひんいんに送って治療してもらえ、なんて、口が裂けても言わなかっただろう。

 それくらいに、酷かった。


 確かに、誰にも看取られずに朽ち果てる最期を迎えるよりはマシなのかもしれない。だが、その程度の価値しかない場所だとしか思えなかった。

 もちろん、俺だってそこで働く人々をむやみに侮辱したいわけじゃない。けれど、俺が想像する「福祉施設」とは似もつかぬ現実がそこにあった。


 あの孤児院──『恩寵おんちょうの家』が改善される前のありさまを思い返せば、この世界の「利潤を追求しない福祉事業」がいかなものかなんて、想像できてしかるべきだったのだ。


「今日はお越しいただきありがとうございます。寄付に込められたあなたの愛は、仕える神は違えども必ずや天に届いたことでしょう」


 尼僧の微笑みは確かに尊い。ここに収容されている貧しい人々に対し、真摯に向き合っているのだろう。


 収容した孤児に対して「使える技能」を身につけさせる教育を施し、その代わり成長した暁には自身の運営する事業の格安の労働力として、子供たちを利用していたゲシュツァー氏の姿が思い浮かぶ。


 あの孤児院『神の慈悲は其を信じる者へ』には、子供もゲシュツァー氏も意識していなかったが、間違いなく搾取の構造が出来上がっていた。一部の少女は、快適な環境と引き換えに性的な虐待を受けていたりもした。


 それでも、あの子供たちは、望んであの環境にいた。

 あの工場に閉じ込められるようにして働いていたひとたちも、多くは望んであの環境にいた。


 そうなのだ。

 小ざっぱりとした服を着せられ、食事も行き届き、健康的に過ごしていた大部分の子供たちを思えば、この救貧院きゅうひんいんよりもはるかにましだと思えてしまうのだ。


 俺は、暗澹とした気にさせられた。自分の甘さ、無力さに。例の貧しい父子は、あのままではいられないだろう。だからといって、あの子供たちを孤児院に預け、あの父親をここに入れたら、健康を取り戻せるのだろうか。あの出来損ないのシチューのようなドロリとしたスープで、元気になれるのだろうか。緩慢とした死を待つことにならないだろうか。


 あの子供たちは、もしかしたら離ればなれになったまま、父親との永遠の別れを迎えてしまうのではないだろうか。そんなことを考えると、とてもこの救貧院きゅうひんいんにあの父親を預けるなんて選択肢は選べないのだ。ここは、孤独な死を恐れるひとが最期を看取ってもらうホスピスのようなもの、と割り切るべきなのかもしれない。




「……どうでしたか?」


 リトリィが、そっと俺の顔色をうかがう。そうさせてしまうほど、俺は不機嫌そうな顔をしていたのだろうか。


「ありがとう、百聞は一見に如かずというけれど、まさにそれだな。以前、君たちが俺をここに送り込むなんて妻の恥だ、と激怒した気持ちが、やっと分かったよ」


 マイセルが、俺の言葉にうんうんと大きくうなずいている。


「ただ……」


 俺は、それでも、言いたかったんだ。


「ただ、それでもここは、求められる救いの場なんだ。あの中にいるひとたちにとっては、あの環境でさえ、救いなんだ。俺は、それがたまらなく悲しい」

「ムラタさん……」


 マイセルが顔を歪める。


「気持ちは分かりますけど、でも、私たちにもできることとできないことが──」

「それは分かる。分かるんだけど、な……」


 救貧院きゅうひんいん──人々の最後のセーフティネットであるはずの場は、最期を孤独に迎えないためだけのような場になっている。俺に出せるお金なんて大したことなくて、俺にできることだって、やっぱり大したことない。


『……見ちまったんだ、しょうがねえだろ』


 リファルの言葉が思い出される。

 そうなんだ、見てしまったんだ。

 だから、リトリィも、マイセルも、ヒッグスとニューとリノも、フェルミも、俺は、その人生を引き受けたんだ。


 ──見てしまったんだ。あの絶望的な環境で、それでも救われたと安堵する顔を。

 歯噛みする俺の顔を、リトリィが左隣から、のぞき込むように見上げた。


「……ふふ、だんなさま。リトリィは、どこまでもお供いたしますとも」


 微笑む彼女は、俺の頬に口づけをして、そして続けた。


「だって、だんなさまがそれを望まれるのですから。だんなさまがお悩みになるときは、いつも、それがだれかのしあわせにつながっています。ですからわたしは、だんなさまの妻として、どこまでもだんなさまのお供をいたします」

「わ、私も、ムラタさんがやりたいっていうことがあるなら、がんばりますよ!」


 右隣から、腕にぎゅっとしがみつくようにして、マイセルが力強く言う。リトリィに対抗しているのだろうか。そんな姿もまた、微笑ましい。


「……ふたりとも、ありがとう。といっても、まだ何かを思いついているわけじゃないんだけどな」

「だいじょうぶです」


 リトリィが、しっぽをふわりと腰に絡めてくる。


「あなたが、そう望まれるのですから。あなたを信じて、わたしもごいっしょいたします。──どこまででも」



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