第419話:未来への契り
「……弟子?」
「そう。お
リノは、目をしばたたかせたあと、首を横に振った。
「……いやだ。おれ、だんなさまの……」
「それが飲めないと言うのなら、この話はもう、無しだ。俺は君たちから手を引く。君には大切な未来がある。未来ある子供を妾にするような感性を、俺に求めるんじゃない。明日の朝かぎりで、家に帰りなさい」
リノはこれ以上ないほど目を見開くと、ぼろぼろと涙をこぼし、そして泣き叫んだ。
「いやだ、いやだ! だんなさま、おれを捨てるのか!? だんなさま、そんなことしないって言っただろ!? なんでそんな、急に!」
「だから言ってるだろう? 俺の弟子になるなら、俺の手元に置いてやる。妾にこだわるなら、この話は無しだ」
「だ、だって! だってだんなさま、『契り固め』、もう二つ、済ませてくれた! だったら――」
「逆に言えば、二つしか済ませていないし、三つ目を行うつもりもない。君が子供である限り、永遠にだ」
……そこでどうして、そんな世界の終わりのような顔をするのだろう。
むしろ、職人の弟子になれるっていうのは、悪いことじゃあるまいに。
――そう思った瞬間だった。
リノが爆発した。
爆発――そう表現するしかなかった。
「だんなさま……やっぱりおれのこと、嫌いなんだ! だからそうやっておれを追い出すんだ! おれが蹴ったから! そうだろ、そうなんだろ! そう言えよ! 嫌いだから追い出す、そう言えばいいじゃねえか!」
「……リノ!」
「おれ、だんなさまのこと、こんなに好きになったのに! 契り固め、二つもしてもらえて、すごいうれしかったのに!」
「リノ、俺は――」
「どうせおれが裏街のきたねえガキだからだろ! よく分かんねえことぐだぐだ言いやがってよ! きたねえガキからかって、楽しかったかよ! ああいいよ、出てってやるよ! 朝までなんて言わねえよ、今すぐ出てってやらあ!」
新しい服を買い与えられて、嬉しそうに腕を通していたリノ。
大工現場で、にこにこと手伝う姿を褒められ喜んでいたリノ。
クノーブの皮を、ニューと二人で張り切って剥いていたリノ。
その彼女が、自暴自棄な言葉を叫ぶ。
泣きながら。
……もう、見ていられなかった。
「は、はなせ――は……むむ~~~~っ!」
やはり子供だ。
ヒョロガリと呼ばれる俺の腕力ですら、一度抱きしめてしまえば、もう彼女は離れることすらできない。
俺の胸の中でしばらくむーむーとうなり、暴れていたリノだったが、やがておとなしくなった。
おとなしくなって、そして、
しばらく、泣き続けた。
「……おれ、だんなさまのこと、好きだよ……?」
「もう分かった、十分に」
「だんなさまも、おれのこと、好きでいてくれてるんだよな……?」
「好きだよ」
「だんなさまは、おれが子供だから、
「その通りだ」
リノはしばらく、しゃくりあげながら、俺の胸でそのまま黙っていた。
彼女の吐息が熱い。体温が人より高そうなのは、子供だからなのか、それとも
しばらくそのまま、彼女の頭を撫で続けていると、リノが顔を上げた。
「おれ、だんなさまの弟子になったら、ずっと置いてくれるのか?」
「そうだな……食べていけるだけの技術を身につけて、実際に食っていけるめどが立つまではな」
あとは、俺のことを顔を見るのも嫌になるほど嫌いになるまでか――そう言って笑うと、リノが頬を膨らませた。
「だんなさまを嫌いになるやつがいたら、おれがぶっ飛ばしてやる」
「それは頼もしいな」
そう言って頭をくしゃくしゃと撫でると、リノはくすぐったそうに首を振って、そして、また俺の胸に顔をうずめた。
「だんなさま……約束、してくれるか?」
「なにをだ」
「……おれ、だんなさまの弟子になる。だから、そばに置いて?」
リノの言葉に、俺は内心、胸をなでおろす。やっと愛人志向から抜け出したか。
「いいとも。約束する」
するとリノは、顔を上げた。
「約束だよ? おれ、がんばるから。だんなさまの弟子になって、ずっとずっと、がんばるから。だから、そばに置いてくれよ?」
「ああ、約束だ」
「嘘じゃないよな?」
「俺は嘘はつかない」
「ほんとか?」
「本当だ」
「本当だな? じゃ、いままでのも、嘘じゃないんだな?」
「俺は嘘なんか言わなかったぞ? 全部本気で答えてきた」
「ほんとだな? 全部本気で、嘘じゃなかったんだな?」
「全部本気だったし、嘘をつくつもりなんてなかった」
リノの言葉に、俺は困惑しながらも胸を張ってみせる。
するとリノは、ようやく、にっこりと笑った。
ほんとうに、屈託のない笑顔だった。
心から喜ぶ、無邪気な笑顔。
「わかった! おれ、だんなさまを信じてるから! だからおれ、だんなさまのお嫁さんになれるようにがんばる!」
「……は?」
俺は何を言われたのか理解が追い付かなかった。
リノはまた俺の胸に顔をうずめると、顔をこすりつけながら言った。
「だんなさま、だんなさまは自分と対等じゃないから、
身を離してまっすぐ俺の目を見る彼女は、じつに嬉しそうだった。
「でもだんなさま、おれのこと、好きって言ってくれた。おれが子供で、対等じゃないから、
頭をぶん殴られたような衝撃だった。
そうきたかぁっ!?
