第257話:再遭遇(2/2)
今、目の前にいるなど――再び遭うなど信じ難い――いや、信じたくない――存在が、そこに立っていた。
「このメスには、オレの仔を産ませるんだ。触るんじゃねえ」
へたり込むリトリィの前に、全身、枯草色の毛並みをあらわにした狼男が。
――ガルフ!
「おまえ……どうして、ここに……!」
「前の雇い主の飼い犬どもが、懲りていないようだったからな。
「なにが……『オレのメス』だ! リトリィは――」
怒りに任せて駆け寄ろうとするが、一歩踏み出した時点で、腹部に焼けつくような衝撃を覚え、そのまま腰砕けになりしゃがみこむ。
……血?
今さら気づいた、俺の腹から脇腹にかけて、服が、真っ赤に染まっていた。
あのとき――リトリィに突き飛ばされたあのとき、あの、ガルフに殴り飛ばされた緑のフードローブの男に、刺されかけたんだ、俺は。
もし突き飛ばされていなかったら……
あの、禍々しくうねる黒い刀身を思い出す。
あれが、腹を突き破っていたのだろう。
焼けつくような痛みが、今さらのように襲ってくる。
くそっ……こんな……こんなときに!!
「今度ばかりは助けたのはオレだ。おい、今度こそオレと来い。オレの――」
ガルフは言いかけて、そのまま口を閉じた。
リトリィだ。
リトリィが、ガルフの胸に、両手を突き出していた。
いや、突き飛ばそうとしたのだ。
「……メスの力で、オレに敵うと思ったのか?」
「わたしは……あなたのものにはならないと、言ったはずです」
「それはなぜだ?」
「わたしが仕えるかたは、ムラタさんただひとりだけだからです」
一切の迷いの見えない、凛とした、リトリィの表情。
ガルフは首を掻きながら、リトリィの手を掴み上げるとつまらなそうに言った。
「オレの仔を産み育てるだけでいい、あとは好きにしろ」
「放して、ください! あなたの仔なんて産みません!」
「オレの仔はお前が産むんだ。前にもそう言ったろう?」
「ひと殺しのあなたの仔なんて、絶対産むもんですか!」
「じゃあ、人を殺さなければ、オレの仔を産むんだな?」
刺されかけたと思ったら、次はガルフかよ、くそったれ……!
俺は必死で這いずりながら、リトリィの元に近寄ろうとしたときだった。
「ムラタさん! おけが……してるじゃないですか! はねられたんですか!?」
マイセルだった。大工達も、馬車のほうに駆け寄る。
「おい、馬車を起こせ!」
「中に誰かいないか!?」
そう、俺たちを襲った、馬車のほうに駆け寄ったのだ。
マイセルの腕を払うようにして、俺は身を起こすと、必死に叫ぶ。
「だ――だめだ! 近寄っちゃだめだ! そいつらは――」
俺が言い終わる前に、ボロ雑巾のように転がっていた男を、大工の一人が助け起こそうとしたときだった。
その瞬間、リトリィの前から、ガルフが消えていた。
と同時に、倒れていたはずの緑のフードマントの男がいた場所にガルフが立っていていて、そして倒れていた男が宙を舞っていた。
実に無造作に、投げ飛ばされていたのだ。ガルフによって。
道路を挟む三階建ての家の、実に三階の窓ほどの高さまで放り投げられた男は、そのまま横転した馬車の上に落下する。
男の体は、横転して天を向いていた側面ドアをぶち破って、馬車の中に消えた。馬車を起こそうとしていた男たちが、悲鳴を上げて離れる。
「な、何しやがるんだ、この
「おい! あんた! 生きてるか!」
再び馬車に近寄ろうとする大工達。
ガルフの所業にあっけに取られていたらしいリトリィは、ハッとしたようにこちらに駆け寄ってくる。
すると、面倒くさそうにガルフが言った。
「おい、馬車に近寄るな。そいつはまだ生きている。そいつらは奴隷商人の残党だ」
そして、いつの間に手にしていたのか、黒い刀身の短剣を放り投げる。
短剣のうねる刃が、夕日を反射し、禍々しく光る。
大工達が一斉にガルフを見た。
「ど、奴隷商人って、この前、冒険者たちがぶっ潰したっていう、あの――」
「ほ、本当か……?」
戸惑う彼らを、ガルフは面倒くさそうに睨みつけた。
「オレは嘘など言わん。お前ら
ガルフの言葉に憤慨する大工達など意に介さず、ガルフは俺たちのところにやって来た。リトリィが、俺と、そしてマイセルの体を抱きしめる。ガルフを睨みながら。
マイセルの体が、俺にすがり付きながら震えているのが分かる。
それもそうだろう、成人男性を一人、十メートルほどの
しかも背格好は人に似ていながら、しかし
俺の方だって、脂汗を流しながら必死に痛みをこらえてるから、怖がる余裕もないだけだ。予備知識が無かったら、怖いに決まっている……!
ガルフはリトリィの前で立ち止まると、あまり感情の感じられない目で、俺たちを――正しくはリトリィを見下ろした。
「……なにか、ご用、ですか」
「殺さなかったぞ」
―― 一瞬、何を言われたのか、理解ができなかった。それはリトリィも同じだったらしい。
「……それは、どういう……」
「殺さなかったと言ったんだ」
「……どう、いう、意味……」
「人殺しの仔は産みたくないと言ったからな」
息をするのも面倒くさそうに、ガルフは答えた。
「だから、殺さなかった。お前の言った通りにしたぞ。オレの仔を産む気になったか」
……この期に及んで、なお言うか……!
歯を食いしばって顔を上げる。
「おまえ、が、……したことを、俺たちが、忘れるとでも、思ったか……!!」
だが、ガルフはつまらなそうに一蹴しただけだった。
「お前が弱いのが悪い。それにあれは仕事だ、忘れろ」
「忘れる、ものか!」
「勝手にしろ。そんなことより、おいお前。オレはお前の言うとおりにしたぞ」
そう言って、リトリィの腕をつかむ。
「は、放し――」
「オレはお前の言うことを聞いた。今度はお前が言うことを聞け」
ガルフがリトリィの腕を引っ張り、無理に立たせた、その時だった。
「おいおい、その嬢ちゃんはいずれ、俺の娘の姉になるんだ。手荒なことをしてもらっちゃ困るぜ?」
「お父さん……!」
――マレットさん、だった。
「……おい、こいつも殺したらだめなのか?」
「物騒なことをいうヤツだな。これでも大工仕事でならした体、ちったあ頑丈にはできてるんだぜ?」
……だめだ!
俺はまだ、奴が執着しているリトリィの関係者だからいい。
だがマレットさん、あなたは完全な他人だ、ガルフが加減をするとは思えない!
下がれ、下がってくれ……!
そう願った瞬間だった。
マレットさんの筋骨隆々とした
「お……とう、さ……?」
マイセルの、かすれた声が、わずかに、届く。
その瞬間までだった、俺の記憶が残っているのは。
「なっ――てめぇ、本当にあきらめの悪いオスだな、放……!」
体が吹き飛ぶ確かな衝撃と、耳をつんざくマイセルの悲鳴を最後に、俺の意識は暗転した。
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