第259話:妻として

 しかし、七日間も飲まず食わずでいたせいだろうか、落ち着くと急に腹が減ってきた気がする。


「ふふ、おまちくださいね。いま、パン粥を作ってまいりますから」


 リトリィがそう言って席を立つ。パン粥か。そういえばそうだな、お粥に梅干し、なんて病人食は、日本だからこそだ。


 しばらく、窓の外を見上げる。窓から月は見えないが、いい天気だ。明日もよく晴れるだろう。


 それにしても、七日。

 あの、夕日の中の騒動から、知らぬ間にもう、七日が過ぎていたなんて。


「……毒を食らった後に七日間も飲まず食わずで、俺もよく生きていられたもんだ」


 人間、水さえあれば食わずとも三週間程度はなんとか生きていられる、とか聞いたことはある。だが、水が無ければ数日しかもたないとも聞いている。

 昏睡状態だったから余計な汗をかいたりせずに済み、だから補給もせずに済んだ、ということなのだろうか。

 

「そんなわけ、ないですよ?」


 俺の言葉に、マイセルが微笑んだ。


「え? だって俺、七日間、寝てたんだろう?」

「何のために私たちがいたと思ってるんですか?」


 マイセルが笑った。私たちは、ムラタさんの妻になる女ですよ、と。

 昏睡状態の俺を、マイセルもリトリィも、ずっと世話してくれていたらしい。


 ただ、基本的には俺の身の回りの世話の多くは、リトリィが譲らなかったそうだ。体を拭いたり、下着をかえたりといったことはともかく、何かを食べさせたり、包帯をかえたりすることは。

 自分のせいでお怪我をされたのだから、と言って。


「こう、スープのお芋をよくすり潰してですね。お口に含まれて、それをこう、口移しで。でも、私がやってもうまくいかなかったのに、お姉さまだと、ムラタさんったら上手に飲み込むんです。もう、妬けました」


 知らん。

 知らん知らん知らん全然知らん。


 そういえば、俺がこの世界に落っこちてきたときも、たしかリトリィが、口移しでスープを飲ませてくれていたんだっけ。

 俺、どんだけリトリィに救われているんだ。リトリィがいなかったら、俺、とっくの昔に死んでたんじゃなかろうか。


 ていうかだ。

 マイセルがやってみた、ってことは、……うん、まあ、どうせキスは済ませてるんだ、何を今更、だな。


 自分に言い聞かせていると、マイセルはさらなる爆弾を投下した。


「それにその、……あの、しものお世話もですね。お姉さま、どうしてわかるのか、その……、急にぱっと立ち上がると、すぐにその、……しびんを手にとって。

 ――なんでわかるの? って、ほんとうに、びっくりしっぱなしでした」


 Oh――

 そこまでやらせてたのか……って、そりゃそうか。七日間も眠り続けてれば、そりゃシモの世話もしてもらうに決まってる。


 人間、じっとしてたって出すものは出すんだから。昏睡状態だって、体が正常に働いていれば、当然そうなるわけだ。

 小どころか、大だって。腹の中に、モノが入っている限り、いつかは出すのだ。

 けど、俺、そこまでさせてたのか……。


 シモの世話までやらせていたというのは、相当に恥ずかしくもあるが、しかしそれ以上に迷惑をかけていた、ということの方がよほど心苦しかった。病院は、開いていなかったのだろうか。


「……失礼します。お食事、お持ちしましたよ」


 ドアがノックされ、入って来たのは、リトリィだった。トレーに乗せられた皿からは、暖かそうな湯気が漂っている。


 驚いた。こんなに早くできるなんて。火を起こすだけでもそれなりに時間がかかるというのに。

 だが、リトリィに言わせれば、朝焼いたパンを、夜のスープの残りに浸して煮ただけだという。


「本当は、なにかしら乳があるとよかったんですけどね」


 なるほど。チーズがあるんだし、当然ミルクもあるだろう。ただ、冷蔵庫があるわけでもないこの世界、搾りたてのミルク以外は存在せず、だからスープを使ったパン粥というわけか。


「はい、ムラタさん。お口を開けてくださいな」


 そう言って、リトリィがスプーンを差し出してくる。


『それで、ムラタさんに口移しで』


 途端に、マイセルの言葉がよみがえってくる。

 リトリィ、人前で、俺の世話をしていたんだよな?

