第93話:好きなのに……

 俺は、自分でもみっともないくらいにかすれる声で、もう一度、彼女に尋ねた。

 なぜ、ここにいるのかと。


 美しい月明かりは、このオンボロ小屋の屋根に開いた穴を通して、部屋の中にまで差し込んでくる。

 彼女の表情は逆光になって、よく分からない。

 分からないが、落ち着いた声で、彼女はもう一度、同じ答えを言った。


「きっとここにいらっしゃるって、思いましたから」


 そう言って、ロングスカートの端をつまみ、腰を落として礼をしてみせる。


「だから、お待ちしておりました」


 そして、逆光でもわかる、微笑みを浮かべた。


 なぜだ。

 なぜ分かった。

 どうして君は、そんな先回りできたんだ。


「だって、ムラタさんですから」


 彼女は小首をかしげるようにすると、よどみなく続けた。


「きっと、責任を感じて、今夜はお戻りになられないだろうなって。でも、お仕事を途中で放りだすような方ではないですし、それでもお宿のお金はお持ちになられていないでしょうから、どこか橋の下か、あるいはこちらかなと。

 じゃあ、お仕事の場所になるこちらで、一晩を明かそうとするんじゃないかなって」


 ……完璧だ。完璧すぎる。

 橋の下はさすがに思い浮かばなかったが、俺の思考をきれいにトレースしてきた。


「……だけど、俺は……」


 俺は、君を傷つけた。

 君を怖がらせ、あまつさえ、その場から逃げてきた。

 ……なのに。 


「どうして……ここに来たんだ?」


 彼女がここにいる、その事実が信じられない。

 なぜ、ここにいる。

 なにがしたくて、ここにいる。

 ――そんな俺の言葉に、リトリィは。


「だって、わたし、あなたに選んでもらえた――」


 そう言って、ふわりと、微笑む。


「――あなたの、妻になる女、ですから」


『獣人は情が深い』


 瀧井さんの言葉が脳裏をかすめる。

 俺自身、彼女についてこう思ってきた。

 ――重い女だと。


 でも、それでも。


 それでも、彼女の想いに、涙が出そうになる。

 俺は、どうして、こんな女性を――自分が好きだと自覚している女性を、悲しませるようなことをしてしまうのだろう。

 今度こそ――もう今度こそ、そんな思いをさせたくないと思いながら、なおも。




 壊れかけた椅子の上にあった、すっかり綿の潰れたクッションを床に敷き、壁にもたれかけるようにして、俺たちは座っていた。

 リトリィが壁を背にして、そして俺が、そんな彼女に包み込まれるように、彼女を背にして。


 山で滑落したとき――あの時と、同じように。


 穴の開いた屋根から降り注ぐ月明かりのなか、二人で、二枚の毛布にくるまる。なんとも用意のいいことだ。

 本当は二人が一枚ずつ、というつもりだったらしいのだが、二人で二枚重ねにした方が温かくていい。おまけにリトリィは、言ってしまえば天然毛布。彼女の腕に抱かれるようにしていると、リトリィの柔らかな毛に包まれた肢体が、とても暖かい。


 ああ、ふわふわだ。極上の毛布よりも、なお、ふわふわで、もふもふで。

 ――とても、あたたかい。なみだが、こぼれそうになるくらいに。


 どちらからともなく。

 しばらく、お互いに、感触を、ぬくもりを、確かめ合うように、唇を重ね合った。




「城門から出るのは簡単ですけど、中に入るのは制限がありますから。今からお宿に戻ることは、できないんです」


 リトリィの言葉に、自分の軽率さを恨む。言われてみれば、城門を通るときに、門番がそんなようなことを言っていたような気もする。そのときはすっかり捨て鉢になっていたから、大して気にも留めなかったが。


「ムラタさんは、どうして、わたしが来ないって思ったんですか?」


 リトリィに問われ、一瞬、どう答えたらいいのか迷ったのだが。


「……リトリィは、俺を、嫌いになっただろうなと……」


 顔が見えないからだろうか。

 意外に、するりと言葉が出てくる。


「どうして、わたしが、あなたを嫌いになるなんて思ったんですか?」

「……俺は、君を、傷つけた……」


 今度は、リトリィの答えが返ってこない。

 ただ、俺を抱きしめる腕に、力が込められたのを感じる。

 かすかに震えるその腕に、そっと触れてみる。


「本当は……怖かったんです」


 か細い声だった。


「あなたが出て行って……すぐに追えなくて。

 こんなに好きなのに、こんなにおそばにいたいって願ってきたのに、あんなことを言ってしまったわたしをもう、あなたは、ゆるしてくれないんじゃないかって……」


 徐々に嗚咽交じりになる言葉は、しかし、途切れない。


「わたし……怖かったんです。ほんとうは、あなたはだれにでも優しいだけで、わたしのことを、好いてくれていないんじゃないかって……。ずっと、怖くて、不安で」

「リトリィ、俺は……」

「好きって言ってもらえても、抱いてもらえない。何度二人きりで寝ても、愛してもらえない。ほんとうは、あなたはわたしとの仔なんて、欲しくないんじゃないかって……」


 彼女の頬が、背中に押し付けられる。


「だから、わたし、あなたが出て行ってしまったとき、動けなかったんです。嫌われたって思いました。もう、あなたはわたしの元に帰ってきてくれないんじゃないかって……」


 ……逆だ。真逆だ。

 俺の方が嫌われた、そう思ったんだ、俺は。


「……だから、こうして、あなたがここにいてくださるのが、夢みたいなんです。私の腕の中に、こうして、あなたがいてくださる……それだけで」


 リトリィの言葉は、そこまでだった。

 あとはもう、泣きじゃくるばかりで、言葉にならなかった。


 まただ。

 また、泣かせている。

 本当にどうしようもないやつだ、俺は。


 だから、

 柄にもなく、俺は、

 振り返り、彼女の背中に腕を回し、

 驚いた彼女の唇をふさぐと、


 そのまま、押し倒した。

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