第503話:窮状打開のヒントは愛の思い出に

 リノが踏み抜いた場所の屋根裏部屋に急行した俺たちは、床に散らばる腐った木材と瓦の破片の周りでうろつく、無数の虫を踏みつぶす羽目になった。床だってかなり腐っているため、こちらで巣をつくられたらもう、悲惨なことになってしまう。


 一緒にぞろぞろついてきた孤児院の少年たちも、面白がって虫を踏みつぶす。さらに上から降ってくる虫にぎゃあぎゃあ騒ぎながら、それでも妙に楽しそうだ。


「リヒテル、気をつけろよ? 噛まれると本当に痛いからな」

「は、はい監督!」


 腕は相変わらず添え木つきの包帯グルグル巻きのリヒテルだが、真っ先に駆けつけて、そして一緒に今、虫退治に付き合ってくれている。やっぱりこいつは、仕込めば使える奴になるだろう。


 部屋の入り口で、俺の顔を伺いながら、でも怖がって入ってこれないリノに、「大丈夫、僕たちの家は僕たちが守らなきゃいけないから」と、無理せぬように優しく声を掛けているところも、実に紳士でいい。


 そのリノは、部屋の入り口で逡巡しつつ、それでも入ってこれないようだ。

 その足にはまるで蕁麻疹でもできたように赤い斑点だらけだ。あの斑点は、すべてツカアリとかいう虫に噛まれた跡だ。弱い毒があるということで、しばらく赤く腫れるとリファルは言っていた。かわいそうなことをした。


「で、お前、ホントにツカアリを知らねえのか? お前、よくそれで大工を名乗れるな?」

「だから、俺は『建築士』だって言ってるだろ」

「家を建てる人間に変わらねえだろうが。……ホラ、見てみな」


 リファルが、床の虫を一匹つまみ上げる。

 あらためてよく見ると、はねのない小さなゴキブリ、それは先ほどと変わらない印象だが、ゴキブリと大きく違うのは、その丸い頭部と、体に比して巨大なあごだった。


「……顎、でかいな」

「そりゃそうさ、木を食い荒らす虫だからな」

「木を、食い荒らす?」

「お前、ホントに知らねえんだな」


 リファルが、自分の人差し指の爪の先を虫の顎に差し出すと、虫は爪をしっかりと挟み込んだ。

 体長は三ミリから五ミリに満たない程度だろうか。しかし顎の大きさはなかなかのものだ。


「こんな感じでな。よく腐った木を住処にする虫だ。木を食い荒らしたうえで、でかい塚みたいなものをこしらえる。だから、塚蟻ツカアリ


 ……なるほど。だがこうしてじっくり見てみると、意外に大きく感じてくるから不思議だ。

 感心していると、院の子供たちもわいわい言いながら覗き込んできた。口々に驚きの声を上げながら。


 知らない顔が多いが、知っているやつもいる。

 リヒテル以外にも知っている奴といえば、ファルツヴァイとトリィネがいた。ハフナンはいないようだった。


「よう、ファルツヴァイ、トリィネ」


 できるだけ気さくに話しかけると、ファルツヴァイが、やはりあまり精気の無い顔で、「どうも……」とだけ返してきた。そんなファルツヴァイの顔色をうかがうように、トリィネも「こ、こんにちは……」と、やや遠慮がちに挨拶を返す。


「ハフナンはどうしているんだ?」

「ハフナンさんですか? 彼は、塔の現場に……」


 トリィネが答える。なるほど、今日は彼だけが現場に向かったのか。


「ファルツヴァイたちは現場に行かないのか?」

「ファルさんは、えっと、胸を病んでいて、その……」


 俺の質問に、なぜかトリィネが申し訳なさそうな顔で訴えてきた。しかし、ファルツヴァイは咳き込みながら、うるさそうに腕を払ってみせる。


「トーリィ、余計なことを言うな」

「で、でもファルさん、ぼくは……」

「余計なことを言うなって言ってるだろ、オレに構うなって」


 まだ何か言いたげにしているトリィネのことが気になって、俺からも聞いてみると、ファルツヴァイは目をそらして答えなかった。


「……というわけだ。おい、聞いてたかムラタ」


 リファルが、少し苛立った様子で俺を呼んだ。どうも、ツカアリについていろいろ説明してくれていたらしい。聞いていなかったことを謝ると、リファルはため息をついて、「知らねえっていうから教えたんだぞ、ちゃんと聞け、ニセ大工」と毒づきながら、それでももう一度話してくれた。


