第679話:始まりの地へ(5/5)
「なんスかあれは! なんだったんスか!」
ようやく恐怖から解放されたためか、フェルミはずっと、「なんだったんスか、あれは!」と興奮したように叫び続ける。
「何って、見た通りだ。
「そりゃ知ってたっスよ? でも何なんスかあの大きさ! なんで狼がしゃべるんスか! なんで狼の言葉が分かっちゃうんスか!」
「俺もよく分からない。どうも、百年前の賢者の能力らしい。触れていると、言葉が通じるようになるんだそうだ。原理は分からない。で、その能力は感染する」
「なんなんスかそれ! 聞いたことないスよそんなの! なんでご主人がそんなこと知ってるんスか!」
……まあ、色々あったんだよ。そう答えた俺に、マイセルも続ける。
「これが私たちの仕えるご主人さまなんですから。フェルミももう、分かり切ってるでしょう?」
「さすがにあんな怪物まで知り合いだなんて思わないスよ!」
だが、その悲鳴も、それほど長くは続かなかった。
「……まだ、スか?」
「そうだな。もうしばらく行くと、ものすごく高い滝に出る。なかなか眺めもいい場所だし、水も綺麗だから、そこで今夜は野営にしよう」
俺の言葉に、リトリィが微笑む。今言った行程も、リトリィの発案だ。慣れないフェルミが初めて歩く道だから、たとえ早めに着いてもそこで野営しようと、あらかじめリトリィが俺に耳打ちしたのだ。
やはり、フェルミにはきつかったかもしれない。だが、今さら帰るなどと言うわけにもいかなかった。そんなことをすれば、彼女はきっと自分のせいで、と余計に気に病むに違いない。なにせ、リトリィは別格として、俺もマイセルも黙々と歩いているのだし、チビ三人に至っては山登りを楽しんですらいるのだから。
ただ、そうは言っても現実問題として慣れない山登りにフェルミが
「……ご主人、意外に体力、あったんスね……」
「だんなさまはこれくらい、きっと平気だよ? ボクと一緒に、毎日あの塔に上ってるもん!」
リノが自慢げに胸を張る。俺は彼女の頭をなでながら、フェルミに笑いかけた。
「意外って言われるのは心外……と言いたいところだけどな、たしかに以前はリトリィの力に頼りきりだった。でもこれでも多少は、ましになったんだぞ?」
「ふふ、だんなさま、ほんとうにたくましくなられました」
リトリィが微笑む。
そうだ、初めて山を下りるときなんて、最終的にはほとんどの荷物を彼女に持ってもらうありさまだった。それなのに、彼女は平気な顔で担いでいて、しかもそんなに疲れた様子を見せなかったんだ。
彼女の内に秘めた強さには、何度も助けられてきた。それは今も変わらない。
結局、おおよそリトリィが予想した行程のとおり、滝のほとりで一泊することになった。まだ十分に明るかったが、水が豊富に確保できて、そして慣れないフェルミを休ませるためにも、滝のほとりはちょうどいい野営地だったのだ。
チビたちはキャンプを張るまでは元気な様子だったが、食事をとっている間にうとうとし始め、食べ終わる頃にはみな、寝てしまった。勇壮に響く滝の音で、子供たちは眠れないかもしれないと思ったりもしていたが、そういった心配は無用だったらしい。
三人で身を寄せ合い、毛布にくるまって眠るチビたちのふっくらした血色のいい頬を見ていると、自己満足かもしれないが、彼らを引き取ってよかったと思う。
「やっぱり、山って涼しいんですね」
マイセルが、横になって星を見上げながら微笑んだ。「涼しいというか、すこし、肌寒いというか」
「そうだな。滝のそばだからっていうのもあるかもしれないが」
マイセルの隣で、横になったままヒスイに乳をやりながらうつらうつらしているフェルミを見て、苦笑する。俺は身を起こすと、自分が被っていた毛布を、フェルミとマイセルの上に掛けてやった。
「ムラタさん……?」
「ほら、俺には……」
言いかけた俺に、マイセルが納得したように微笑んだ。
「お姉さまのふかふかに包まれていたら、確かに毛布は、いらないかもしれませんね」
リトリィの定位置は、いつも俺の左側。いまも、微笑みながら俺に体を絡めるようにして隣にいる。
「だんなさま、寒くはないですか?」
そう言って、リトリィはしっぽまで絡めてきた。
「寒くなんてないよ。さっきまであんなに愛し合っていたじゃないか」
俺の言葉に、リトリィが恥ずかしそうに目を伏せる。
「だ、だって……マイセルちゃんもフェルミさんも、今日はいいっていうから……」
「あんな大荷物を担いでここまで登って来て、そのうえ愛し合う体力が有り余っているお姉さまがすごいんですって」
なかばあきれるようなマイセルの言葉に、リトリィの顔が赤くなる。互いの体の隅々まで知り尽くしている仲だというのに、なにを今さら恥ずかしがるのだろう。そもそも、その無限に愛を求める貪欲さこそがリトリィだ。
──そう言うと、上目遣いに「……そんないじわるなこと、いわないでください……」と頬を膨らませた。
でも、そんなところがまた、可愛らしい。
「……なにごともなければ、明日の昼下がりには、山のおうちに着くと思います。がんばりましょうね」
