第256話:再遭遇(1/2)
後ろから馬車が迫ってくる音を聞き、俺はリトリィをぶら下げるようにしながら、道の端に寄って歩いていた。
依頼人宅の家の角を曲がれば、家の塀と塀とに挟まれた細い路地になる。そこを通り抜ければ、城内街の門前広場まで近い。
「ふふ、ムラタさん。今夜もいっぱい食べていただいて、いっぱいかわいがってもらうつもりですから」
「……ご奉仕してくれるんじゃなかったのか?」
「ご奉仕してから、かわいがってもらいます」
ぎゅっと、腕を胸の谷間に挟むようにして抱き込むリトリィ。少々歩きづらさを感じながらも、そのように甘えてくれることに照れくささと、そして喜びを感じる。
「ムラタさん、今夜は何が食べたいですか? ムラタさんの食べたいもので、テーブルを埋め尽くしてあげますから」
そう言って、しかし上目遣いで、いたずらっぽく付け加える。
「あ、でも、いつもの『リトリィで』は無しですよ? ちゃんと教えてください、がんばって作りますから」
「なんだ、だめなのか?」
「わたしを召し上がっていただくのは、
「そうか、リトリィはデザートか」
「違いますよ? 主菜です」
ふふ、と笑ってみせる彼女に、俺もつられて笑顔をこぼす。
先日――あの辛い思いを味わったからこそ、こんなやり取りに、幸せを感じてしまう。
だから、だからこそ、
角を曲がった瞬間に、
突き飛ばされたとき、
事態が飲み込めずに、
倒れるままとなった。
「ムラタさん――!!」
リトリィの悲鳴と同時に、腹から脇腹にかけて、なにかが押し当てられる、そんな奇妙な感覚。
目を大きく見開きながらも、俺の名を叫びながら、腕を突き出した――俺を突き飛ばしたリトリィが、妙にゆっくりと、遠ざかってゆく。
そして視界の端から、俺がいたはずの場所に入り込んでくる、緑の、フード付きのマントのようなものを羽織っている、何者か。
腰のあたりから延びる鋭い何かは、――短剣、なのだろうか。
妙に黒々とした刀身の、その鋭く、かつ
そいつは、一瞬俺を見失ったようにあらぬ方向を向いてから、俺の方に顔を向け始める。
顔は――フードの奥で、分からない。
横から差す夕日が作る、陰に隠れて。
そして、背後から迫ってくる黒塗りの馬車。
その側面の扉から身を乗り出すようにした、おなじくフード付きのマントに身を包んだ男が、腕を広げている。
まるで、リトリィを抱きかかえようとするかのように。
すべてがスローモーションで、
石壁に肩を打ち付けるまでが、
異様にゆっくりと感じられた。
叫ばなくては。
声を出さなくては。
――あの馬車はなんだどうして男が身を乗り出しているというか男なのだろうかあのフードは夕日の陰のせいで黒々としているが緑なのだろうかいやそんなことよりもリトリィに気づかせないと――
疾走する脈絡のない思考を必死で取りまとめ、声を限りに呼び立てたいのに、声の出し方を忘れたかのように喉からはなにも生み出されない。
ああ、リトリィ、君の後ろなんだ、すぐ後ろなんだ、リトリィ――!!
不意に左肩に――続いて頭に強い衝撃を受け、俺は路地の壁――隣の家の塀に叩きつけられたことを認識する。
無理矢理に引き延ばされた時間の流れが今、元に戻ったようなその痛みを幸いとばかりに、俺は必死に声を上げた。
「リトリィ! 後ろッ!!」
俺の声が届いたのが先なのか、彼女を抱きとめる腕が先なのか。
リトリィは、確かに俺の方を見て、そして、
黒塗り馬車の中に引っ張り込まれてしまう。
短剣を構えていた男も一瞬俺を見たものの、馬車の後部に手を伸ばし、そのまま馬車に張り付くようにして飛び乗った。
馬車が俺を踏み砕かんばかりに迫ってきたが、狭い路地の中に倒れ込むようにした俺に構う余裕はなかったか、そのまま通り過ぎてゆく。
閉じられようとした扉の奥で、
リトリィが俺に向かって手を伸ばしながら、
何か叫ぶようにしているのを、
みすみす見逃す形で、
馬車は目の前から消えた。
「リトリィッ!!」
俺は、かろうじて彼女の名を叫ぶと、無理矢理体を引き起こす!
「くそったれ! リトリィ! リトリィ――――ッッ!!」
必死に駆け出そうとするが、妙に体が重い。
時間がねばりつくような感覚の中、必死に腕を伸ばして馬車を追う。
だが馬車は加速し始め、急速に遠ざかってゆく。
そんな、馬鹿な!
俺はまたしても、
彼女を失うのか?
俺の目の前で、
俺の腕の中に、
確かにいた彼女を、
理不尽に奪われて?
絶望に駆られて彼女の名を叫ぼうとした、そのときだった。
轟音と共に、何か棒のようなものが道の中央――馬車の左の車輪を巻き込むようにして石畳に突き立つ!
強制的に固定されてしまった車輪は、馬車自らの勢いによって粉砕されてしまう。
左の車輪を失った馬車は大きく傾き、左に旋回するようにして道路の中央に横転した。
横転する間際に、右側――リトリィが引っ張り込まれた側の側面ドアが、破裂音と共に、文字通り空中に吹き飛んでゆく。ドアはそのまま、隣接する屋敷の敷地内に飛び込んでいくと、派手な破砕音をまき散らした。
ガラス窓にでもぶつかったんだろうか。
何やら悲鳴も聞こえてきた気がする。
それは巻き込まれかけた通行人のものだったのか、ドアが飛び込んだ家からのものだったのか。
俺はその一連の流れに、目が点となり、次の動作が一瞬遅れた。
――が、横転した馬車の中から伸びた腕を見て、しゃにむに足を動かす。
「リトリィッ!」
「ムラタさん!」
馬車の中で何があったのか、大きく引き裂かれたドレスを何とか手で取り繕うようにしながら、リトリィが馬車から転げ落ちてくる。
だが、馬車から放り出された緑のフードマントの男がいち早く立ち上がると、彼女の腕を掴み――
そのまま、男は道路の反対側に吹き飛んでゆく。
「なんだ、なにがあった!」
「今の悲鳴はなんだ!」
背後からは、複数の足音と共に、聞き覚えのある声。
「お姉さま! お姉さま大丈夫!?」
依頼人の家でテラスを修繕していた、大工たちだ。マレットさんの声も、マイセルの声も聞こえてきた。
「な、なんだありゃ!」
「馬車だ、馬車がぶっ倒れてやがる! 事故か? おい、誰か人を――
にわかに騒然とし始める路上で、リトリィの手を掴もうとした男を吹き飛ばしたそいつは、不機嫌そうに、首に手を当てて首を回すような仕草をした。
「あ……あなた、は――」
リトリィが、かすれる声で、つぶやく。
今、目の前にいるなど――再び遭うなど信じ難い――いや、信じたくない――存在が、そこに立っていた。
「このメスには、オレの仔を産ませるんだ。触るんじゃねえ」
へたり込むリトリィの前に、全身、枯草色の毛並みをあらわにした狼男が。
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