第418話:君のことは妾ではなく…
「……ちょっとまて、リノ、いま十一歳って言ったか?」
俺が慌てて年齢を確認すると、リノは不思議そうに俺を見上げた。
「言ったぞ? なにか変だったか?」
「い、いや、変じゃないが……」
リノは
俺と同じく日本からの転移者である瀧井さん――その奥さんであるペリシャ婦人と、種族は同じだ。
たしかに、より猫に近い顔つき、体毛に覆われた体のペリシャ婦人と比べると、リノは耳と尻尾と瞳孔以外は人と同じという点で、明らかな違いはある。
それは今日、服を買い与えたとき、堂々とワンピースを脱いでしまった彼女を見たときに、もう確認済みだ。あばらの浮いたやせぎすの体を、痛ましく思ったくらいだった。
けれど、それでも
なのに、リノはどう見ても彼女の言った通り――十歳そこそこの体つきなのだ。
ひょっとして、ヒトと同じつるりとした肌、ヒトと同じような顔つきになるほどにヒトとの混血が進むと、もはやヒトと大して変わらなくなるのかもしれない。
やせぎすの体が示す通り栄養も足りていなかったのは明白だから、それも小柄な体格の一因になっているかもしれないが。
「……リノ、お妾さんっていうのは、お嫁さんとは違うんだぞ?」
「知ってるってば。だってもう姉ちゃんたちがいるもん。おれまでだんなさまのお嫁さんになるって言ったら、きっと姉ちゃんたち、いやな顔する。やさしい姉ちゃんたちのいやな顔、見たくない」
……いや、たとえお妾さんだって、リトリィもマイセルも、ものすごく嫌な顔をするだろう。というより、全力で阻止しようとするに決まっている。
というより、俺が拒否したい。こんな小さな子供を愛人にする? ないない、絶対にありえない。だったらマイセルくらいの年齢なら嫁にしたか? いや、そんなことをしてリトリィを泣かせたくない。断固拒否だ。
――そう考えていたことを、リノは察したのだろうか。
「……だんなさま、ひょっとして、お……わたし、やっぱり、……いらない子か?」
「……なぜ、そんな?」
「だっておれ、……捨て子だから」
「す、捨て子……!?」
「うん。九つのとき、『いい子にしてたらいい人が来るよ』って、母ちゃんがいなくなった。待ってたけど、帰ってこなかった。今なら分かるけど、おれ、そのときに売られたんだ」
…………!?
彼女はごく当たり前な様子でそれを口にしたが、それは俺にとってあまりにも重い言葉だった。
「母ちゃんは帰ってこなかったけど、怖い男の人が来た。おれのことつかまえて、服やぶって」
リノは、淡々と語る。恐ろしい体験を。
「母ちゃんが作ってくれた服だった。その服、気に入ってた。だからおれ怒って、蹴飛ばしたんだ。そしたら叩かれて叩かれて、いっぱい叩かれて、それで二人でおれを押さえつけて――」
もう、聞いていられなかった。だから俺は止めようとしたが、リノは止まらなかった。
「一番でかいやつが、おれの上に乗ってきたんだ」
あああ!
俺は胸を穿たれるような思いだった。
もう、聞いていられなかった。
「だんなさま……? おれ、なにか変なこと、言ったか……?」
「もういい……もういいんだ、リノ」
「だ、だって、だんなさま、泣いて……」
俺の腕の中で、不思議そうに問いかける彼女を、俺はさらに強く、抱きしめる。
彼女のいぶかしげな言葉が突き刺さる。
なんでそんな体験を、普通に過ぎ去ったことのように語れるんだ! 十に満たない少女が味わっていい体験じゃない! どうして世界は、こうも残酷なんだ!
「でもだんなさま、おれより、ニューのほうが大変だったんだぞ。だって――」
そんな話、聞きたくなかった。リノを抱きしめ、俺は、声を押し殺して、泣いた。
「……だんなさま、もういいか?」
「……すまなかった、取り乱して」
俺は涙で濡れた顔を服の袖で拭くと、改めてリノの乱れた髪を整えてやった。
「リノは、男が――俺が怖くないのか?」
「男のヒトはこわい時もあるけど、だんなさまやさしいから、おれ、こわくない」
「……そうか。そうだな、俺が相手なら何かあってもまた蹴っ飛ばせばいいだけだもんな」
笑い話にでもしなければやっていられなかった俺は、リノの頭をぐしぐしとやって笑ってみせた。
するとリノは目を丸くし、次いで目を伏せると、上目がちに俺を見上げた。そして、顔を歪めて訴えてきた。
「……だ、だんなさま、……おれ、もうそんなこと、絶対しないよ? ほ、ほんとだよ? ほんとにしないよ?」
「リノ……?」
「おれ、もうあんなこと絶対しない。だんなさま、いい人ってわかったから! ほんとにもう、絶対しない、いい子にしてるから! だ、だから……」
リノは、俺にしがみついてきた。
しがみついて、震えるかすれた、か細い声で、続けた。
「……だから、おれのこと、……す、捨てないで……?」
……またやっちまった!
リトリィに叱られたことじゃないか、俺!
冗談でも言っちゃ駄目だったのに!
