第730話:奥さんは本職コックさん?

「いやあ、厨房職員が、そちらの奥様が食事を作るからと、なにも準備しておりませんでしたので」


 宿の支配人の男は、パンをもっしゃもっしゃと頬張りつつ、涙を流しながら答える。

 ……いや、俺が知りたいのは、なぜ涙を流してまでうれしそうに食ってるかってことなんだが。


 というか、支配人だけじゃない。気が付いたけど、この食堂にいるのは宿泊客だけじゃないぞ。

 そこにいるのはどう見ても、最初にリトリィを見て「入浴時にはよく言い聞かせて毛をなんとかさせろ」などと失礼なことを言い放った受付のおばちゃんだ。ほかにも、よく見たら宿の従業員らしいひとがずらりとそろっている。


「あんたら、みんな宿の関係者かよ! 客の作った家庭料理に涙流してたかるって、どういうありさまなんだ」


 プライドはないのか、と頭を抱えたくなる。


「お恥ずかしい話ですが、当宿の調理担当者は、奥様がお食事をご準備なさるということで、てっきり料理人が雇われて来たものと思い込んでしまったようで」

「いや、宿の料理人は何やってんだよ」


 言ってしまってから、気が付いた。

 いま、支配人はこう言った。「当宿の調理担当者」と。

 対して、リトリィにはこう言った。「料理人」と。

 なにより、「料理人が雇われた」と誤解したかのような言い回し……!


「……支配人。宿の職員って、他にいるのかな?」

「ええと……これで全員でございます」

「調理担当者さんは?」

「今週は、こちらの者でございますね」

「もひとつ質問いいかな?」


 宿の全職員がここにいるってどういうことだよ──思わず突っ込みたくなるのを無理やりねじ伏せながら、続ける。


「料理人、もしくはそれに相当する職員はどこ行った?」

「……お客様のような勘のいいかたは」


 嫌いだよとでも言いたいのかよっ!

 苦笑いを浮かべている支配人が憎たらしいっ!

 ああちくしょう! この宿、「調理担当者」はいても、専属の料理人コックがいなかったってことだ!

 つまり俺たちが食った飯は、「今週のメシマズ野郎」が適当に作ってたってことじゃねえか!

 それでいいのか旅館経営!


「適当など……とんでもございません! 専門の料理人でなくとも、当宿自慢の料理でございますれば」

「俺の嫁さんの料理とどっちが美味かった?」


 客は全員リトリィを指し、従業員はリトリィを指した一部を除いた全員が、一斉に目を伏せる。

 さすがにあれをリトリィの飯より美味いと言ってのけるほど忠誠が厚く、ついでにつらの皮も厚い奴はいないようだった。その点だけは感心する。


 てか支配人、あんたが真っ先にリトリィを指していてどうすんだ! リトリィを積極的に選ばないことで忠誠を示した、あんたの従業員たちの立場がないだろっ!




 客も従業員も、みんなでリトリィたちが作った夕食を食べる。ああ、やっぱり温かな家庭料理というものはいいものだ。


「それにしても、なんでリトリィのことを、なんの疑問もなく新しい料理人だなんて思ったんだ?」

「なにをおっしゃるんですか。奥様の手際を見れば、とても素人には思えませんよ!」


 調理担当者の若い男性が、拳を握りしめて力説する。

 どうも、単なる勘違いではなく、リトリィの調理する姿が、あまりにも料理人コックとして堂に入っていたというのが大きかったらしい。


「初めてのはずなのに、まるで長年馴染んだ場所のようになんでも扱うんですから、どこかのお屋敷でお勤めになられていたんだろうって思っていましたよ」


 もうひとりの調理担当者の初老の男性も、尊敬の念を隠そうともしない。


 そもそも「幸せの鐘塔」の工事で職人たちの大量の給食を作っていたリトリィだ。その手際の鮮やかさ、大型の厨房器具をまるで自宅の台所のように使いこなす姿には文句の付け所がなく、誰も疑問を抱かなかったそうだ。


 というか、自宅自体、炊き出しのためにナリクァン夫人プロデュースの、大型かつ高品質の各種調理器具を取り揃えているのだ。リトリィが手慣れていて当然だろう。


 で、そんなリトリィの「お願い」に、戦々恐々としながら厨房で働くしかなかったとのことである。

 さすがリトリィ、匠の如き技で有無を言わせず従わせるあたり、実に頼もしい!


