第92話:逃避
その厳しかった目が泳ぎ、急速に力が抜けていく。
逆立っていた尻尾は、力なくうなだれる。
口元に手を当て、体を縮め、うつむき、上目遣いになる。
「……あ、あの……」
もはや、責める気も失せたか。まあ、そうだよな。
リトリィの言葉の一つ一つが、胸に深々と突き刺さっている。
そうだ。
――そうだ。
俺は結局、優しくもなんともない。
相手のことなんか何も考えていない、最低な自己中野郎だ。
「え……?」
リトリィの目が大きく開かれる。
……彼女の言うとおりだ。
それで結局、君を泣かせ続けた、最低な男だ。
「あ、ご、ごめ……」
君が謝る必要なんかないんだ、君が泣く必要もない。リトリィ、君が言う通りだからだ。
「あの、ムラタさん……! そ、そうじゃ、なくて……」
リトリィの顔はくしゃくしゃだ。
俺も今、くしゃくしゃな顔をしている自信があるが。
そうだ。俺は優しいんじゃない。
ただ、波風が立つのを恐れて、無難に生きようとしてきただけだ。
君が優しいのとは、根本的に違うんだよ。
「わ、わたし、あの……、そんなつもりじゃ、なくて……」
体を寄せてきた彼女から逃れるように、ベッドから立ち上がる。
いいんだ。
君が言ってくれてよかったよ。
君に言われるのは、へこむけどさ。
かえって、スッキリした。
「ま、まって……まって! ちがうの、わたし、あの……!」
「だから、リトリィが泣かなくていいんだよ。全部事実だし。
……今まで、ありがとう。ちょっと、頭を冷やしてくる。
大丈夫、一刻ほどで戻るから。……
部屋を出ていこうとした俺の手を、リトリィが両手で掴む。
「だめ……だめ、行っちゃだめ!」
「頭を冷やしてくるだけだ、このままじゃ俺は絶対、リトリィを傷つけることを言い始める」
「いいんです、それでいいんです! 言って、言ってください!
だめ、今はどこへも行かないで!」
……さっきまであれ程俺をなじっていた女が、今度は俺を引き留めようとしてくる。何様だ?
――違う! 落ち着け俺、俺はリトリィを傷つけたいわけじゃないんだ!
「俺は一刻で戻ると言った。……放すんだ」
「いや……いや、行かないで……!
行ったらもう……あなたは、わたしのところに帰ってきてくれなくなる……!」
……ダメだ、本当にイライラしてくる……!
――違う、俺はリトリィを傷つけたいわけじゃ……!
「リトリィ、放せ!」
「いや……いや! ムラタさん、だめ! いかないで、お願い!」
「本当に、ダメなんだ……! 放せよ!!」
「まって、ムラタさん! ちがうの、わたしは――!」
「放せと言ってるだろ!!」
泣きながらすがりついてきたリトリィを、思い切り突き飛ばす。
リトリィは俺より力がある――そう思い込んでいたから、力いっぱい――。
彼女の体は意外なほど軽々と吹き飛び、ベッドに転がると、あられもない姿を晒した。
普段は貫頭衣であらわな部分が多いリトリィだが、街に来てからはロングドレス姿で、露出は顔と、指先くらいしかない。
そのスカートが大きくまくれ上がり、彼女の無防備な――下着もない、本当に無防備な――下半身が目の前に晒された、その瞬間。
ベッドに倒れたリトリィの上に、のしかかる。
手首を押さえ、足を押し開く。
「え……? ムラタ、さん……?」
ロングドレスを胸元までまくり上げる。
「ひっ……!?」
リトリィの顔が、恐怖に歪む。
……初めて見た、そんな表情を。
彼女が、俺に、そんな表情を向けるのを。
不安そうにする顔は見たことがあっても。
哀しそうに目を伏せる顔を見たことはあっても。
理不尽なことに対して怒ってみせる顔を見たことはあっても。
この世の終わりのように嘆き悲しみ、涙を流す顔を見たことはあっても。
恐怖に顔を歪ませる、そんな表情を、俺は、彼女の顔に見出したことなど、ただの一度も無かったのに。
