第94話:好きだから……


※ 飛ばしても、97話以降を楽しむことにおおよそ支障はありません。




 彼女は驚いたようだったが、しかし抵抗することはなかった。俺の腕を払うようなことも、顔を背けるようなこともなかった。

 この寒い夜に、どうしてこんなにもと思うほどに、彼女の舌は、口内は熱かった。


 ぷは、と、息をつき、俺の首筋に顔をうずめてくるリトリィの肩は、震えている。寒いのかと聞いたら、彼女はかすかに首を振った。


「うれしいのと……あと、こわいんです」


 また怖がらせてしまったのかと内心ひやりとしたが、彼女の思惑は違った。


「これが、夢なんじゃないかって……ほんとうのわたしは、一人で、あなたを待っているまま眠ってしまっているだけなんじゃないかって……」


 そんなことはない、俺はここにいる。

 そう言う代わりに彼女を抱きしめる腕に力をこめると、彼女の腕にも力が入る。


 どちらからということもなく、ふたたび唇を重ねる。互いの舌を絡め合わせ、隙間ができるのを惜しむ勢いで互いをかきいだく。


 あとはもう、言葉にならなかった。

 互いの体、互いの指の感触に身を震わせながら肢体を絡め合う。

 すすり泣くようなリトリィの吐息に高ぶり、すがりつき腰を押し付け俺の手を取り導く彼女を愛おしいと思い、そしてその思いのほか潤う感触に驚く。


 そのまま彼女に導かれて、俺は、女性のぬくもりを知った。




「……その、ごめん。俺……」

「どうして謝るんですか?」


 毛布に付いた血の跡が、彼女が、ずっと、ことを物語っている。


 俺は気づかなかったのだ。

 初めてのぬくもり――ぬくもりと言っていいのか、むしろ熱さだった――に夢中で。


 彼女の柔らかな体にしがみつくようにして余韻に浸っていたとき、ふと彼女の顔が見たくなり、身を起こして、そしてようやく気づいたのだ。


 彼女が、目を固く閉じて目尻に涙を浮かべ、声を漏らさぬように毛布を噛み締め、痛みに耐えていた、その姿に。


 俺が初めてだったように、のだ。


「……まだ、痛むか?」

「平気、です……」

「……ごめん、俺……」


 言いかけた俺の口を、リトリィが塞ぐ。


 涙をこぼしながら、それでも最後まで痛いとは言わなかったリトリィ。

 それに全く気付かず、一方的なよろこびに酔っていた俺は、まさに最低野郎だった。


 けれど彼女は。

 長い長い口づけのあとで。


「……ムラタさんだから、平気です」


 そう言って、微笑んだ。


「怒らないのか……?」

「どうしてですか?」

「いや、その……リトリィの痛みに気づかないで、その……。辛かっただろ?」

「いいえ? 痛かったですけど、つらかったわけじゃないですから」


 いや、痛かったなら辛くもあっただろう?