目を伏せつつ、話を逸らそうと努力をしてみせる姿もまた、愛らしい。思わず彼女に向き直って抱きしめると、少しだけ驚いた様子を見せ、うれしそうに口を重ねてきた彼女が
「……ムラタさん、明日に響きますよ?」
今度こそあきれた声を掛けてきたマイセルに、苦笑しながら。
日も沈み、薄暗くなったころにようやくたどり着いた山の鍛冶屋一家の屋敷。
昨夜の「もう一戦」を後悔しながら、それでも歯を食いしばって歩いてきた俺に、向こうの姿は豆粒サイズだというのによく響く怒鳴り声が襲い掛かってくる。
「ムラタ! てめぇこのヒョロガリ野郎! 来るなら来る前に、こっちに連絡を寄こしやがれ!」
「……連絡って、こんな山に、どうやって、連絡、すればいいんだよっ!」
「気合でなんとかしろ!」
あいかわらず無茶苦茶なことを言う、顔面が傷だらけの男──アイネが、俺たちを屋敷の外まで出迎えに来たのだ。
続いて、「おう、久しいなムラタ。元気か」と、真っ黒に日焼けしたスキンヘッドの男──フラフィーも、手のひらをこちらに向ける挨拶をしながらやって来る。考えてみれば、俺は彼に、この世界での挨拶を学んだんだ。
その隣には、亜麻色の髪の上に、
言うまでもない。以前、リトリィを拉致した奴隷商人の元から、俺たち討伐隊が救い出した女性だ。その後、俺たちの結婚式を縁にしてフラフィーが妻にした女性──メイレンさんと、娘のモーナちゃんだ。
メイレンさんは俺たちを見て、笑顔になった……んだけど、そのあとひきつったようなものに変わった。
……まあ、分かるよ。結婚したばかりの三人夫婦が、なぜか四人に増えていて、歳の合わない子供が三人増えた上に、赤ん坊を二人抱えているんだからな。
どうしてこうなった、と首をかしげたくもなるだろう。
「こっちの都合も考えずに、急に来やがって。おまけにいったい何人、嫁をこさえやがったんだ! ウチのリトリィを孕ませずに余計なガキをこさえやがって!」
問答無用のげんこつハンマーに、俺は久しぶりに頭を抱えてしゃがみこむ。直後に、悲鳴を上げたリトリィによる怒りの回し蹴りが炸裂!
「ちょ、ちょっとリトリィ! いくら何でもやりすぎ……!」
「いまのわたしは、ジルンディールが娘ではありません!
あせる俺に、リトリィは燃える瞳で言い放つ。
「それにわたしは、だんなさまのおなさけをいただいて、ちゃんとおなかであずかり育てていますとも!」
放っておいたら追撃しかねないリトリィを後ろから抱きしめると、ひっくり返って逆さまになりながら、親方がうめいた。
「……だからって、手加減も無しに親を蹴り飛ばす奴があるか! 鍛治も放り出しておるんだろう、この親不孝娘め……!」
「鍛治のおしごとは、だんなさまがくださっています! ナリクァンさまにみとめられたおしごとだってあるんですからね!」
胸を張ってみせるリトリィが、緊迫した雰囲気なのになんだか可愛らしい。
「わたしのだんなさまは、まち一番のだんなさまです! ついこの間だって──」
慌てて止めた。またリトリィによる「素敵な旦那さま自慢独演会」なんぞ始められたら、神経がもたないに違いない。
主に俺の神経が。
「やっぱりそうか。孫ができた報告だけで、来るはずがないと思っておったわ」
親方は、椅子にふんぞり返って、抜いた鼻毛を吹き飛ばしながらつぶやいた。
「いえ、もちろん報告もするつもりでした。いい頃合いでしたので」
俺は、リトリィが淹れてくれたお茶をすすりながら答える。嘘ではない。出産してしまうと、新生児を連れて長旅などしづらくなる。今のうちの方が、よっぽど融通が利くのだ。
「ふん。で、オレのところに来た理由──川で拾った状態を聞きに来たと」
「はい。あのとき、俺は確かに、崖から落ちました。何かから追われていたように思いますが、もしかしたら違うかもしれません。手がかりを知りたくて」
親方は耳を小指でほじりながら、ため息をついた。
「お前さん、それを知ってどうするつもりなんだ?」
「……分かりません。ですが、俺は日本から来ました。今さら日本に帰ろうとは思いませんが、あの時、何があったのか……まだ記憶が少しでも残っているうちに、少しでも手掛かりを得たいと思っているだけです」
「本当に、ニホンに帰ろうとしているとかじゃないんだな?」
「それはあり得ません。これだけ俺を愛してくれる妻に恵まれた自分が、日本に帰るなんて」
……正直言うと、せめて、親には報告したいとは思う。
息子の後輩の女性と結婚したクソ野郎のあなたの親不孝息子は、異世界に渡った挙句たくさんの妻とたくさんの子供に恵まれて、あなたよりも幸せになりましたよと、見せつけてやりたい程度には。
だが、それはもう叶わない。俺はこの地で生きて、この地で死んでゆくのだ。
少なくとも、俺の血を継ぐ三人の子供に恵まれて。
俺の言葉を聞いて、親方はしばらく、考え込んでいた。
頭をかき、髭をなで、腕を組み、うつむいてうなり、そして最後にまた、ため息をつきながら頭をかく。
「……これは、教えるつもりはなかったんだが」
親方は、顔を上げて俺の目をまっすぐに見た。
「あのとき──お前さんを拾ったときだ。一緒に拾ったモノがある」
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