第258話:生還

 何度繰り返して見たことだろう。


 中途半端な長さの、天井から垂れ下がる鎖。

 繋がれた、金色の毛並みの少女。

 少女が差し出すように突き出す腰を、鷲掴みにしている枯草色の毛並みの狼男。


 どれほど駆け寄りたくても、まるでぬかるみの中にいるかのように足は動かない。

 たとえ動いても、前に進む気がしない。

 むしろ遠ざかっていくようにすら思えて、しかしはっきりとふたりが見える。


 少女のあえぎ声、狼野郎の勝ち誇る雄たけび。


『ください――』


 彼女が何度、俺に懇願した言葉だっただろう。

 それを、俺以外の存在に向けて口にする少女。


 そして奴は口にするのだ。

 「お前が弱いのが悪い」と、俺を見下しながら。


『オレの仔を産め』




 最初、それは銀色に見えた。

 青白い月明かりの中で。

 目の前の、吐息が感じられそうな距離の、その顔が。


 ――リトリィ。


 眠っていた。ベッドに寄りかかるようにして。

 よくは見えないが、おそらく、床にひざまずくようにしているのだろう。

 看病してくれているうちに、眠ってしまったようだ。


 月はだいぶ傾いているようだ。あと数時間もすれば夜が明けるだろう。

 あの騒動から、晩飯も食わずに眠り続けていたということか。

 リトリィが、付きっきりで看病してくれていたのだとしたら、もしかしたら彼女も食べていないかもしれない。可哀想なことをした。


 そっと手を動かし、彼女の髪を撫でてみる。

 ふわふわの、ややくせっけのある、柔らかな髪。


 ――ああ、彼女の髪だ。

 何度も抱いて、そのたびに何度も撫でた、彼女の、髪。


『ください――』


 唐突にその言葉がよみがえり、胸が痛くなる。


 あれは、夢だった。

 夢、だったはずだ。

 

 彼女は、あのとき、そんなことなど、言わなかった。

 言っていなかった、はずだ。


 夢は、ただの記憶の暴走だ。俺が恐れていたことを、脳が勝手に記憶の断片を繋ぎ合わせて再現してみせただけだ。


 彼女は奴の子供など望んでいなかった。俺を守るようにして、彼女は何度も言ってみせたじゃないか。


 ――本当に?


 思わず漏れ出た自問に、俺は右手で顔を覆う。


 どうして、彼女を信じられない?

 彼女は言った。

 望んでいるのは、俺の子供だと。


 ――たとえ彼女が望んでいなかったとしても、子供は、


 ひどく頭が重い。

 彼女のあえぎ声が聞こえてくるような気がする。

 かすかな寝息を立てている彼女が、いま、目の前にいるというのに。


 だめだ、俺はまだ夢の中にいるのか?

 これは、明晰夢めいせきむという奴なのか?


「リト、リィ……」


 自分でも、ひどい声だと思った。

 自分ではない老人が発したような、ひどく、ざらざらした声。


 ああ、やはり夢なのだ。

 変に納得する。


 彼女がこうして俺の傍らで看病してくれている、それこそが俺の願望なのであって、現実ではないのだ。


 ――弱い男に、自分の女も守れないような男に、女が、いつまでも執着する必要などないのだから。


 ――俺は、彼女を、守れなかった……。まただ、また、……。


 こうして、夢の中でまで、彼女に奉仕させている。

 疲れて、そのまま眠ってしまうほどに。

 そんな醜い支配欲にとらわれた、惰弱な男に、どうして彼女のような素晴らしい女性が、いつまでも従っていると思えるのだろう。


 知らぬうちに、涙がこぼれていた。

 俺は、どうして、彼女と添い遂げられるなどと、甘い夢を見てしまったのだろう。


「どうして、おれは、……」


 醜いしゃがれ声が、嗚咽と共に漏れる。

 ああ、この寝顔。

 朝起きたときに見られる、穏やかな寝顔。


 もう、そんなものは、手に入りはしないのだ。

 俺には、それを手に入れる資格など――


 ぴくり、と、耳が動いた。

 彼女の、三角の耳が。


 目が、ゆっくりと、開かれる。


「……ムラタ、さん……?」


 彼女の、透明感ある澄んだ瞳が、俺の目の前で、月の光を映す。




 痛い、そんなに強くしがみつかないで。

 気が付いたけど俺、左腕、包帯でぐるぐるに固定されてるわ。

 振動が、ものごっつ、痛いんですけど。

 ていうか、腹!! 腹の、横に広がるこの傷み!!


 でも、言えなかった。

 痛い、だなんて。

 歯を食いしばって、耐えたよ。


「よかった、よかった……! もう、もう、今度こそだめかと、わたし……!!」


 すがりつき、顔じゅうを舐めながら泣きじゃくる、そんな彼女に、『痛いから離れてくれ』などと、言えるものか!


