第734話:予断と偏見と(2/2)

「やりやがったな、このクソ野郎!」


 マレットさんが、怒髪どはつ天をく勢いで男の胸ぐらをつかみ上げる。

 マレットさんは、現場の混乱を聞きつけて「俺たちの仕事を信用できねえという奴らは、俺が説得してやる」と言って勇んで来てくれたのに。

 その彼が、まさかと言うべきか、やっぱりと言うべきか。


「お、親方! 落ち着いて……!」

「馬鹿野郎! 離せバーザルト、コイツは俺たちの誇りを鼻でわらって見下しやがったド畜生のうえに、仲間の女房を傷つけやがったクソ野郎だぞ!」




 ことの発端は、リトリィがマイセルとマレットさんと一緒に、現場に差し入れに来てくれたことだった。


 リトリィが、朝早くから現場で作業する連中に、笑顔で加糖生理食塩水スポドリと焼き菓子を配っていた時にそれは起きた。


「……現場の責任者の男が、ケダモノの尻を追いかける変人だっただと? これだから大工は信用ならんのだ」


 やっぱり今朝も朝っぱらから文句を言っていた爺さんが、リトリィを見て言い放ったのだ。


 ジジイを反射的にじっと見つめる。

 ジジイが何故か一歩、あとずさる。


 リトリィが何故かさっと顔色を変えて、「だんなさま、差し出がましいことをして申し訳ございません。わたし、すぐに帰りますから」と、俺の手を握って「ですから、どうか落ち着いて……!」と訴えてきたのだが、俺はもちろん冷静だ。