「……で、力が強いから、モルタルくらいなら穴を掘っちまう。おまけに毒も持ってるから、噛まれると痛いのはあの子を見りゃ分かる通り。ま、コイツが柱から出てきたら、その柱の中はもう、スカスカってことだ。分かったか? もう二度と言わねえからな!」


 つまりシロアリの異世界版ってことだ!

 やっぱりそういう生き物っていうのは、この世界にもいるものなんだな――妙な感慨が湧いてくるとともに、その対処と苦労をここでも背負わなければならないとかと、うんざりしてくる。


「なに、本来ならそう怖い虫ってわけでもねえ。基本的には腐った木に侵入してくるんだ、こいつらは」


 不安そうな顔をする子供たちに、リファルは「……だから、とっとと潰しちまえ。床を食い荒らされたら寝る場所がなくなるぞ」というと、子供たちはパッと散って、再び踏みつぶし始めた。


「どうだ、まだいるか?」

「いる! こっち!」


 リファルの問いに、子供たちは実に真剣に――真剣に楽しそうに、ツカアリを探す。なかには床に顔を押し付けて、「あ! いた、そこ!」と仲間に居場所を教えるような奴もいる。

 この前の椅子製作の実演もそうだが、具体的な目標やゴール、目に見える成果が実感できると、子供たちというのは本当に生き生きしてくるんだな。


「当たり前だろ、やることが分かりきってりゃ、あとは遊びみたいなもんだよ。誰が一番たくさんできるか、上手にできるか……。全部遊びだ、ガキどもにかかりゃ、なんだってな」

「遊び……ねえ」

「何言ってんだ。お前だって兄弟で争って何かやったとか、そういう経験の一つや二つ、あるだろ? 今から思えばくだらねえことでも、たとえ自分たちの晩飯がかかった真剣ごとでも、それ抜きにして楽しかっただろ?」

「……そうか、リファルは兄弟が多かったって言ってたな……」


 俺は一人っ子だったから、そういうことで争う、という経験がなかった。そういう経験がなかったから、兄弟の多い家が羨ましかった。高校時代の同級生だった、四人兄弟の日立ひたち健樹けんきを思い出す。あいつの家なんて、食事は戦争だったと言っていたっけ。


「……ま、ガキなんて多かれ少なかれ、みんなそんなもんだ。やりたいことをやりたいようにやらせりゃ、そのうちみんな何かの職人になって、いずれは独り立ちだ。そのやりたいことってヤツを探してやるのが、親ってヤツの仕事ってわけよ」


 オレんところの親方の受け売りだけどよ――リファルが笑う。

 やりたいことをやりたいようにやらせれば、いずれは職人として独り立ち――確かにそうなのかもしれない。


 だが日本では、「職人として独り立ちして生きる」というビジョンがほとんどの子供の目には見えなかったように思う。だからなんとなく進学し、とにかく入れるところに就職し――ほとんどの人はそんな生き方をしていたように思う。

 というか、やりたいことよりも先に、まず勉強が立ちはだかっていた。


 俺は、数学自体は苦手だったがモノ作りが好きだったから、その延長で「二級建築士」として仕事にありつくことができた。そしてその経験は、今もこの世界で生きていくための手段として活きている。