「ずっと、ずっと、起きてくれなくて……。もう、あなたが、起きてくれないんじゃないかって……! ムラタさん、ムラタさん……!」


 ……ごめん。そんなに心配をかけたのか。

 本当に、俺ってやつは。


 痛みをこらえて、なんとか、彼女の頬に右手を添える。

 動きの止まった彼女に、そっと、口づけをする。


 嗚咽を漏らしながら、しかし、舌で応えるリトリィ。

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、けれど、笑顔で、言った。


「……ムラタさん、おかえり、なさい……!」

「うん、……ただいま」


 ああ、俺は、生きて、還ってこれた。

 ――生きて、彼女と、ここにいる……!




 騒ぎを聞きつけて部屋に飛び込んで来たのは、マイセル。

 続いてシヴィーさん、そしてゴーティアスさん。


 ようやく落ち着いたリトリィが恥じ入るように離れて、そしてやっと気づいた。

 この部屋、シヴィーさんたちの家なんだと。


 マイセルも泣いて飛びついてきて、それで腹と左腕に激甚なダメージを食らい悲鳴を上げた俺。腹に力が入った瞬間、さらに七転八倒しかけて、より悲惨な痛みに気を失いそうになる。

 リトリィが何か言おうとするが、しかしたった今、自分も同じことをしていた自覚があったらしく、ひどく焦りながらもマイセルを引きはがせない。


 結局、喜びと痛みで目を白黒させていた俺に対しては何のフォローもないまま、目を覚ましたのは良いことというわけで、シヴィーさんとゴーティアスさんの二人は寝室を後にした。マイセルとリトリィは、部屋に残る。


「大けがをなさったムラタさんを受け入れてくださって、ほんとうに助かったんですよ?」


 大怪我。

 あれだな、緑のフードマントの男。

 アイツが持っていた、うねる刃の、黒い短剣。


「毒が、塗ってあったそうです。血を壊す毒が。それで、ムラタさん、一日目はずっと痛みで叫び続けていたんですよ?」


 マイセルの言葉に、心底ゾッとする。血を壊す毒ってなんだよ、と思ったら、毒蛇の毒なのだそうだ。


「それで、二日目も終わるころに症状が治まってきて、なんとか峠を越えたと思ったら、今度はそのままずっと眠り続けて。お姉さまったら、ムラタさんが食べないなら私も食べませんって、この五日間、ずっと、水以外、ほとんど口にされなかったんですよ?」


 お姉さままでまいっちゃったらどうしようって、みんなで困ってたところだったんですよ――憤慨するマイセルの言葉に、リトリィが小さくなる。


「だ、だって……だって、ムラタさんが、何も食べずにいるのに、わたしだけ食べるなんて……」

「だから、それでお姉さままで倒れちゃったら、誰がムラタさんのお世話をするの?」

「でも……だって……」

「だって、じゃないですよ。ムラタさんのせいでお姉さままで倒れたってことになっちゃったら、ムラタさんが起きたときにムラタさんが気まずい思いをすることになるよって、何度も言ったのに、聞いてくれないんだから」


 すっかり耳をしおれさせてうなだれるリトリィと、そのリトリィを叱りつけるマイセル。

 ……初めて見る構図だ、多分今後も、まず滅多に見られない気がする。


「五日間って、俺、そんなに寝てたのか?」

「寝ていたのは五日間……もうすぐ六日目になるところですけど、その前に痛みで苦しんでいた日も合わせれば、七日くらい、このベッドにいたんですよ?」


 七日! よく生きていたな、俺。

 我ながら、貧弱なくせに妙に生命力の強い自分の体に呆れる。


「ゴーティアスさんが、うちで世話になっている方だからって、この部屋をお貸しくださったんです。あちこち、血で汚れちゃったんですけど、お姉さまとがんばって、なんとか綺麗にできました」


 そう言って微笑むマイセル。

 なんだか申し訳ない。

 俺は本当に、女の子に助けられてばっかりだ。


 ――助けられて?


「そ、そうだ! マレットさん! マレットさんは無事なのか!?」


 最後に見た光景。あのマッチョな体躯の男が、軽々と吹き飛ばされた、あの光景!


「お父さんですか? 派手に吹き飛ばされたみたいですけど、ただ突き飛ばされただけだったみたいで。人間が縦に回転して転がっていくなんて初めて見ましたけど、でも無事でしたよ」


 いやそれ全然無事じゃないだろ!

 思わず突っ込んだ俺に、マイセルは「お父さん、頑丈だから」と、笑って返す。


「あの狼さん、そのあとでお姉さまにものすごい勢いで怒られて。それで、尻尾も耳も丸めて、逃げて行っちゃったんです。ムラタさんにも見せたかったですよ! お姉さま、すごーくかっこよかったんですから!」

「や、やめて……。あんな、はしたない姿……見られたく、ない……」


 マイセルの陰に隠れるように身を縮めるリトリィが、可愛い。

 ――そうか、もう、俺、ほんとうに、リトリィに助けられたんだな……。

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