 あらゆる世話を。


 急になんだか気恥ずかしくなる。しかし、マイセルはリトリィが俺の世話をするのが当たり前と言った様子で、特に何も口をはさんでこない。


 リトリィが少し首をかしげるようにして、しかしさらにスプーンを近づけてくる。


「あ……いや、それくらいは自分で……」


 言いかけて、やめた。リトリィの顔が悲し気に曇ったからである。

 おとなしく口を開くと、嬉しそうに、そっとスプーンを口に滑り込ませてきた。


 するりと口に入って来たスプーンは、絶妙な角度で傾けられ、俺の舌に、スプーンの上のものをそろりと置いてゆく。

 熱すぎず、しかしぬるくもない絶妙な温度。


「ゆっくり、飲み下してくださいね。お医者様のお話だと、急に食べたら、おなかがびっくりするそうですから」


 言われるまま、特に噛み応えも何もないパン粥を、何回にも分けて飲み込む。


「ふふ、お味はいかがですか?」

「……うまい」


 正直、歯ごたえのないものというのは、俺は好きじゃない。伸びきったラーメンとかスープにパンを浸して食うとか、日本で生きていた頃は正気の沙汰じゃない、とまで思っていたくらいに。

 実は、お粥だって、だって、嫌いだった。


 けれど、このリトリィが作ってくれたパン粥は、美味かった。

 なぜ美味いと感じられたのかは、分からない。食感は、はっきり言ってしまえは好きになれない感触だった。

 でも、この世で一番美味いと感じてしまった。


 空腹は最高のソース、なんて言葉があった気がするが、でも、それだけじゃない気がする。

 嬉しそうに、ひとさじひとさじ、差し出してくるリトリィ。彼女のその微笑みを前にしてしまうと、美味いとかそうでないとか、そういったものは全部、吹き飛んでしまうんだ。


 だから俺は、感謝と、しかし同時に申し訳なさも感じて、つい、言ってしまった。


「……すまない」


 不思議そうに俺の顔を見る、二人。


「――どうか、したんですか?」

「いや、その……。手間を、かけさせて……」

「手間だなんて。私もお姉さまも、そんなこと、思ったことないですよ?」


 マイセルの言葉に、リトリィも頷く。


「ムラタさんのお世話が手間だなんて、わたし、思ったこと、ありません。ううん、むしろ、お世話させていただけて、うれしいって思っています」


 だってそれが、お嫁さんのお仕事ですから――そう言って、リトリィは最後のひとさじを差し出してくる。

 それを口に含むと、ゆっくり、ひと噛みひと噛みを味わうようにして、ゆっくりと飲み込んだ。


「でも、こんな夜中に起こしてしまって……」


 病院なら、看護師たちがいる。リトリィたちの手を煩わせることなく、専門のスタッフが、いろいろと対応してくれたはずなのだ。

 やはりそういった、入院のできる施設というのは少ないとか、それこそ大金持ちとか貴族とかしか入れないとか、そういうことなんだろうか?


「ビョーイン、ですか? えっと、それってひょっとして、救貧院きゅうひんいんのことですか?」


 マイセルが首をかしげる。俺も、あまり聞き慣れない言葉に首をかしげる。


「ここじゃ救貧院っていうのか? うんまあ、そういうことなんだけど」


 すると、片づけをしていたリトリィが、ものすごい勢いで振り返った。


「わ、わたしたちが、自分のだんなさまを救貧院におくりこむなんて、そんなこと、するわけないじゃないですか!」


 飛びつかれ、がくがくとゆさぶられる。腹と左腕が激痛が走るものの、そんなことよりもリトリィのあまりの豹変ぶりに、俺はただ、成すがままにされていた。


「わ、わたしはもう、ムラタさんに信じてもらえる女じゃないかもしれません。でもマイセルちゃんが、そんなひどいことをするっていうんですか! ムラタさん、ひどいです! あんまりです!」


 目に涙すら浮かべて叫ぶ爆発ぶりに、マイセルも目を白黒させながらなだめようとしてくれたが、リトリィの憤激は、治まる気配を見せなかった。


「わたしを信じてくださらないのは、しかたがないです。わたしは一度、あなたのもとをとびだしてしまいましたから。

 ――でも、でもマイセルちゃんは、ずっとあなたのことを好いているって、わかってるじゃないですか! あやまってください! マイセルちゃんにあやまってください!!」


 あまりにも悲痛な叫び声に、ただ事ならぬと判断したのだろう。シヴィーさんたちがまたやってきて、リトリィを何とかなだめてくれた。だが、リトリィを落ち着かせたあと、部屋を出る際に、俺もずぶりと釘を刺された。


「リトリィさんの怒りももっともです。夫を救貧院に送るなど、妻の恥ですからね。ムラタさん、あなたの言葉は、リトリィさんもマイセルちゃんもだ、と言うに等しいことだったのですよ? もうすこし、言葉にお気をつけなさいね」


 ……いや、そんなに怒ることだったなんて思わなかったんだ。まさに口は災いのもと、か。


 反省していると、リトリィが、今度はぼろぼろと泣き始めた。またあなたを信じられなかった、もう自分はお嫁さん失格です、と。


 それをなだめるのに、本当に苦労した。マイセルも口添えをしてくれたのだが、延々と自己否定を続けるリトリィを抱きしめ、ずっと、頭を撫で続けていた。

 おたがいに、どれだけ相手が大切か、三人で、ずっと、語り合った。


 夜の底が白んでくるまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る