第732話:悪魔の捧食(2/2)
「ちょっとした狂乱状態、といった感じだな」
たまたま近くに用があったらしい瀧井さんが、外を眺めながらうんざりした様子でつぶやいた。
「東京の大地震の時にも、朝鮮人が井戸に毒を入れた、などといった話が飛び交って、惨たらしいことが起こった。人というものは、どんな世界にいても変わらんのかもしれんな」
ああ、聞いたことがある。関東大震災で、朝鮮人が井戸に毒を入れた、不逞朝鮮人が暴動の準備をしている、などと、現代でいうところの某A新聞社が書き立て、元々不穏な噂に信憑性を持たせて、結果として罪もないひとびとの命が奪われたと。
「全く、獣人を『丸太』と呼んで毒物の実験をしている、だと? そもそもそんな噂がどこから出てきたのやら。噂の出所になった奴こそが、
「あなた、滅多なことは口にするものではありませんよ」
ペリシャさんがたしなめるように言うと、「この歳になっても家内に叱られてばかりだ」と、瀧井さんは肩をすくめる。
「とにかく、村田さんや。十分に気をつけよ。ご家族の体調はどうかな?」
「おかげさまで、今のところは」
「それはよかった」
瀧井さんはようやく微笑みを浮かべる。だが、また厳しい眼差しに戻った。
「今回の騒動、自分は毒ではなく細菌性のものだと見立てている」
「細菌性、ですか?」
社会科教師の雑談ネタを思い出す。
今、愛する人を守るために街を守る戦いに身を投じた経験から考え直せば、ずいぶんと左翼的で空想的平和主義者な教師だったが、その教師から聞いて、本を二冊紹介され、ずいぶんと胸が悪くなった話を。
「丸太」「細菌兵器」「人体実験」……
……満洲で非人道的な人体実験をおこなった部隊があったと言われる、あの話。
「……細菌兵器だと? まさか。この世界の住人は、酵母の存在も知らんかったのだ。細菌だけを純粋培養などできるわけがなかろう。できたとしても、病人の毛布やら死体やらを投げ込むくらいだ。そして、そういう痕跡は、今のところ、ない」
瀧井さんは、ため息をつきながら続けた。
「疫病が発生しているような話も、この街はもちろん、近くの街でも聞かん。もし遠くからそんなものを持って来たとするならば、持ち込む本人が感染し、ここまでたどり着くこともできなくなるだろう」
「では……?」
「残念ながら過程は分からんが、井戸に何かあった、としか考えられん。おそらく細菌性胃腸炎だ」
瀧井さんは、はっきりと言い切った。しかし、同時に首を振りながら続けた。
「だが……何が原因で井戸が汚染されたのか、どの井戸が汚染されたのか、井戸の水を汚染している原因菌は何か……残念ながら、何も分からん。おおよそ怪しい井戸、というのはいくつか目星がついているが、確実でもない。残念ながら顕微鏡がないのでな。調査する権限が、わしにあるわけでもない」
水は十分に煮沸するに越したことはない、今後も油断しないようにと、瀧井さんは言い残して帰って行った。
──細菌性胃腸炎。
今、街を蝕んでいるものの正体がそれならば、俺はどうしたらいいのだろう。
「あなた、どうかしたのですか?」
リトリィに問われ、俺は目の前のカップがすっかり冷えてしまっていることに気が付いた。それだけ、瀧井さんが帰ったあと、俺は家族を守るにはどうしたらいいかを考え込んでいたことに気づく。
「すまない、考え事をしていてさ」
「タキイさまのお話のこと、ですか?」
「ああ。今の状況、なんとかならないのかって思ってさ」
細菌性胃腸炎。
瀧井さんはそう断言した。あの人がそう言うなら、相応の根拠があるのだろう。
そうすると、食中毒のようなものだろうか。サルモネラ菌とか腸炎ビブリオとか病原性大腸菌O-157とか、色々と聞いたことはあるけれど、名前しか知らない。
井戸が原因というなら、それこそ井戸に何か投げ入れられたのかもしれないが、そういった痕跡はないようだ。けれど、これだけ井戸が原因だという噂が広まっているならば、水に何らかの原因を感じるひとが多いのだろう。
その時だった。
「おっさん、早く飲めよ」
ひょっこり顔を出したのは、ニューだった。
「早く飲んでくれねえと、片付かねえじゃん」
「あ、ああ、すまないな」
「ボクボク! ボクもお手伝い、するよ!」
ニューの隣でリノも布巾を手に、何やら耳やしっぽをぴこぴこさせて、テーブルを拭きたそうにこちらを見ている。