 冷静に、これからジジイをどう料理してやろうかと頭を巡らせ具体的調理方法を二十ばかり思いついたところだったってだけだ。


 すると、先に口走ったジジイの隣にいた壮年の男が、薄ら笑いを浮かべながらジジイに追従した。


「全くだ! よりにもよってケダモノを孕ませる変人が、一人前の仕事をしているように見せかけよって! この街の大工も質が落ちたものだな!」

「なんだとおっさん! ムラタさんのことを知りもしないくせに!」


 いつもは俺に対して軽口を叩いてばかりの、マレットさんの弟子であるレルフェンが、弟子仲間のバーザルトの制止を振り切る勢いで噛み付く。


「ムラタさんはなあ! この井戸を利用するひとみんなが、腹を壊さねえようにって動いてんだよ! ずっと文句垂れてるだけの暇人のてめえらとは違うんだよ!」

「やめろレルフェン」


 マレットさんが、その頭に拳骨を振り下ろして黙らせる。


「俺たち大工が信じられねえと言うなら、仕事で示して見せるだけだ」

「で、でも親方!」

「でもじゃねえ。ほら、リトリィさんおかみさんの差し入れは食っただろう? 続けるぞ」


 マレットさんはそう言って、爺さんとおっさんをにらみつけてから、俺たちに仕事に戻るように促す。

 怒りに堪えているのが、その肩の震えからよく分かる。


 やはり、世襲棟梁は伊達ではなかった。

 怒りの制御方法アンガーマネジメントをよく心得ているのだろう。


 リトリィが、申し訳なさそうに頭を下げながら、マイセルと一緒に、空になった藤かごを抱えるようにして場を後にしようとする。


 その時だった。


「あっ……」


 リトリィが、つまずいたのだ。

 その瞬間を、俺はよく覚えている。


 蔑むような男の表情を。

 リトリィの足元に差し出された爪先を。

 かごを抱えたまま、バランスを崩すリトリィの、信じられないといった表情を。

 スローモーションの映像を見せられているかのように動けなかった、俺自身を。


 俺は、どうして、その時、彼女を支えるために動けなかったのだろう。


「お姉さまっ!」


 マイセルの悲鳴で、俺は金縛りが解けたようにリトリィに向かって走っていた。空だったとはいえ、丈夫な藤かごで腹を打ったリトリィは、お腹を押さえてうずくまったままだ。


「リトリィ……リトリィ!」


 彼女は歯を食いしばるようにしながら、それでも「だいじょうぶ、です、あなた……」と微笑んでみせる。


「ふん。臭いケダモノベスティアールごときが、みっともなく孕んだ醜い腹をさらしてヒトさまの街を出歩くからだ」


 男が冷笑を浮かべて並べた言葉が、一瞬、理解できなかった。

 ──いや、理解を拒否していた、と言った方が良かったかもしれない。

 それくらいに、俺の頭は真っ白になった。


「やりやがったな、このクソ野郎!」


 動けなかった俺に対して、マレットさんは即座にこの男の胸倉をつかみ上げた。


「お、親方! 落ち着いて……!」

「馬鹿野郎! 離せバーザルト、コイツは俺たちの誇りを鼻でわらって見下しやがったド畜生のうえに、仲間の女房を傷つけやがったクソ野郎だぞ!」


 俺だって、マレットさんに遅れたとはいえこのクソ野郎をぶち殺したい衝動に駆られたはずなのに、クソ野郎の胸元をつかんで振り回しているマレットさんを見てしまうと、なぜか止めなければならないと思ってしまうから不思議だ。


 壮年の男性が、一人の男の一本の腕によってつかみ上げられ、文字通り宙を舞う姿に恐れをなしたのだろうか。さっきまで散々に俺たちを馬鹿にしていたクソ御老人たちは、あんぐりと口を開けたまま、何も言わない。


「や、やっぱり下品な大工は、腕力でしか訴えることができないようだな! どうせこの工事だって、鉄血党の不当な噂を口実に、自分たちの小遣い稼ぎをしたいだけの……あえぇぇぁぁあああ⁉」

「孕み女に手を下したド外道のくせに! 俺たちが小金稼ぎのためにいい加減な工事をしてるって言うのか、この脳みそ生き腐れ野郎!」

「親方っ! 駄目です、やりすぎは警吏けいりが来ます!」


 バーザルトが訴えると、かえってマレットさんの暴風が加速したみたいに、クソ野郎が胸元をつかまれたまま空中で踊るように振り回される。何かの冗談みたいな光景だ。


「離しやがれ! この年ばかり無意味に重ねたしょぼくれキャン太郎を今すぐコイツの大好きな井戸の中に叩き込んでやる! 自分のゲロと下痢と血便にまみれて死に腐れ! 墓も作らず下水のクソと一緒に流してやるからなしなびれ瓢箪ひさご野郎めが!」

「こ、殺す気っ……うぶぅぉおああっ……⁉」

「俺は殺さねえよ! てめぇの大好きな井戸に叩き落とすだけよ! あとは井戸水がお前を殺すってだけだ! ひとの名誉を侮辱した罪の重さ、まさか知らねえとは言わせねえぞ!」

「ぶぇぇぁああっ⁉」


 俺もさすがに止めに入らないと、と思い始めた時だった。


「ご、ごめんなさい、あなた……。お、おなかが……いた、い……です……!」


 それまでうずくまっていたリトリィが、俺にすがって、力を振り絞るように訴えてきたのだ。


「……リトリィ? ……まさか」

「お姉さま……お腹が痛い……ムラタさん! すぐ、すぐおうちに!」


 マイセルも血相を変えて訴える。

 クソ野郎を地面に叩きつけたマレットさんが、下腹を押さえて震えるリトリィを見て、すぐに弟子たちに怒鳴った。


「おい、お前ら! 工事は中止だ! おかみさんをすぐに家に運ぶぞ! ムラタさんよ、あんた、取り上げ婆さんは誰に頼んであるんだ!」

「ご、ゴーティアス婦人に……!」

「だったら走れ! リトリィさんはこっちでなんとかしておく! こういう時は医者より産婆だ!」

「は、はい!」


 俺が走り出そうとすると、地面に伸びていた男が、咳き込みながら憎々しげに言い放った。


「は、はは……ちょっと腹を打ったくらいで大袈裟な……。それにケダモノなんだ、犬と同じで、ほっといたって簡単に……」


 即座に股間を蹴り飛ばす!

 こいつが吸う酸素さえ、くれてやるには惜しい資源だ!


「おぶっ⁉」


 俺の一撃で悶絶する男をマレットさんは再びつかみ上げ、額をぶつけそうな勢いで怒鳴った。


「てめぇ、万が一、このご婦人や赤ん坊になにかあってみろ! 死んだ方がマシだったと、何度だって後悔したくなる目に遭わせてやるからな!」



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