第678話:始まりの地へ(4/5)

 バーシット山の麓の森を支配する、ひとよりもはるかに巨大な狼──「魔狼まろう」。額には、ほのかに青く輝くまっすぐな角。その角から伸びるようにして、しっぽまで続く、淡く青く輝く不思議なたてがみのようなものを持つ、神秘的な巨狼である。


 伝説によると、剣士を従えた賢者との契約により、魔狼まろうはこの森一帯の支配者となる代わりに、このあたりの狼はひとを襲わなくなったのだそうだ。伝説といっても百年ほど前の話なので、伝説というにはちょっと最近すぎる気もするが。


 ただ、魔狼まろうの存在自体は伝説でもなんでもなく、実在する。人間をひと噛みで真っ二つにできるほどの巨大な存在、それが魔狼まろうなのだ。




 ……で、やっぱりこうなった。


『……どうしてかしらね、おまえさんたちは平気だというのに』

「はは……。いや、迫力がありすぎるんだよ、『ハナちゃん』が」


 薄暗い森の一本道。俺は、目の前に立った魔狼──巨大な一角狼「ハナちゃん」に対して、膝が震えているのを自覚しながら無理矢理笑顔を作って答えた。

 全然平気じゃない。いや、この森に棲む二頭の魔狼が俺に対して友好的なのは知ってはいるんだ。知ってはいるけど……!


 一応面識のある俺で、コレだ。音もなく隣に降り立った巨大な狼の威容に、心の準備も何もなかったフェルミなど、悲鳴を上げる間もなく白目を剥いてぶっ倒れた。正確には驚きのあまりぶっ倒れかけたところを、それを支えようとした狼にぱくりとくわえられて、精神的にトドメを刺されたって感じなのだが。


『我が何をしたというのだ。ムラタのメスだからと思って、友好を結ぼうとしただけなのに』


 でろん、とよだれまみれになって吐き出されたフェルミの真っ青な顔を見て、ちょっと同情する。こちらは「ハナちゃん」の娘だったか。どことなく不満そうな顔をしている。


『しばらくぶりの匂いが来たと思ったら、わらわらと色々連れているじゃないか。顔くらい見せておきたいと思ったのだけれど、余計な気遣いだったのかしらねえ』

「いえ、『ハナちゃん』のなわばりを通るのに『ハナちゃん』のことを話しておかなかった、わたしたちが悪かったのです。メイちゃんも、気にしないでください」


 リトリィが、若い雌狼のほう──メイといったか──に、申し訳なさそうに頭を下げる。



『おや、そうかい。やっぱりおまえさんは、しつけの行き届いた子だね。感心だよ』


 ハナちゃんは満足そうに鼻を鳴らした。ちなみにハナちゃんのもっふもふの胸に飛びついているのはマイセル。「ハナちゃん、お久しぶり! ふわ〜、ふっかふか、気持ちいい!」などと言いながら、実に楽しそうだ。


 そんなマイセルを慈しむように鼻面をこすりつけるハナちゃん。


『おまえさんも母親になったみたいだね。乳はよく出るのかい?』

『はい!』

『そうかい。メスの仕事は、これぞと思い定めてつがった相手の子供を産むことさね。いい仔をたくさん産むんだよ』

「任せてください! あと五人は生んでみせますから!」


 狼相手にどんな会話をしてるんだ、マイセルは。

 それよりあと五人生むつもりって、俺の経済力が追いつかないって!

 ハナちゃんはというと、そのマイセルの言葉に満足そうにうなずいたあと、ため息をつくように鼻を鳴らした。


『金色のおおかみむすめも栗色のひとむすめも、よくできた子たちだね。それに引き換え、ウチのバカ娘ときたら、変なところで「ぷらいど」が高くてね。この森以外を知らぬものだから、頭を下げるってことを知らない。この前もよその森で、若いオスと大喧嘩さ。まったく、そういうところまで、ライトの奴にそっくりでね』

『お母様、あれは向こうが悪い。我を弱い者のように扱った、の者が』

『そんなことを言っているから、いまだに仔の一つも産めないでいるんだろうに』


 あきれてみせるハナちゃんだが、しかしその目はどこか優しい。彼女が愛した人物を思い起こすことは、やはり彼女にとって心地よいことなのだろう。


 そういえば、彼女の思い出の中にいる人物──「ライト」とかいう日本人。瀧井さんより五十年前、今から百年ほど前に日本からやって来たという。「剣士と魔狼を連れた賢者」の話だ。


 でも、今、ハナちゃんはプライドって言ったよな? 間違いなく、プライドと言ったよな? 英語の「プライド」だよな?


