第102話:心得
あれから、ペリシャさんの世話になりながら書類を整え、役所に提出し、そして税を納めて、準備は順調に進んでいった。
話す言葉は翻訳首輪でなんとかなるものの、文字の読み書きは何ともならない。リトリィも読み書きはそれなりにできるものの――ペリシャさんは非常に驚いていたが――、書類作成に必要な言葉遣いは、やはり分からない点が多い。
リトリィはペリシャさんに一つ一つ教えてもらいながら、紙の束にとにかく詳細に、必要ならイラストも添えて教えてもらったことを書き取っていった。
俺が読み書きを一切できないものだから、リトリィには負担をかけてしまう。だが、リトリィはむしろそれが嬉しいらしく、「もっと頼ってくださっていいんですよ?」と、にこにこしている。俺に頼られる、それが自分の存在意義だとでも言うかのように。
本当は、ペリシャさんに任せればもっと早く事務処理が片付いていくのだろう。
だが、俺はリトリィと二人三脚で、丁寧にご指導をいただきながら、しかし一つ一つを地道に片づけることにしていた。
家造りは、単に大工がわーっと集まって家を建てるだけではない。家を建てる前には、まず、さまざまな法的処理をこなしていかなければならないのだ。
行政書士に任せてしまうのも一つだが、自分が手順を知っておけば、できることと難しいことの線引きもしやすくなる。
ましてここは異世界、日本とはずいぶん勝手も違う。一つ一つ、やり方を「知る」ことが今後の自分のためになる。
今はペリシャさんとリトリィに頼るしかないが、いずれは文字を覚え、自分でできるようになりたいものだ。
「ふふ、おつかれさまでした」
リトリィがふわりと微笑み、机に広がった書類を片付け始める。
ランプの明かりのもとでの書類作業というのは、本当に疲れる。
日本の、電灯の下で深夜まで遅く仕事ができたことが、なんだかものすごくありがたく感じる。
いや、深夜まで働かなきゃならなかったブラック環境から脱することができたことを喜べよ俺。
それよりも、一文一文、一つ一つを読み上げてくれるリトリィの苦労も、相当なものだ。二人で、法律的な独特の言い回しにつまずきつつ書類を読み解いていく、その作業のその精神的負荷は尋常ではない。
だが、文字や法律に関する心得は、いずれ必ず役に立つ。面倒でもやるしかない。
背中に回って肩をもんでくれるリトリィ。その豊満な胸に後頭部をうずめながら、今日も一日よく働いた、と、目を閉じて長いため息をつく。
ちろり。
俺の唇に、濡れてザラザラしたものが這う感触。
目を閉じていても分かる。もうすっかり馴染んだ、彼女の、舌だ。
目を開くと、彼女が舌を伸ばしているのが見えた――俺を見下ろし、いたずらっぽく微笑みながら。
「……お仕事も終わりました。ムラタさん、わたし、がんばりました。お約束です、今夜もいっぱい、可愛がってくださいね?」
……残業は、まだまだこれからということらしい。望むところだ。
書類を作り、提出し、訂正もあり――小屋の崩壊から、もう五日目。書類を整えるだけで、意外に時間がかかった。まあ、わざわざ自分でやろうとするからこうなる。でも、いい勉強になった。
その間に、大工たちは小屋の瓦礫の撤去を進めていて、随分と片付いた。ほぼがれきの撤去は終わった土地は、意外に狭く感じる。
製材屋にはもう、資材も発注済みだ。意外にしっかりとした乾燥材が豊富にあって助かった。
さらに意外だったのは、大量の
建材といえば杉をイメージしていたから、栴檀なんてどうかとも思ったが、触ってみたところ悪くないようだった。
日本の栴檀は成長が早く、目はやや粗いものの、ケヤキに似た感じの板が採れる。
それに対して、この世界の栴檀は、さらに成長が早いようだ。しかも、意外にしっかりと密な印象を受ける。木目もなかなかきれいなものだ。
そういえば、近年は日本でも十五年から二十年ほどで建材として伐採できるから、栴檀を杉の代わりに植林・伐採を試みている地域もあると聞いたことがあったか。
それを、この異世界ではもう、何十年も前から行っているそうだ。
たった十年で建材にできるほど育つのだから、伐採まで五十年かかる杉なんて、ばかばかしくてやってられない。
そして、この木を植林して燃料・資材の確保を指導したのが、これまた瀧井さんらしい。どこまで万能な人なんだ、と思ったが、農林系大学で専門に学んでいた人だ、これくらい、できて普通なのかもしれない。
「あの、ムラタさん? 準備、できました」
リトリィは、ナリクァンさんの屋敷で、いろいろと淑女教育の真っ最中でもある。
リトリィは、炊事、洗濯、掃除など、家事については全く文句のない出来だ。しかし、立ち居振る舞いというか、礼儀作法の面については、やはり本物の淑女の目から見れば十分でないそうだ。