この子だけなんだ、俺に直接危害を加えたのは。この子がそれを負い目に感じているかもしれないってのは、大人の俺が察してやるべきところだったのに!
「……そんなこと、しないよ」
そう言って、改めて彼女の髪を撫でてやる。
「あ……」
その顔を、なんと表現すればいいのか――恐れと安心とがない交ぜになったような、そんな表情。
「髪……なでてくれる……のは、だんなさま、おれのこと、すきで、いてくれるのか……いてくれるです?
肩をふるわせるリノを、俺はそっと、抱きしめてやる。
「……リノ。お妾さんの話は、残念かもしれないが、無しだ」
「……え?」
リノの肩が震えたのが分かる。
だが、こればっかりはきっちりと理解させなければならない。
「リノはまだ十一だろう? そんな年で、誰かの
「でも……でも……おれ、だんなさまが……」
「その『だんなさま』ってのもなしだ。俺の名はムラタ。なんなら、おっさんで構わない」
俺の胸の中で、いやいやするようにリノが首を振る。
「リノ。俺はお前を妾になんてできない。俺には妻が二人もいる。そのうえで妾なんて、もてるわけがないだろう? ただのおっさんの俺が、そんな甲斐性ある男に見えるか?」
こくこくと胸の中でうなずくリノ。……いや、そんな過大評価をされても困る。
「リノはまだ十一だ、
「……おれ、今、だんなさまのこと、すきだよ?」
「だから、その『すき』は、いずれ出会える誰かのためにとっておけ。自分の年の二倍以上も離れたおっさんに向ける感情じゃない。もっと素敵な人に、リノは絶対に出会えるから」
リノは、弾かれたように俺の胸から顔を上げた。
「だ、だんなさまは、おれのこと、やっぱり、嫌いなのか? 姉ちゃんたちみたいにきれいじゃないから? 言葉、悪いから?」
「そうじゃない。リノはこれからもっともっと綺麗になるし、言葉だって、リノが変えようと思えばいくらだって変えられる。現に俺のことを『おっさん』って呼んでいたのが、いまじゃ自然に『だんなさま』って呼んでるだろ?」
「でも、だんなさま……おれ……わたしのこと、すきになってくれない……やっぱり、蹴ったから? 蹴ったから嫌いに――」
「嫌いなら、今もこうして抱きしめていたりすると思うか?」
リノは、何かに堪えるように、「しない、と思う……」とうつむいた。
「でも……すきって、言ってくれない……」
「リノ。何度でも言うけどな、リノが本当に好きになるべき相手は、いずれ必ず現れる。俺みたいなおっさんは、リノにはふさわしくない――」
「いやだ……いやだ!」
リノは激しく首を振った。そしてすがりついて泣き叫んだ。
「おれ、だんなさまのこと、今もっともっと好きになった! だって、だっておれのこと大事にしてくれてるから、そう言うんだろ!? そんなにやさしい男のひと、おれ知らないよ! だからおれ、だんなさまの
あまりにも悲痛な言葉だった。
スラムで生きるとはそういうことなのか。
だが、同情で彼女を妾になど、できるものか。彼女はまだ子供だ。きちんとした言葉遣いを身につけ、身なりを整え、教養を身につければ、いずれは素敵な伴侶に巡り会えるはずなんだ。
――そういえば、瀧井さんもそうやって考えてペリシャさんを育てて、結局そのまま結婚しちゃったんだっけか。
おもわず苦笑がもれる。だが瀧井さんの場合は独身だったんだ、そういうこともあるだろう。俺には二人も妻がいる。
ここはひとつ、三人のために「あしながおじさん」になるのだ。孤児院を開くのはさすがに無理だが、この三人が食っていけるようになるまでは、搾取されない程度の仕事のあっせんはしてやれるだろう。
そっとリノから身を離すと、俺は努めて平静を保ちながら口を開いた。
「リノ、もう一度だけ言う。俺は君を、妾として迎えることはできない」
リノの目が、大きく見開かれる。また、大粒の涙がみるみるあふれ出てくる。
――だけど、言葉を撤回することはできない。それは彼女のためなんだ。
「リノ、誤解してくれるなよ? それは俺が君のことを嫌いだからじゃない。君は愛らしい子だ。素直でまっすぐな、いい子だ。俺は君のことを嫌ってなんかいない。一人のひととして、君のことは好きだよ?」
「だったら、どうして……?」
すがりついてきたリノを抱きしめ、髪を撫でてやりながら、俺はゆっくりと、諭すように続けた。
「俺は、女性と関係を結ぶなら、きちんとした対等の関係になりたい。妾だなんてもってのほかだ。もう一つ、君はまだ子供だ。君が子供である限り、俺は大人として君を保護する立場にある。つまり、対等な関係にはなりようがない。だから、君のことはひととして好ましいと思っていても、君を妾に迎えるなんてことはしない」
そして、彼女から身を離すと、俺はまっすぐ彼女を見つめて、心に決めたことを口にした。
「だから、君を――君たちを、俺の弟子ということにする。君たちが自分で食べていけるようになる目途がつくまで、あるいは俺の顔が見たくなくなるほど嫌いになるまで、俺の弟子だ」
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