第731話:悪魔の捧食(1/2)
「そうではないのです。家事ができる、できないではなくて、心構えです」
「心構え?」
「はい……。『だんなさま』にお仕えする、妻としての、気の持ちかたです」
リトリィは、楽しそうに湯を掛け合うチビたちを見ながら続ける。
「だんなさまは、殿方でありながら、わたしたち妻のおしごとを手伝おうとしてくださいます。子守りだって、おむつ替えだって。それはとてもうれしいことですし、仔のことをまかせきりにしないで見守ってくださるだんなさまのことを、わたしたちは、とてもほこらしく思っています」
「そりゃまあ、夫婦だし、当然だろう?」
なんたって可愛い我が子の子育てだ。大変だと思うこともあるけど、それにしたって数年だけだからな。抱っこしても、おんぶしても、頬ずりしても喜んでくれるんだ。可愛くて仕方がない。
「そう思ってくださる殿方って、とっても少ないんですよ? ご近所さまのおはなしをうかがっても、おむつを替えてくださるだんなさまって、聞いたことがありません」
リトリィに言われて、俺はハッとした。そういえば、孤児院「
「ヒッグスちゃんはだんなさまのおすがたを見ていますし、ヒノモトのおうちは、だれでもへだてなく家事をするものだっていう家訓ですから、あたりまえにはたらいてくれますけれど」
家事手伝いが、家訓。
いや、そんな大袈裟なことは考えてなかったけれど、リトリィはそう考えていたのか。
「でも、ニューちゃんがいずれヒッグスちゃんといっしょにどこかで暮らしはじめたとき、『ヒッグスに仕える妻』としてのうごきがよくないと、ご近所さまに示しがつかなくなります。そのとき、恥をかくのは、ニューちゃんではなく、ヒッグスちゃんなんです。妻をしつけることもできない男として」
……そんなことまで考えていたとは。けれど、そこまで気にする必要なんてないだろうに──そう思ったけれど、リトリィは真剣な目で首を振った。
「あなた、だれだって、ひととひととの間に立って生きるのです。生きづらさをかかえて生きることは、とてもつらいことです。少しでもそれを取り除いてあげるのが、わたしたちのおしごとです」
「生きづらさを、少しでも、取り除く……」
うなずくリトリィに、俺は
考えてみれば、リトリィはハンデの塊だ。
「だから、あの子が、一人前の妻として立ち回ることができるように教えてあげることも、わたしのおしごとだと思っています」
「……いや、でも、まだ早くないか?」
「あなた、ヒッグスちゃんも、もうすぐ十四になるんですよ?」
……そうだっけ?
しまった! まだまだ子供だと思っていたけれど、もうそんな
「ふふ、
「にしても、早すぎだ! あんなガキんちょが、もう十四?」
「なにをおっしゃっているんですか? あの子だって、いまではあなたの現場の石組長さまの、かわいくてりっぱな、お弟子さんですよ?」
──そ、そうか。俺もいよいよそういう年か。
俺が三十代になる時が近づいている……そう考えると、頭を抱えたくなる。
するとリトリィの奴、もっと凄まじい爆弾を投下した。
「それにリノちゃんも、もうすぐお嫁さんですしね?」
お、お嫁さん⁉︎ いや待て、前から何度も言っているけど、リノには早すぎる!
「リノちゃんは、わたしと同じ
「いや、あんな小さな体で?」
「一年もすれば、あの三人の中で、一番大きくなると思いますよ?」
リトリィはそう言って微笑むと、「がんばってくださいね、だんなさま?」と、肩を寄せてきた。
……リトリィ、また俺のこと、からかっただろう?
「からかってなんて……。ふふ、でもそうやって、本気でなやまれるだんなさまのこと、わたし、だいすきですよ?」
ああ、もう、君には本当に敵わないよ!
そう言って、彼女を抱きしめようとした時だった。
リトリィの耳が、しっぽが、全身の毛が、立ち上がる!
リトリィの顔に走る緊張!
フェルミもリノもだ。
「あなた……!」
「みんな、何かにつかまれ!」
そう言ったか言わないかのうちに、湯にさざなみが立ち始め、次の瞬間、ドン、と縦に揺さぶられる感触!
建物の方から、小さく悲鳴が聞こえてくるが、我らが日の本ファミリーの面々は、しっかりと身を縮めて、一言も言葉を発しない。
この世界──この地方にはほとんど地震なんてない、という話だったのに、数ヶ月単位でこうして地震に見舞われるなんて!