俺にとってはどうでもいいことに感じるのだが、家を預かる者として、客に失礼のないようにするためにも、礼儀作法というのは必須らしい。
決してリトリィに学がないわけでも、礼がないわけでもないんだが、街で生きるには足りない部分があるということか。
素地はよいらしいので、あとはどこまで徹底できるか、なのだそうだ。
ナリクァンさんの指導は、リトリィにとっては楽しいが厳しくもあるという。
しかし、そもそもリトリィは職人であって商売人じゃない。だから、無理に作法を修める必要なんてないと思ったりもする。
だから、昨夜のピロートーク中に、礼儀作法の修練はやめてもらうように言おうか、と言おうとしたのだが、リトリィは、俺の口を唇で塞いで、みなまで言わせなかった。
「だって、だんなさまがお店を構えるのなら、お客様を迎えするのは、わたしのお役目ですから」
日中は淑女教育でしごかれ、夕方からは俺の字の練習&書類づくりの練習に付き合う生活は、正直、大変だと思う。
しかし、リトリィは少しも疲れた素振りを見せない。むしろ、俺の字の練習に付き合ったあと、さらに深夜まで愛を求めて、翌日への活力にしているフシすらある。大したものだ。
いま、こうして昼の茶の時間も、礼儀作法にのっとって茶を淹れ、そして客としての俺に振る舞う練習中だ。
下女――要するにメイドを使う場面ではあるが、その立ち居振る舞いを理解していなければ、淑女――雇用者として、使用人の教育もできない。
ゆえに、メイドの仕事である給仕の中身も、しっかり理解しておかなければならない――という理屈らしい。
下女の成す恥は、使用人に教育を行き届かせない夫人――つまりリトリィの恥。夫人の恥はつまり、その女を選んだ夫――つまり俺の恥と。
なるほど。厳しい。
リトリィに入れてもらった茶を口にする。
茶葉がいいのか、それとも淹れ方がうまくなったのか、ウチで飲んでいた茶よりも美味い気がする。
といっても、お茶の美味さなんて実は大して分からない。それでも、俺がそこにいるだけで、リトリィの修練につながるなら。
「リトリィさん? お茶を注いだあとは、お客様から速やかに離れなさい。いつまでもおそばに控えているのは、無礼ですよ? 必要な時に、必要なだけ、そこにあればいいのです」
「あ……は、はい」
ナリクァンさんの指摘に目を伏せ、残念そうなリトリィ。多分わざとだろう、俺の肩をそっと撫でるように触れながら、そばを離れる。
すると、途端にピシャリと厳しい声が飛ぶ。
「あなたは今、なんのために礼儀を学んでいるのですか? 客人の体に触れるなど、無礼の極み。やる気がないのであれば結構です、今日はもう帰りなさい」
――さすがに言い過ぎだろう!
抗議しようとすると、リトリィが慌てて頭を下げた。それがまた面白くない。俺はそこまで厳格な関係など、使用人に対しても客に対しても、求めてなんかいない。
第一、大切な人が辱めを受けているのを見過ごすことなどできるものか。
ところが、ナリクァンさんはそんな俺の反応をあらかじめ知っていたかのように
「そうやって使用人を甘やかすと、規律の緩みが生まれて、しだらない家が出来上がるのです。使用人を慈しむのは結構ですが、線引きは、きちんとなさい」
使用人に対する心得と言われても、日本の庶民育ちの俺には、どうもピンとこない。第一、リトリィは俺の妻になる女性なのだ。
だが、ナリクァンさん言葉は厳しい。
「あなたの客の全てが、あなたの流儀を良しとするとは限らないのです。愛玩用でなければ、客の前に出す使用人も家人も、あなたが果たすべき公的な職務を、代わって果たしているのだと心得なさい」
「いや、でも……」
「心得なさい」
「は、はぁ……」
有無を言わさぬこの迫力!
さすが会頭として、商会を切り盛りしてきただけのことはある。気圧されつつ、つい間抜けな返事をしてしまった。
すると今度は、リトリィに向き直る。
「家政を預かり夫を盛り立てるのは、女の仕事です。もちろん、雇うであろう下女の躾もできなければならないのです。それが女主人としての務め。あなたの務めですよ?」
「はい」
リトリィは緊張こそ感じられるものの、どこか嬉しそうに返事をする。
だが、俺はそこまで厳しい礼儀なんて――
「いずれあなたが相手をするお客さまの中には、どのような方がいらっしゃるか分かりません。どなたに対しても、不快な思いを与えぬように心を配るのは、一家の主たるあなたの責務ですよ」
う〜ん……。そう言われると、反論がしづらくなる。
「とはいえ、あまり堅苦しいのもね。その匙加減はあなたの思惑次第ですわ。そのあたりの心得は、また苦労して覚えなさいね?」
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