 ところで、この峠道は、冬以外の季節ならば隊商が通ったりもするし、温泉目当ての客が来たりもしていいのだが、冬はどうしても雪で閉じ込められてしまうことが多いのだそうだ。しかも雪はこれからが本格的に降るものらしく、そういった時には新鮮な食材以前の問題になりがちだという。


 結果、俺たちがこの宿に着いた時の、あの「石のように硬い(古い)パン」と、「豆のスープという名の、塩味以外は何もない豆ゆで汁」みたいな事態がよくあるのだそうだ。


「……念の為に聞くんだけど、あの豆のスープって、もしかしてこの宿の密かな人気の品だったりする?」

「さすがにそれはありません」


 即答かよ! 全然駄目じゃねーか!

 結局、リトリィのシンプルだけど温かな家庭料理に皆が舌鼓を打ち、その味を堪能したのだった。


 なお、パン種については別に秘匿技術でもないだろうということで、リトリィが温泉ならではの資源──温泉の湯で温めることによる醗酵の促進が意外な効果をもたらしたことを、惜しげもなく伝えていた。


 俺自身は、リトリィが焼いてくれるパンのもちもち具合が大好きだけれど、意外な形で出現した、日本人が求め続けた「ふわふわ食パン」の作り方を、温泉ならではのやりかたで継承してもらうというのも、それはそれで有りだろう。




 歓声を上げながら湯の中に飛び込んだニューの飛沫に、苦笑いで顔を拭いていたら、背後から声をかけられた。


「だんなさま、おとなり、失礼いたしますね」


 聞き慣れた声に、俺は首を回して見上げた。


「ああ、おつかれさま。……早かったね」


 リトリィは、ニューと共に、宿の人と夕食の後片付けをすると言い出したのだ。彼女たちだけに任せるわけにはいかないからと、自分たちも手伝うといったのだが、リトリィはニュー以外は受け付けず、「みなさんは、お風呂をたのしんできてくださいな」と言い残して、厨房に行ってしまっていた。


「食器のお片付けが終わった後は、お宿のかたがたがなされる、というお話で」

「そうか……飯を作らせておいて、自分たちも食べておいて、それでリトリィに片付けまでやらせるとなったら、宿の経営側として話にならないからな」


 俺は答えながら、露天風呂全体を見回した。

 岩の湯船で溺れるように泳いで(?)いるヒッグスとリノ。マイセルとフェルミはそれぞれ赤ちゃんを抱っこしておっぱいをあげながら、腰から下だけ湯に浸かっている。


 今日は雪こそ降っていないものの、厚く雲が垂れ込め、月は見られない。屋内の温泉の建物の壁にあるランプの灯りだけが頼りの暗さで、他に客はいない。


 というか、美味しい夕食を提供してくれたリトリィのために、客のみんなが、場を譲ってくれたのだ。おかげで今夜も実質、貸切状態だ。まさにリトリィのおかげだ。


「そんなこと、ありません。だんなさまが、わたしのしたいようにさせてくださっただけですから」


 そう言ってリトリィは微笑むと、定位置──俺の左隣に身を沈めた。


「そういえば、どうしてニューだけを連れて行ったんだ?」


 俺の問いに、リトリィは湯を掛け合ってじゃれ合うチビたちを見つめながら言った。


「あの子は大きくなったら、ヒッグスちゃんのお嫁さんになることが夢ですから」


 その返事に、俺は首を傾げる。ニューがヒッグスのことを一人の女の子として慕っていることと、リトリィがニューだけを連れて行ったことの関わりが分からない。

 リトリィは、ヒッグスの元に真っ直ぐ向かって行ったニューを目で追いながら微笑んだ。


「リノちゃんはだんなさまの元にのこりますから、これからもいろいろとおしえてあげることができます。けれどあの子は、いずれヒッグスちゃんと一緒に、新しい家をおこすはずです。でしたら、いずれ夫になるヒッグスちゃんのお世話をできる子にしてあげないといけませんから」


 ……なるほど。それがリトリィなりの思いやりというわけか。


「あの子には、わたしとマイセルちゃんで、いろいろと家事は仕込んでいるんですよ? だんなさまもご存知でしょうけれど、もう、ひととおりのことはできます。お金の勘定はあまりじょうずではないですけれど、それでもあの子は、ちゃんとがんばっているんですよ」

「一通りできるなら、あの子だけを引っ張る必要はなかったんじゃないか?」


 そう、それこそ、みんなで手伝ったってよかったはずだ。

 けれど、リトリィは静かに首を横に振った。


「そうではないのです。家事ができる、できないではなくて、心構えです」

「心構え?」

「はい……。『だんなさま』にお仕えする、妻としての、気の持ちかたです」



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