閑話⑦:一人寝のリトリィ(2/2).
※ 時系列的には42話を回想するところからです。
※ 読まなくとも、この話以降を楽しむことにおおよそ支障はありません。
――――――――――
あの夜。
外で月を見上げる彼の元に行ったとき――
あの時、リトリィはもちろん、顔から火が出る勢いで恥ずかしい思いをしたし、家族に見つからないように、知っている限りのあらゆる神に祈りながらだった。
そうまでしてでも、彼の愛をなんとかして手に入れたかった。
だから、彼女はその、ほぼ全裸という姿で、彼のもとに踏み込んだのだ。
結果、彼女が思った通り、ムラタは、彼女の体のある一点を思いっきり見つめてきた。そして慌てたように視線をそらそうとして、しかしまた最初の位置に視線を戻していた、あの態度。
あの、繰り返された挙動不審な態度に、そんなに見たいのなら誤魔化さずに見てくれればいいのに、と、内心あきれたのも事実だ。
リトリィにしてみれば、見せたいから、あの姿だったのだ。見せて、その気になってもらって、抱かれたいと考えていたから、恥ずかしい思いを必死に乗り越えたのだ。
それでも、全裸同然の姿で外に出る――何度、玄関のドアノブを握りかけ、そしてためらったことか。
だが、それでもムラタは、手を出さなかった。彼が心を乱した時には押し倒してきたりもしたが、しかしそこまでで終わってしまった。
それどころか、
リトリィにとって、それは衝撃だった。
わざと「見てるだけ」と言ってみせたが、もちろんそうやって煽ったつもりなのだ。
それなのに――ほぼ全裸の女が、自ら進んで体を絡みつかせているというのに、手を出さない。
信じられなかった。
あんなに恥ずかしげもなく硬くしておいて、それでもなお、指一本、自分から触れようとしない人がいる。
そしてそれは、よりにもよって、自分が絡みついてみせている、自分の想い人なのだ。
彼が奥手なのはもう十分に分かっていたつもりだった。
だが、この格好なら、いくら彼でも、求められていることに気づいてくれるだろう。
仮に――もし仮に、まだ愛をもらえなかったとしても、一夜限りのお情けくらいはいただけるはず。そうしたら、それを足掛かりに、もうすこしばかり、彼の寵愛を。
そう思っていたのに。
――こんな人のそばに、自分がいてもいいのだろうか。
リトリィは、その瞬間、
体で誘うしか、男性の歓心を買う方法を知らない女だと、彼は軽蔑したのではないかと。
むしろ、体を使えば男は転ぶ――そんな扱いを受けたことに、怒りを覚えたのではないかと。
彼に、嫌われたのではないかと――
そのような考えに至った時の恐怖は、今思い出すだけでも背筋が凍る。
実際、あのあと彼に距離を置かれ、本当に苦しいひと月を過ごす羽目になった。
もしアイネが入ってこなかったら、自分はあの時に、彼と結ばれていただろうか。――それは分からない。
ただ、もし結ばれてしまっていたら、あのあとのひと月は、より絶望が深くなっていただろう、とは思う。
それでも――それでも、彼ともっと早く結ばれたかった。そうしたら、もっとたくさん種をもらえただろうし、そうしたら、彼の仔を授かる確率も上げられただろう。
彼の仔を孕んでこの家に帰ってきていたら、父も、まさかこのような仕打ちはしなかったのではないか。彼のそばに寄り添うことを、素直に認めてくれたのではないだろうか。
そう考えて、リトリィは自分の考えを恥じる。
どうせあの父のことだ、腹に仔がいようがいまいが、どうせこうなっていたに違いない。むしろ、仔ができたのなら、もうそばにいる必要もなくなったとか言って、当たり前のように、今の状況に放り込んだかもしれない。
それに父は、自分をいじめているわけではない。夕食後、兄たちを鍛冶場に入れず、自分だけにあれこれと教えてくれるのは、つまり、見て覚えろから、叩き込むという方針に変えたためだろう。
時間が、もうないから。
――父は多分、二度と自分がこの家に帰ってこなくても、腕一本で生計を立てていけるように、その技を教えてくれているのだ。
自分を、彼のそばで生きて行けるようするために。
容赦なく脳天に振り下ろされるげんこつも、この家を出てしまったら、もう、二度と
ムラタはリトリィにとって、本当に眩しい存在だった。
あの、食事に誘ってもらえた瞬間。
あの時から、彼女の心はもう、決まっていた。
恋に落ちる――絵物語でしか知りえなかった世界を、リトリィは、ムラタから与えられた。そう、確信した。
