第733話:予断と偏見と(1/2)
「……で、ムラタさんよ。コイツをどう思う」
「どう思うって……これが全てだと思います。これが元凶ですよ」
「そうか……。俺にはよく分からんが、つまりどうすればいい?」
「俺たち大工にできることなんて、一つしかないでしょう」
目の前にある、モルタルに亀裂が入りレンガの一部が割れている下水路。変色の具合から、かなり前から亀裂が入っていたのだろうと推察できた。
それが、井戸のすぐそばにあったのだ。
マレットさんから教えてもらった、この街の排水網。それはすべてではなかったが、マレットさんの知る情報は、いまの俺たちにとって必要十分だった。
「よし、俺はこれからギルドに行く。ギルドを通して、役所に連絡させる。
「ありがとうございます。俺は瀧井さんのところに行ってきます。あの人は、細菌……あ、いや、毒物にも詳しいようですから」
「あの人の知恵は相当に広いからな……。あんたにも通じるものがあるだろうし、任せたぞ」
「なるほどなあ」
「瀧井さんのおっしゃった通りでした」
「いやいや、わしは原因の予想をしただけだ。実際にその原因らしきものを見つけ出したのは、ムラタさんだ」
共同井戸まで一緒に来てくれた瀧井さんは、中をのぞき込みながらつぶやいた。
この街には、かなり立派な排水路が整備されていて、民家の排水が直接川に流れ込むことがあまりない。
街の下流域に向けて伸ばされた地下下水路が、途中で川の水を取り入れながらいくつか設けられた地下プールで徐々に希釈され、街のはずれで川に放流される仕組みになっている。マレットさんに聞いた時は、驚いたものだ。
「なるほどな。誰が考え出したか知らないが、なかなかうまくできているようだな」
「百年以上も昔からそういう仕組みなのだそうですよ」
「わしもこの街に住み始めてからそれなりに経つが、見ようとしなければ見られぬものだからな」
街の拡張に伴い、排水路は徐々に広がっているそうだが、基本的な仕組みはそのようになっていて、とくに城内街はかなり綿密な計画で整備され、門外街も城内街ほどではないが、区画ごとにきちんと整備されているのだという。
今回の騒動は、その排水路が問題だった。
実はこの排水路、大昔は川にすぐ繋がっていたらしいんだが、街の中を流れる川の汚染が深刻になったため、水路を引き直し、街の下流部に束ねて流すようになったそうだ。
これは、ロンドンの下水と同じだ。かつてロンドンでは、テムズ川に下水を直接垂れ流していた。そのため、恐ろしく汚染された川になってしまった。やがて海まで地下下水路を引くことで、テムズ川の環境改善を図った。おそらく、それと同じなのだろう。
ついでに一部で川の水を取り込んで希釈、いくつかのプールを経て川に放水、という仕組みもこの時に生まれたらしい。多分この仕組み、微生物を利用して汚物を分解する現代の下水処理施設の概念を、知らず知らずのうちにある程度実現しているのだろう。
この世界の人が考えて実現したのか、それともこの世界に渡ってきた、何世代か前の地球人のアイデアなのか。とにかく、おかげでこの街はいままで、それなりに清潔な環境を保ってきたわけだ。
「それが、今回の地震で排水路が傷ついたのだろうな。その破損箇所から染み出した汚水の中にいた微生物が……」
「井戸の水を汚染した……ということですね」
井戸に毒を投げられた、鉄血党の人体実験だ──様々な流言の源となった、共同井戸。貧しい住人のために破格の安さで水を提供するこの井戸が、今回の騒動の元凶だった。
誰かが、街の人間を狙って恐ろしい陰謀を企んだのではない。古いインフラ設備が何らかの原因で傷つき、地震がその損傷を大きなものにした。そして、それが飲料水を病毒水に変えたのだ。
「……不安に駆られた集団の心理というのは、いつの世になっても、どんな場所であっても、やはり恐ろしいものだな」
瀧井さんの言葉が、やけに心に残った。
マレットさんがギルドを通して訴えたことで、工事の予算もすんなりついて 工事もすみやかに始まり……となればよかったんだが、残念ながらそううまくはいかなかった。
「わしらに乾き死にをしろというのか!」
井戸を封鎖して仕事を始めたら、なぜかそんなことを言われて仕事にならなくなった。確かに水は生きるのに必須だけれど、公共井戸はここが一番安いというだけで、他にも公共井戸はある。それなのに、特に老人たちが詰め寄ってきて、水をよこせと訴えてきたのだ。
「ここの水は、お腹を壊す恐れがあるので、その原因を取り除くために必要な工事をしています。他の井戸をご利用ください」
「そんなことを言って、高い井戸を使わせて貧乏人から金を巻き上げる魂胆か! この人でなしめ!」
老人たちは、口から唾どころか泡すら飛ばしながら、意味不明なことを槍玉に挙げて俺たちを責め立てる。
「しばらくはご不便をおかけいたしますが、必ずまた使えるようにいたしますので、どうか今しばらくお待ちください」
「しばらくとはいつまでだ、この守銭奴め! 大工仕事なんぞ、天気模様でいくらでも引き延ばしを図るくせに!」
「いえ、決してそのようなことは……」
「何言ってやがる! 土を塗ったら固まるまで待つとか言って、その間何日も、なんにもせずに酒飲んでいるくせに! 貧乏人にたかる蟻め、早くそこをどけ!」
その、貧しい人のために工事をしているのに、なんでここまで言われるのか。思わず拳を握りしめるが、ぐっとこらえる。
「……この井戸の水は今、汚れていて、飲むとお腹を壊す恐れがあります。それを、元の綺麗な井戸にするための修理です。ご不便をおかけしますが……」
「同じことしか言えんのか、この無駄飯食らいの能無し
沸かして飲む
「……申し訳ありませんが、これ以上は作業lに差し支える恐れがございます。そうなれば、みなさまに水をお届けする日程に遅れが出かねません。ご不便をおかけして申し訳ございませんが、今しばらくお待ちいただきたく……」
──カン。
深々と下げた頭に、
「そうやって水を人質にでもしたつもりか! そんな偉そうな言葉を並べ立てたって、わしらは騙されんぞ! さっさと水を渡せ!」
唾を飛ばしながら、老人が手に石を握っている。
「鉄血党に妙な疑いをかける噂を流して、水代を釣り上げようっていう腹づもりなんだろう! わしら貧乏人から絞り取ることばかり考えおって!」
「そうだそうだ、お前らのほうが甘い汁をすすりやがって! どうせギルドの連中なんて、根性の腐ったろくでもない賄賂野郎ばっかりだろう! 貧乏人から水まで巻き上げようったって、そうはいかねえぞ!」
しまいには、積み上げた石材を勝手に持っていってしまう始末。信じられない話だが、因縁をつけてきた老人たちは、俺たちが現場の補修作業のために取り寄せたレンガや石材などを、手当たり次第に持ち去ったのだ。いったいなんのつもりなのか、こっちは困惑するばかりだった。
翌日、それらが石材屋の店頭に並んでいるのを見て、老人たちが石材を盗んだその日に売り払ったことを知って、その荒んだ精神性に呆れ果てることになるのだが。
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