閑話⑦:一人寝のリトリィ(1/2).
※ 読まなくとも、この話以降を楽しむことにおおよそ支障はありません。
――――――――――
月を見上げながら、リトリィは昼間、親方が鉄を叩きながら言った言葉を思い出す。
『いいか、ウチのことは気にするな。おめぇはただ、自分が良しと思うことをすればいい』
リトリィは、今は自分のもとを離れて、街で小屋づくりを進めているであろう男のことを想っていた。
――ムラタさん。
彼に愛されるようになり、以前よりずっと親密になったはずなのだが、彼女は彼を「ムラタさん」と呼ぶ。
理由は簡単、彼を示す語を、それ以外、知らないからだ。それ以上を、彼女は知らない。
どんな人柄の人間かは知っていても、彼の背景を何も知らないのだ。
ムラタ――
そんな基本的なことも、知らない。
本当は知りたいのだが、リトリィはずっと、ムラタ以外の呼び方を聞く気にはなれなかった。
聞くことを恐れていた、と言ってもいい。
彼は初めて会った時、戸惑いながら、「ムラタセェサク」と名乗り、リトリィが発音しづらそうにしたのを見て、「ムラタ」と名乗り直した。
以来、親方にも「ムラタ」以外を名乗っていない。
氏も姓も名乗らず、ただ「ムラタ」とだけ名乗り、以後、何も言わない。
自分が本名――リトラエイティルを名乗っても、彼は自分の氏も姓も名乗らなかった。ということはおそらく、通名なのだろう、とリトリィは判断している。
たぶん、もし、こちらから聞かなければ、きっと名も当然、明かしてもらえないのだ。
あれだけ肌を重ねても、未だ自分は、彼の核心に迫ることができていないのだ、ということに、胸が痛くなる。
もしかしたら、聞けばすんなり教えてくれるのかもしれない。
だが、もし――もし彼の中で、本名を名乗ることが禁忌だったのだとしたら。
その禁忌を破れと要求するに等しいことを求める自分を、
やっと――やっと彼と一つになれたのだ。
彼のそばで生きていくことに、希望を見出すことができるようになったのだ。
彼を知りたい――その冒険で、彼の愛を失うことになるかもしれないなら、踏み込まない方がいい。
そう考えてしまうから、リトリィはどうしても、彼の名を尋ねることができないのである。
――相手の本当の名を知ることすらも恐れていて、それで本当に妻と言えるのか。
何かが自分をあざ笑っているような気がする。
「ムラタさん――わたしは、いつになったら、あなたのおそばに、安心して置いてもらえるようになるんですか?」
帯――
彼に愛されるようになってから、なんとなく癖になってきたこの行為。
愛し合うときには必ず巻いているこの帯のことを、ムラタはときどき、なにやら聞きたそうにしていた。
聞かれたら答えるつもりだが、ただ、そうすると、どうして結ばれる前からずっとこれを腰に巻いていたのかと聞かれてしまったら、もう最初から肉体関係を期待していたなど、恥ずかしくて言えない。
彼のそばを離れるなど、もはや彼女自身が考えられなかった。
初めて結ばれた夜、彼は自分にひどいことをしたと思い込んで謝ってきたが、彼女にしてみれば、ずっと望んできたことだ。男性が女性に対して、時に乱暴な行動をとることも、経験として知っていた。
リトリィ自身は痛みに耐えることに必死だったが、それでも、ついに想いが通じたという感謝すらあったというのに。
だからリトリィは、以来、彼の仔を得るために必死だった。
彼が、やっと自分を選んでくれたのだ。
あの人が――慎重すぎるほどに奥手な、あの人が。
一滴でも多く。一滴でも奥に。
はやく彼の
自分には時間がないのだ、なんとかして彼の血を繋ぐ女になりたい。
あの誠実な彼のこと、仔さえできれば、きっと、ずっと自分をそばに置いてくれるはず――。
リトリィが毎晩、精の一滴すらも出なくなるまで彼の上にまたがっていたのは、ひとえにそれが理由だった。
もしも仔ができなければ、見限られても文句は言えない。彼だって、この世界で生きていくならば、仔を産み血を繋ぐ女を妻に迎えたいはずだ。
だから、なんとしても仔――できれば男の仔が欲しかった。彼そっくりの、元気な仔。彼の血を残したと、胸を張って言える男の仔。
そうすれば、仔を産めなくなってからも、母として、彼のそばで生きていける。
そっと、奥に手を滑らせる。彼の感触を思い出しながら。
あれだけ愛し合ったのだ、できていてほしい。彼に、できたノコギリをもって逢いに行くときには、仔ができたと、一緒に報告できたらいいのに。
ほこりと泥にまみれ、孤児同士、肩を寄せ合ってかろうじて生きてきた幼少時代。
浮浪児狩りに追われ、次々に仲間が捕らわれる中、必死に逃げ、かくまわれたと思ったその先で奴隷にされかけた自分を救ってくれた親方――父には、どれだけ感謝しても、し足りない。
だが、それでも、リトリィにとってムラタは特別だった。
ムラタは自分のことを卑下する癖があるようだが、リトリィにとってはそれが歯がゆくて仕方がない。
――どうして彼は、自分の価値を低く見るのだろう。
あんなに素敵な人を、リトリィは他に知らない。
奢らず、控えめで、女で獣人の自分をも尊重してくれる。むしろ、彼自身よりもなお価値あるものとして扱ってすらいるように思う。
そんな男性を、リトリィは見たことがない。
この家の家族はリトリィを尊重してくれているが、それでもやはり年長者であり、男性だ。
それに対してムラタは、誤解に基づく邂逅はともかく、それ以後は一個人として尊重してくれた。むしろリトリィの地位向上のために働きかけ、そして対等に扱ってくれた。そしてそれが、彼にとっての当たり前のようであった。
いつだったか、親方がリトリィをわざとケモノ呼ばわりし、ムラタの好意的な扱い方をからかったとき、ムラタは親方に向かって真正面からこう言ったことを思い出す。
『その言葉は、彼女に対する著しい侮辱と受け止めますが?』
あの言葉は本当に衝撃的で、一瞬、それが彼女を擁護し、父親を非難する言葉だということを、理解することができなかった。
そして、その意味を理解できたとき、彼の言葉が、思いが、本当に嬉しく感じられた。
自分が侮辱されたわけでもないのに、まるで自分のことのように、父に対して真っ向から怒りをあらわにした、あの姿。
自分が獣人で、劣情を処理する相手としても下級の存在扱いであるということは、なんとなく理解していた。
男性器を咥えるという、屈辱的な行為すら、むしろ
そんな自分を、ムラタは対等の存在として、いやそれ以上の存在として尊重してくれている。
きっとムラタは誰にでも優しいのだろうし、きっと自分以外の――
そうやって、真剣に悩んだこともあった。
だからこそ、彼を本気にさせたくて――なんとかして彼の愛を得ようとして、あがいたのだ。
こうして彼と離れている間にも、もしかしたら、彼は、その優しさを誰かに発揮しているのかもしれない。
彼にとってはきっと、それが自然なのだろう。
相手が誰であっても、あの人は、きっと優しいのだ。
――いやだ。
胸が締め付けられる。
――いやだ、彼の優しさが向けられるのは、自分だけであってほしい。
自分の考えが身勝手で醜いのは、十分に理解している。
それでも。
それでも、彼女は願わずにいられないのだ。
わたしの――わたしだけの、あなたで、いてください。
指に絡みつく蜜を、そっと舐め取る。彼が、恋しい。
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