「おれ、がんばる! だんなさまの弟子になって、がんばって勉強する! だんなさまのお嫁さんになって、姉ちゃんたちといっしょに、だんなさまを支えてあげるんだ!」
「ま、待てリノ! 俺はだな――」
「おれ、最初言われたとき、嫌われたって思ってびっくりしたんだ。でも、だんなさまが嘘で『契り固め』なんてするはず、ないもんな! さっきはだんなさまにひどいこと言ってごめんなさい……! だんなさま、最初から
あとはもう、ほとんど言葉にならなかった。うれしい、うれしいと、リノはずっと胸にすがりついて泣き続けた。
三人の子供の「あしながおじさん」になるつもりが、そのうちの一人の未来を預かることになってしまった。
もう、迷っているときじゃない。
「だんなさま」
「だから師匠と呼べって……で、なんだ?」
俺の上にのしかかるリノの、あごからのどにかけてをくすぐってやっていた俺は、手を止める。
「
「……リノが大きくなって、綺麗になって、賢くなって、ついでにおっぱいもおっきくなって、それでもリノに恋人ができていなけりゃな」
なかばやけくそに言うと、リノは小さく微笑んだ。
「うん……今はそれでいいよ。ボク、がんばって綺麗になって賢くなって、だんなさまの一番の弟子になる。だんなさまの自慢の弟子になって、堂々とお嫁さんになるんだ」
おっぱいは、どうすればおっきくなるのかな――そう言って自分の平たい胸を見下ろす。
「だんなさま、おっぱいはどうすればいいんだ?」
「……聞くな。俺は男だから分からん」
「でも、おっきくしないとお嫁さんにしてくれないんだろ? ボク、がんばっておっぱい、おっきくするから! だから教えてくれよ」
「だから、男の俺に聞くな。男はでっかくならないんだ」
「じゃあ、リトリィ姉ちゃんに聞いてくる。姉ちゃんのおっぱい、でっかいし」
「ま、まて! それはやめろ!!」
「じゃあ、ボク、寝るね?」
「ああ……。また明日、な?」
「……ボク、早くおっきくなって、だんなさまと寝れるようになりたいな」
「いいからさっさと寝てこい。明日、また現場に行くからな」
「……うん」
リノは、すこしだけうつむいてから、大きく息を吸って顔を上げた。
「ボク、がんばるから。だんなさまのためにがんばるから」
「そうだな、がんばっ――!?」
そのあとのフレーズを続けることはできなかった。
初々しい唇の感触。
かすかに伝わる震え。
――舌を交わす、ということも知らない、固く閉じられた唇。
俺は、最初こそ驚きのあまり固まってしまったが、ぎゅっと目を閉じているリノの肩を、そっと抱きしめてやる。
驚いたように目を開けたリノだが、そっと俺が目を閉じてやると、リノも俺の背中にゆっくりと、ためらいがちに手を回してきた。それに合わせて、彼女の頭をそっと撫でてやる。
時間にして、一分もなかっただろう。けれど、リノはその間ずっと息を止めていたようだった。くちびるを離してやると、大きく肩で息を始めた。
……ああ、マイセルも最初はそうだったっけ。その初々しい姿に、俺は思わず笑みが浮かんできてしまう。
なんだかんだ言っても、結局こうなるのか。彼女の積極的な姿勢よりも、自分の脇の甘さには、苦笑いするしかない。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、リノは恥ずかしそうに、けれど幸せそうに微笑んだ。
「……あ、ありがとう、だんなさま」
「だから、師匠と呼べって。……今度こそ、おやすみ」
「えへへ、……だんなさま、おやすみ」
礼を言った彼女の頭をもう一度くしゃっと撫でてやると、彼女は嬉しそうに目を細めて、リビングに戻ろうとした。俺も彼女の行こうとしたその先を見て――
二人して固まった。
物陰から、らんらんと目を光らせていたヒッグスとニューの存在に気づいたからである。
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