 俺の言葉がリトリィやマイセルに、少し移っていることを考えたら、当然、ハナちゃんが操る言葉の中には、ライトの言葉も移っているはず。

 百年前にやってきた日本人なんだから、てっきり明治時代の人間だと思ったら、意外に現代人に近いのかもしれない。もしくは、明治時代の人間も意外に外来語を使いこなしていたのだろうか。


『それにしても、しばらく見ないうちににぎやかになったものだね。メスをより多く従えるのがオスの甲斐性というものだけれど、このチビたちはおまえさんの仔ではなさそうだが?』


 マイセルに続いて、おっかなびっくり、ハナちゃんに手を伸ばすチビ三人のためだろう。そっと身を横たえるハナちゃん。チビたちが、マイセルのようにハナちゃんの胸の毛に埋もれるようにして歓声を上げ始める。チビたちは怖いという感情より、好奇心のほうがずっと勝っているようだ。


「俺が引き取りました」

『引き取った? おまえさんの群れに、子を残して死んだオスがいたのかい?』


 いぶかしげに問うハナちゃんに、経緯を簡単に説明する。


『血縁があるわけでも、群れの子でもない子を引き取って育てるとは、なんとも、おひとよしな男だこと』


 くっくっと喉の奥を鳴らしてみせるハナちゃんに、俺も苦笑いだ。でも、俺は後悔も何もない。今となっては、むしろ素晴らしい出会いだったと思っている。


『それで、そのちっこいのが、おまえさんの仔かい?』


 若い巨狼──メイが、さっきから人の頭ほどの大きさの鼻先でふんふんとにおいをかいでいるのは、もちろん俺の娘たち、シシィとヒスイだ。てっきり泣くかと思ったのに、むしろ不思議そうな顔で、その巨大な鼻面を眺めている。


『いい度胸じゃないか。我を見ても恐れるどころか、手を伸ばそうとすらしている』


 メイの鼻面を恐れない我が娘を見て、ハナちゃんは笑った。

 いい度胸。確かにそうかもしれない。シシィもヒスイも、人見知りをほとんどしないのだ。

 これは、我が家を拠点にして、ナリクァン夫人たちがよく訪れては炊き出しを行うことで、たくさんの人々に触れているのも関係しているかもしれない。


『実に愛らしいねえ……。シルゥがもしライトの仔を産んでいたら、こんな具合だったのだろうかね』

「シルゥ……百年前、賢者さまと旅して回った騎士さまのことですね!」


 マイセルが、興奮気味に反応する。「わたし、そのお話が好きで! よく、母さまにおねだりしていました!」

『そうかい。聞きたいなら、いくらか話してやってもいいんだがねえ……』


 ハナちゃんはそう言って、俺を見る。

 どこか親愛の情と、そして、どこか憐れみを感じさせる目で。


『だが、おまえさんたちは山になにか、用があるのだろう? 老いぼれ狼の思い出話なんぞよりも、大切な用が。それが済んだ帰り道に会えたなら、そのときに話してやるとするよ』


 そう言ってハナちゃんは、マイセル、フェルミ、そしてリトリィに鼻面を押し付けた。マイセルには名残惜しげに、フェルミには少々乱暴に、そしてリトリィには、まるで戦友かなにか、親しい友であるかのように。


『だから、おまえさんたちメスは、このオスを守ってやるんだよ』


 そう言い残し、再び二頭の巨狼は、森の奥に消えて行った。



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