 けれど、菓子箱を切り刻んで好き勝手に工作をしていた、そしてそれを許してくれる両親がいなかったら、俺はいったい、どんな大人になっていたんだろう。


「おっさん! もう全部潰し――ひゃあっ!」

「また降ってきた! おじさん、どうすればいいの、これ!」


 感慨にふけっていたら、子供たちの悲鳴。

 あーもう、ちくしょう。きりがないぞ、これ。


「チビが踏み抜いた穴自体は小さいんだがなあ……。あそこからばらばら降ってくるのだけでもなんとかしてえけど……」


 リファルも、ため息を隠せない。

 穴をふさぐことができれば、アリどもは出てこなくなるだろうか。


「そりゃそうさ。ヤツらにしてみりゃ、家の壁に穴が開いたようなもんだ。二、三日でふさいじまうだろうが、それまではうろうろするだろうし、壁伝いにここまで下りてくる奴もいるだろうぜ」


 ……それはなんとかして防ぎたい。

 ここは寝室なんだ、居住性は悪くても、噛みつく虫が這いまわるような部屋のままにしておきたくない。


「……ここにさ、でかいたらいを置いて、水を張っておいたら、落ちてきた奴らは勝手に溺れてくれないかな?」

「虫だぞ? 水に浮くに決まってるじゃねえか。そのまま浮いてるうちにたらいの端について、上ってきちまうぞ?」


 浅知恵、役に立たず!


「なんとか、今すぐできそうな方法はないか?」

「虫どもが穴をふさいじまうまでは、なんともならねえんじゃねえか?」

「もし、あの穴をふさいだら?」

「出てこなくなるだろうけどな。でも、あのへし折れた垂木たるきの断面だぜ? ナニでふさぐんだ? 板を打ち付けようにも、多分、あの中身スッカスカだから、下手に何か打ち付けようとしたら、むしろ衝撃で変なところをぶち壊して穴をあけて、ますますひどいことになると思うぜ?」

「……粘土とか、漆喰しっくいとか!」

「いいけどな、乾いたら縮むだろ。そしたらまたぞろぞろ出てきかねねえし、粘土だと耐水性もねえし、下手したら腐った木が塗り付けたヤツの重さに負けて、砕けて落ちてきかねないぜ?」

「だめかー……」


 穴をふさげばいいというなら、ここにコーキングガンでもあれば、それでシーリング材を塗りたくってとりあえず一時しのぎにでもしたかったところだ。あれなら粘るから張り付いて自重を支えられるだろう。粘土より軽いだろうし。

 だが、そんな便利なものはもちろんない。ああ、どうしたら。


「こおきんぐがん? なんだそれは」

「……いや、なんでもない。俺のなんとなくの思い付きだ、忘れてくれ」


 屋根裏の穴を見上げながら、俺はふと、山の親方の家を思い出した。

 リトリィと初めて口づけを交わすきっかけとなった、あの屋根の修理。


 そういえばあの時も、屋根――あの時は野地板だったが、腐っていたっけ。

 粘板岩スレートの瓦を剥がし、応急処置にと野地板にアスファルト塗料を塗りつけて、そして新しいスレート瓦を貼り付けたんだった。

 めちゃくちゃ厚塗りしたから、まだ十分機能しているとは思いたいけれど。


 俺は、屋根のトラブルに巡り会う星の元に生まれたのかもしれないな――ため息しか出てこない巡り合わせだ。いや、あれでリトリィとくっついてしまったから、あのあとたっぷりと口づけを――


「なにニヤニヤしてるんだ、気持ち悪いヤツだな」


 リファルに小突かれて、現実に還る。

 またアリが落ちてきて、子供たちが騒いでいる。


 この子供たちのうち、この寝室を使うのは何人だろう。

 だが、いずれにしても少しでも安眠できるようにしてやりたい。

 垂木の穴をふさいで、アリが出てくるのを封じ込めるには。

 それなりに軽く、そうなければ粘りがあって形を保てる、シーリング材みたいな何か――


「……そうか! あるじゃないか、使えそうなものが!」


 俺は思わず声を上げた。リファルや子供たちが一斉にこちらを向く。

 それがどうした。俺の、さっきの回想。人生、無駄なんてないってことだ!


「な、なんだ、おい?」

「ギルドに行けば、アスファルト塗料くらいあるよな⁉」

「そりゃ、まあ――」

「よし、ちょっとひとっ走り行ってくる! リファルはその間、暇つぶしにアリでも潰しててくれ!」

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