――ああ、俺が、そうさせたのだ。
目をぎゅっと閉じて、
歯を食いしばって、
これから何をされるのかを理解し、
おののきながら、
――それでもその瞬間を待つ、
その姿に、俺は。
「――ムラタさん……、……! …………!!」
どこをどう走ってきたのかなど、覚えていない。
ただ、なんとなく、ここは街のどこかなのだ、くらいにしか分からない。
石造りの家と家の隙間、細長く伸びる空に、星々が瞬くのが見える。
日本と違って、街の中のはずなのに真っ暗で、足元に何があるかも見えない。
日本ならあり得ないほどに濃い闇のなか。
こんな闇が街の中にあるなんて、想像もつかなかった。
ため息をついて再び歩き始め、その先になにか丸いものがあったことに気づかず、思いきり体重をかけてしまったが為に派手に転倒する。
――足をひねった。
立ち上がろうとして、左足に激痛を感じ、バランスを崩し、また転倒する。
「……畜生……!」
転倒した拍子に、路肩に置いてあった木箱でしたたかに脇腹を打ち、しばし地面で悶える。ああ、泣き面に蜂というやつだ、くそったれ。
脇腹の痛みが引いてきたころ、丸めていた背中を伸ばすと、そのまま仰向けに寝転がった。立ちさえしなければ、足首の痛みもない。
おそらく不潔な裏路地で、細長く伸びる空の端に、美しく輝く、小さな月が見える。
日本で見る月よりも、やや小さい気がする、銀の月。
何をやっているんだろう、俺は。
大切にしたい――そう思っていたはずの女性を傷つけて。
そして、いたたまれなくなって逃げだして、そしてこんなところで一人、道に寝転がっている。
――本当に、俺は、なにをやっているのだろう。
もうおしまいだ。
何も考えたくない。
あんなことをやらかしたのだ、リトリィもさすがに愛想を尽かしただろう。
あの、恐怖に歪んだ顔。
昔、リトリィはあのアイネたちに獣臭い奴と言われたことにショックを受け、いまだにそのことをおぼている、らしい。
兄たちですら言ったことを、俺は言わなかった……彼女が俺に惹かれた理由の一つが、それだったとか言っていたはずだ。
俺は、彼女を、ひとりの女性として扱った、そのことがうれしかったのだと。
その幻想を、今夜、木っ端微塵に打ち砕いたのだ。
彼女が以前のような笑顔を見せることは、もはや無いだろう。
あの顔が嫌悪感に歪む――そんな表情、見たくない。
もう、宿に戻るのもおっくうだ。
仕事を途中で放り出すのは社会人として最低だが、リトリィと顔を合わせるのも気まずい今、仕事をする気になんてとてもなれない。
だが、仕事はしなければならない。俺の信用にかかわる。
……俺のことを好いてくれている……いや、好いてくれて
……それでも、仕事は仕事だ。
やりかけで放り出すのは、ぺらっぺらとはいえ、俺のプライドに関わる。
リトリィとの仲は破綻しても、現実として仕事はあるのだ。
明日も進めていかなければならない、仕事が。
だが、今さらあの宿になど、戻りたくないし、そもそも戻れない。
どの面下げて、リトリィに会うというのだ。
彼女を傷つけ、関係が失われてしまっただろう今、相部屋で寝る?
ないない、絶対にありえない。
さりとて、今から別の宿を探す気にもなれないし、そんな金、そもそも持っていない。
……ああ、あるじゃないか。
格好の宿が。
いまの支離滅裂な俺に、ふさわしい場所が。
足を引きずりながら、俺は、路地を歩きだした。
だから、目の前の存在に、俺は、何も言えず、固まってしまった。
――なんで、君が、ここにいる。
「きっとここにいらっしゃるって、思いましたから」
ナリクァン夫人の小屋――オンボロ小屋の、壊れかけた扉が、耳障りな音を立てて開いたその先にいたのは。
――リトリィだった。
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