 そうやっていつも我慢しているのが、痛々しい――そう言うと、彼女は不思議そうに見上げてきた。


「わたしが望んできたことですよ? ずっとずっと、こうなることを」

「だ、だけど、あんな初めてなんて――いや、その、俺がやったんだけどさ……」


 初めてだったのは俺だけじゃなかった。

 彼女にとってその大切な瞬間を、つらい思い出にしてしまったのではないかという、罪悪感。

 だから、リトリィが真っ直ぐ俺を見つめれば見つめるほど、胸が痛くなり、押し潰されそうになる。


「ムラタさんは、後悔しているんですか?」

「……している」

「それは、どうして?」

「……君の痛みに気づかないで、自分勝手にその、没頭して……」

「私が望んだ、そう言っているのに?」

「それでも、やっぱり、痛かったんだろう……?」


 リトリィは、すこし考えるそぶりを見せる。


「じゃあ、あなたから、口づけをしてください」

「……は?」

「すっごく、わたしがとろけちゃう口づけを、してください。わたしが、とろけて、幸せだって感じられる口づけを」

「……どういう意味――」


 問いかけた俺の唇に人差し指を当て、リトリィは。


「それで、ゆるしてあげます」


 にっこりと笑う。




 心のどこかで、彼女は、自分とは違う存在だと思ってきた。


 俺は女を一人も知らない。

 彼女は男をたくさん知っている。

 俺を翻弄していた瞬間も、そのときに身につけた技術を使っているんだろうと。


 目の前の彼女は、幾人もの男たちがのしかかり、そして通り過ぎていった、その残りなのだと思い込んで、醜い嫉妬心に胸を焦がしたこともあった。


 そのくせ、他の男と比較されることを恐れて、もっともらしい理由をつけて、彼女を抱くことを避けてきた。

 リトリィの言う通りだ。

 俺は、目の前にいるひとのことなんか、なんにも考えちゃいないヤツだった。


 彼女はいつも優しく、思いやりに溢れ、きめ細かな配慮を欠かさず、自分から心を開いてくる。

 今も、赦しの口づけを、と言いながら、俺の頬に片手を添え、もう片方の腕で俺を抱きしめ、脚を絡めてくる。


 赦す、赦さない以前に、全身で俺を受け入れている。


 彼女の、そうした一途な想いの上で、俺はあぐらをかき、あれこれ勝手なことばかり考えていた。


 結局、何も、彼女に敵わない。




「……アイネにさ、リトリィは王都のストリートで生きてきたって聞いていたんだ。

 ストリートで生きてきたから、男が君にと。

 それで……」

「それで、初めてなのはご自身だけだと?」

「……ごめん」


 俺の謝罪に、リトリィは俺の懐に顔を埋め、ふふ、と笑った。


「兄さまが言ったのは、もしかしたら大げさだったかもしれませんが、たぶん嘘は言っていないと思います。

 ――春を売っていたのは、事実ですから」

「でも、その……初めて、だったよな?」


 リトリィの顔がこわばる。

 しまった、触れられたくなかったか。

 ごめん、と言おうとすると、リトリィが、上目遣いのぎこちない笑顔を浮かべながら、人差し指で俺の口を押さえた。


 何を言おうとしたか、お見通しだったらしい。ややためらいがちに、だが正直に答えてくれた。


「手とか、その……お口……とか。――とにかく、やり方はその、いろいろあるんですよ?」

「……そうか」

「それに、その……いくら家族だって、経験があるとかないとか、そんなこと、言えませんよ」


 ――お母様にしかお話していません。

 リトリィはそう言って、また唇を重ねてくる。


「……だから、知っているのは、もう、あなただけです」


 唇を離すと、顔を寄せ、俺の首に顔を埋めると、俺のうなじで鼻をすんすんと鳴らす。そんな彼女の頭を撫でていると、幼少期のことについて、続けて話してくれた。


「――普段はごみ箱をあさって、食べられるものを食べたりしてました。でも、その……やっぱりいつも、食べられるわけじゃないから。

 仲間の子たち、小さい子達もいたから、みんなでなんとか食べようって思うと、どうしてもひもじい日があって」

「そんなときは……か」


 年長の娘が、仲間のために春を売ってきた。

 それを見てきたリトリィも、自分が同じ立場に立ったとき、そうせざるを得なかった。

 男性に対する手練手管は、そうした『姉』たちから教わったのだという。

 まともにしゃべれなくても、そういったことは仕草で伝わる。

 男たちの下衆な欲望を満たすために、彼女は春を売り続けた。


 幼い女の子が、生きるために春を売る。

 なんと過酷な世界なのだろう!


 だが、その過去があり、そうやって生き延びてきたからこそ、今、俺は彼女に出会えたし、こうして、つながっている。


 現代日本の若い男性の感覚からすると、受け入れられない、という人も多いんじゃないだろうか。

 経験済みの女性を中古女と呼ぶ、そんなネットスラングもあるくらいだ。経験済みの女性と交際する男性を罵倒し、あざ笑う意見も見たことがある。


 いや、単純に売春したことがあるという事実だけを聞いただけだったなら、俺も受け入れるかどうかというと、たぶん、無理だと思っただろう。むしろ、嫌悪してしまっていたかもしれない。


 だけど、俺は彼女がどんな女性であるかについて、もう、十二分に知っている。

 その彼女がに選んだ道を、今さら否定する気はない。


 むしろ、よく、頑張ってくれた。

 よく、俺に、出逢ってくれた。

 この巡り合わせには、ただ感謝しかない。




 彼女は……ずっと泣いていた。


 ずっと俺の懐で泣いて、

 そして、もう一度だけ、互いの愛を確かめ合いたい、と言った。

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