だから、いまさら彼の寵愛を受けられなくなるなど、リトリィにとって、考えたくもない悪夢なのだ。
『どうして俺を』
ムラタの問いに、リトリィは自信をもって答えた。
「理由なんてない」
本当は、理由を挙げようと思えばいくらでも挙げられる。それこそ、数限りなく。
けれど、どれが決定打になったか、と聞かれたら、たった一つ。
あのとき、食事に誘ってもらえた。
その一点に尽きる。
あのとき、目を開かされたと、リトリィは信じている。
人を好きになる、という世界に向けて。
そう、好きだ。
大好きだ。
あの日から、もう、自分はこの人の元に嫁ぐのだ――リトリィは、そう心に決めていた。
決して
あの不器用な人が、不器用なりに示してくれた愛。
それに、何としても応えたい。
彼の吐息、彼の唇、彼の舌。
体の奥を割り裂く感触。
必死に思い出しながら、指を走らせ、なぞり――やがて、襲い来る、頭が真っ白になるさざ波に、身を委ねる。
――毎晩の、眠る前の、儀式のようになった、この行為。
けれど、満たされない。
穴の空いた器に水を注ぐように。
彼の不器用な言葉が恋しい。
愛してると言われたい。
彼の黒い瞳に見つめられたい。
体の奥の全てまで見られたい。
髪を撫でられたい。
口づけを交わしたい。
彼の指で感じたい。
彼の舌で感じたい。
息苦しいほどに抱きしめられたい。
彼の腕の中で、彼に包まれて眠りたい。
――ああ。
どうして、わたしはいま、ひとりでいるのだろう。
「ムラタさん――」
逢いたい。
逢いたい。
――逢いたい……!!
自分で自分の体をかき
とめどなくあふれる涙は、自らの意思を持っているかのように次から次へと零れ落ちる。
――でも、それでも、父を恨む気になど、なれないのだ。
『もっと早く、教えてやってりゃよかったなァ――』
ゲンコツで脳天をぶん殴ったあと、背を向けた、父の言葉。
『早くアイツに逢いたいよな――すまん』
自分の雑念を、拳でもって打ち払ってくれた父が、絞り出すように言った言葉。
自分を独り立ちさせるために、いつも以上に鬼となって自分を導こうとしてくれている親方――父の愛が、痛いほどに伝わってきた、あの言葉。
尊敬する父の元を、自分は離れるために今、最後の手ほどきを受けている。
……ごめんね、お父さん。
情けない弟子で。飲み込みの悪い娘で。
親方は、彼が求めた条件通りのノコギリを、早々に作ってしまった。そして、リトリィにそれを示すと、あっさり鋳つぶしてしまった。
『アイツのノコギリは、リトリィ。お前が作るんだ』
将来を共にすると、お前が決めた相手――アイツはきっと、そこらでは手に入りにくいものばかりを求めるだろう。お前も難儀な相手を選んじまったもんだ。
だから、アイツの仕事道具は、今後、すべてお前が作れ。
まるで、そんな要求を経験したことがあるかのように、父は笑った。
ああ、そうだ。
だから彼はきっと、これからも、自分たちには思いつかないことを考えるのだ。そして、きっとそのたびに、彼は悩むだろうし、苦しむのだろう。
彼はきっと考えすぎる人なのだ。ものすごく考えている。いつも頭の中で何かを思いめぐらせている。
自分は彼と出会ってから、ほとんど彼のことしか考えていない。
はっきり言ってしまえば、鍛冶仕事の最中だって、ふとしたときには彼のことを考えているのだ。
父から雑念が多すぎる、とげんこつを食らうくらいに。
彼は多分、自分には到底想像できない、いろいろなことを知っていて、そして、考えているのだろう。
本当は、彼にも自分のことだけを考えていてもらいたいと思うのだが、それは、きっと彼には無理なのだ。
彼はきっと、いろんなことを考え続けて、これからも、自分を置いて飛んで行ってしまうのだ。ひらめいた、ああしてみよう、こうしてみよう、などと言って。
だからせめて――せめて、彼を追いかけられる自分でなければならないのだ。あの人の役に立てる自分でなければ。
親方で、師で、父であるジルンディールの技を手に入れるために――それはつまり、彼のために、明日も、明後日も、
――そう、リトリィは思っている。
幸か不幸か、そういったリトリィの有形無形の一途な期待が、ムラタを時に奮い立たせ、時に追いつめていることなど、彼女には知る由もない。
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