その微笑ましい姿に、俺がついカップを手にすると、リノが歓声を上げて濡れた布巾をべちゃっと広げた。
「あっ、リノ、なにすんだよ!」
「なにって、机を拭くんだよ?」
きょとんとするリノに、ニューが厳しい顔でたしなめた。
「見ろよ! 水が飛び散ってるじゃねえか! 布巾の水、絞ってなかったのか⁉ おっさんのお茶の中に入ったらどうすんだ!」
「え? ……あっ」
「ここは食いモンの場所だぞ! もっと気を遣えって!」
ニューからきつく言われて、リノの耳もしっぽもたちまち力なく垂れていく。
「あ、いや、ニュー、そんなに言わなくても……」
言いかけた俺だったが、リトリィがそばにやって来て、二人に声をかけた。
「リノちゃん、お手伝いありがとう。でも、もうすこし、そこの手桶の中にお水をしぼってから、机をふいてね」
「う、うん……」
「ふふ、いっしょにだんなさまのためになることをお手伝いしたいって気持ち、とってもうれしいですよ。せっかくですから、だんなさまによろこんでもらえるようにしましょうね」
少し晴れやかな顔になったリノが、床の手桶の上で布巾を絞り始める。それを見届けるようにしながら、リトリィはニューにも声をかけた。
「ニューちゃんはえらいですね。だんなさまのことを一番に考えて、リノちゃんがこれからおなじ失敗をしないように、お姉ちゃんとして声をかけてくれたのね。わたしはうれしいですよ」
リトリィがリノに声をかけた時、どこか傷ついたような顔をしたニューだったが、彼女も声をかけられて、うれしそうにリトリィを見上げる。
「だ、だってほら、おっさん……っと、だんなさま、きれい好きだから! リノが、おっ……だんなさまに嫌われたらかわいそうだろ?」
「ええ、そうですね。ニューちゃん、ありがとうございます。あなたの思いやり、やさしさが、ちゃんとつたわるように」
「お姉ちゃん! ボク、机、ふいたよ!」
「……リノちゃんも、ありがとうございます。だんなさまがおなかをこわしたりすることのないようにたしなめたニューちゃんのことも、だんなさまのためにってがんばるリノちゃんのことも、わたしはだいすきですよ」
チビ姉妹二人がリトリィに飛びつくのを見ながら、俺はやっぱりリトリィには敵わないと思った。あんなに反射的に二人の子供を傷つけずに、良さを褒め上げ望ましい方向に誘導するなんて。
……待てよ?
「俺が、お腹を、壊したり、しないように……?」
……俺が腹を壊す?
リノが飛び散らせた水で?
……ひょっとして……ひょっとしたら、そういうことなのか⁉
「……ムラタさん?」
首をかしげるマイセルに、俺はつかみかかるように聞いた。
「マイセル、この街の排水路って、分かるか?」
「え? ……ええと、その……お父さんなら……」
マレットさん──そうか、この街で代々世襲棟梁として大工たちを束ねてきたマレットさんなら、確かに!
「……おっさん、どうしたんだ?」
「ニュー、さっきリノを叱ったのは、なぜだ?」
「そりゃ、汚れた水をおっさんが飲んだら、気を悪くするかもしれねえから……」
「リトリィ! なぜ俺が腹を壊すかもしれないと思った?」
「……ニューちゃんがリノちゃんをたしなめたように、よごれた水を口にして、だんなさまがおなかをこわしてはと……」
「それだ、それなんだ!」
俺の言葉に、リトリィが首をかしげる。
「あの、だんなさま?」
「リトリィ、君の言うとおりだ。汚れた水を口にすれば、腹を下す恐れがある。だから水を木炭で
公共の井戸は一応あるし、瀧井さんはそれが病原菌によって汚染されているのではないかと疑った。ただ、汚染源が分からないと。
俺たちが温泉に向かう前に、腹痛騒ぎなどなかった。だが、帰って来たらこれだ。
もしかしたら、街を混乱に陥れている悪魔の正体は……!
「じゃあ、すぐに見に行きましょうよ。ムラタさん、気になるんでしょ?」
マイセルが笑う。
「おとうさんなら、排水溝の場所、多分いろいろ知っていますから」
マイセルは胸を張ってみせた。
「あれこれ考えるよりやってみたほうが早い! お父さんも、いつもそう言ってます!」
なるほど、いかにもマレットさんらしい。マイセルの言葉に、フェルミも笑う。なるほど、百聞は一見にしかず、というしな。
よし、すぐに動こう! 大工ギルドも巻き込んで!
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