地震自体は多分三十秒もなかったと思うんだけど、やはり露天風呂で身を守るものがまるで無い状態での地震は、さすがに緊張した。
「最近、地震が多いですね……」
マイセルが、シシィを強く抱きしめながら、不安そうに山々を見渡す。
ここに温泉があるってことは、多分この山に断層があるんだろう。今までの地震は、この山々が原因だったのだろうか。
これまでは休眠状態で安定した地盤だったのが、もしかしたら一回目の地震で、どこかに歪みが生まれて活性化してしまったのかもしれない。
「……大丈夫。常に備えを忘れなければ、不必要に恐れることはないから」
俺の言葉に、皆がほっとしてみせる。
……いや、そんなあっさりと信じられても困るのだけれど。
それから二日後の朝。凍った雪をざくざくと踏み分けながら前進する牛車に揺られながら、俺たちは街に戻る道の上にいた。温泉は魅力的だったが、地震の後の家の様子が心配だった。だから俺は牛車が動くと聞いて、すぐに出発を決めたのだ。
チビたちはでっかい風呂で遊べなくなるのが残念だったみたいだが、家のことが心配なのは一緒だったようで、特に不満は口にしなかった。山の中で日が当たりにくく、おむつがなかなか乾かず不安そうにしていたマイセルとフェルミは、ほっとした様子で俺の決定に従ってくれた。
「どうか、またお越しください!」
支配人のすがりつくような視線。温泉の一部に亀裂が入っていた部分には、地下の倉庫に眠っていたモルタルで補修をしたら、神のように崇めたてられたのだが、それもあってのことかもしれない。
ただ、豆料理にさすがに飽きてきていたので、「料理がうまいという評判が立ったら、また来ます」と答えたら、なんかものすごくショックを受けたような顔をされた。いや、さすがにあれを客に出す根性のまま続けてもらっては困る。
ごとごとと揺れる荷車の中で、俺たちは過ぎゆく景色を眺めていた。昨夜も遅くまで湯で遊んでいただけあって、チビたちは寝足りなかったらしく、三人で団子になって、もう可愛らしい寝息を立てている。
マイセルは、荷車の隅でシシィのおむつを替えている。フェルミは寝入っているヒスイの藤かごを揺らしながら、自分もうつらうつらとしている。
のどかな時間が過ぎていく。街や家の様子は気になるが、焦ったところで仕方がない。また十時間程度かかるのだろう。でも、行きと違って見通しが立つから、前よりはましだ。家に帰ったら、壊れていなければきっと十分に温まった湯が、太陽熱温水器のタンクに満タンのはず。家に帰ったら、すぐに風呂に入ろう。
家に帰ったら、街はとあることで騒ぎになっていた。
地震にもいい加減に慣れたんじゃないかと思ったらそんなことはなかった──どころではなかった。
どうも、腹痛を訴える者が続出しているらしいのだ。症状は腹痛と下痢。重症者の中には血便もあるという。
恐ろしいのは、それが基本的に貧しい者たち、それも三番街から四番街の、特定の地域に集中していることだった。我が家はそこから少し離れているものの、油断はできない。貧しい者たちは、基本的に医者にかかるなどということはもちろん、薬師から薬を買うことすらできないのだ。
つまり、下手をしたらこちらにまで被害が広がる恐れがある! 乳飲み子がいるというのにだ。
腹痛、下痢、血便──いったい、何が起こっているのだろう!
ただの食中毒なら一過性で済むかもしれないが、これがコレラのようなものだったらとんでもない時に帰ってきてしまったことになる!
さらに恐ろしいのは、この症状は井戸に毒でも入れられたのではないか、などという噂まであったことだ。
「鉄血党の残党が、新しい毒の実験をするために、井戸に毒を投げ入れたって話だぞ!」
「連中は獣人が嫌いだからな。門外街の獣人を滅ぼすためなら、いかにもやりそうなことだ!」
そんな噂が広まっていたのだ。
「連中は、獣人を『丸太』と称して、新しい毒の実験を始めたらしいぞ!」
「獣人のせいで、オレたちまで巻き添えを食ってるっていうのか⁉」
日々、噂は拡大してゆく。すぐに「鉄血党の残党が井戸に毒を入れた」は事実として定着し、「どの井戸が汚染されているか」「どの井戸が安全か」、そして「鉄血党の残党は誰か」という話題に切り替わっていった。
新年早々に事件を起こした鉄血党の記憶が新しいばかりに、噂は否定しきれないところがまた厄介だった。うちの井戸は基本的にふさがれていて、水道管で家までつながっているけれど、揚水風車と浴室の屋根にそれぞれあるタンクは、メンテナンス用の蓋が開くようになっている。風車や屋根によじ登る必要があるとはいえ、できないことはない。
「誰が鉄血党員か」──いまや街の中は、疑心暗鬼に駆られたリンチがいつ起こるとも限らない、不穏な様相を呈していた。
獣人を標的にしているらしい、という噂だから獣人はリンチから安全、とも言えない。「獣人たちがいるからこんなことになるんだ! 叩き出せ!」などという話にもなりかねないからだ。
地震による不安。
原因不明の腹痛。
井戸への毒物投入疑惑。
獣人を「丸太」と呼び、人体実験をしているという噂。
鉄血党の暗躍の噂。
何が本当で、どう対処すればいいのか。
俺は、家族を守るためにどうすればいいのだろう。
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