第504話:薬
「よし、ちょっとひとっ走り行ってくる! リファルはその間、暇つぶしにアリでも潰しててくれ!」
リファルが「おい、オレ一人でなんとかしてろっていうのか⁉」と叫んだが、なに、子供を使うのは俺より上手いと思われるリファルだ、多分問題ないだろう。
部屋を出ると、廊下にはリノがいた。
何人かの少年たちと、何か話をしているようだった。
「リノ、喧嘩はするなよ?」
声を掛けて走り出そうとすると、リノが「あ……どこ、いくの……?」と心細そうな顔をするものだから、安心させるために「すぐ戻るから!」と、できる限りの笑顔で返す。
俺はできるだけ早く戻るために、申し訳ないと思いつつも廊下を走ると、階段ばしごを落ちそうになりながら駆け下りて、表に飛び出した。
少し走ればすぐ広場につく。広場では
ギルドなら、間違いなくアスファルト塗料のストックがあるはずだ。
山の鍛冶屋の家、その屋根を補修するのに使ったあの塗料。あの粘る、接着剤にもなる塗料なら、シーリング材がわりに、折れた垂木の穴をふさぐのに役立つはずだ。
本当は、シロアリ駆除業者のように、おそらくツカアリ駆除業者なんてのもいるのだろう。もしかしたら、そういった害虫退治を生業とする者たちが集まるギルドもあるのかもしれない。
だが、あの屋根はもう、虫退治というより屋根そのものを何とかする大規模な工事が必要になるはずだ。とりあえずは穴をふさぐことができればいいのだ、今は。
「……意外に早かったな」
「
「はあッ⁉ ギルドまでだろう? お前、たったそれだけのために⁉」
「急ぎたかったんだよ!」
とりあえず、手に入れてきたアスファルト塗料だが、塗るためには屋根に上るか、あるいは屋根裏に届くくらいの
あんなにもアリを怖がって、部屋にも入ってこられなくなってしまった彼女だ。アリの巣の穴に塗料を塗りつけさせるなんてこと、させられるはずがない。
「脚立? たしか中庭にありますよ」
トリィネの言葉に、俺はすぐに中庭に走った。
中庭ではダムハイト院長が、畑で泥だらけになって種を蒔いていた。
――ああ、この人は、本当は子供たちのためを思って働いているんだ。ただ、やり方が正しくないだけなのだろう。
いや、二十一世紀の日本の衛生観念を持っている俺から見たら異常なだけで、この世界の文明レベルでは、別におかしいことでもなんでもないのかもしれない。
「ダムハイトさん、屋根裏の修理をしたいんで、脚立、借りていいですか⁉」
ダムハイトさんは、突然やってきて突然の要求をした俺に驚いた様子だったが、笑顔で貸してくれた。
手作り感満載、何度も補修された形跡だらけの脚立を抱えて部屋に戻る。脚の長さもバラバラの恐ろしい代物だったが、子供たちに支えてもらって、なんとか屋根裏まで手を届かせることができた。
ところが、だ。
「うわっち⁉ くそっ、いっ――いってぇっておい! ちくしょう、噛むな、噛むんじゃねえって‼」
――いやもう、痛いのなんのって!
リノが噛まれまくったあの虫!
いくら感覚を共有していたといっても、感覚の全てを共有していたわけじゃないってことがよく分かった!
むしろなんでリノは、泣きながらでも耐えることができたんだよ!
モルタルにトンネルを掘ることすらできるというツカアリの顎の力、完全になめていた!
垂木の中身はほぼ空洞で、黒々とした虫の塊がびっしりと。
そいつにアスファルト塗料を塗りつけたら、奴らときたら飛び跳ねて襲ってきやがった! すぐさま腕にとりつき、やたらめったら噛みついてきやがったのだ!
瓦を踏み抜いただけなのに、すぐさまリノの全身にたかり始めたあの素早い動きの秘密を、まざまざと見せつけられた思いだったよ!
「バカ、早くしろ! 巣を襲撃されて連中、気が立ってんだ! お前で二度目だから、連中はすぐに襲うだけの準備ができてんだよ! さっさと埋めて降りて来い!」
やってる、やってるよ! めっちゃくちゃ噛みつかれながら、垂木の穴に塗料を塗りこめてるんだよ!
ああもうくそっ! まぶたを噛むんじゃねえって‼
「む、ムラタ⁉ おい、大丈夫か!」
最終的に、塗料を塗り終わったと同時に、俺はもうどうなってもいいからと飛び降りて、床を転げまわった。
噛まれたところの激痛は、本当にしゃれにならなかった。リノはよく、屋根から転げ落ちなかったものだ。
周りの子供たちが、ぼろぼろのシーツを俺に叩きつけて虫を叩き落とそうとしてくれた。
それは本当にありがたかったけれど、でもそれだけで虫が取り切れるはずもなく、俺は泣きそうな思いで服を脱ぎ、食いつく虫を剥がし、潰してもらった。
虫の体自体は実に柔らかく、触っただけで簡単に潰れるものだったから、それほど労なく取り除くことができたのだが、問題は食い込み続ける顎。あいつら、体が潰れても噛みつき続ける顎って、サイボーグかよ!
ようやく落ち着いても、腕、肩、胸、背中、首筋辺りを、赤く腫れた噛み跡が埋め尽くしていた。特に、塗料を塗り付けていた左手のありさまが酷い。指を動かそうものなら、ピリピリと刺すような痛みが手の全体を包み込むかのようだ。
もし利き手の右手でこれをやっていたらと思うと、ぞっとする。
しかし、やっただけの価値はあったらしい。上を見上げても、虫が這い回っている様子はない。床も、子供たちが嬉々として潰して回ってくれたおかげで、とりあえず見た感じでは、歩きまわっているツカアリはいないようだ。
「なんとか……なったようだな」
「……おっさんこそ大丈夫かよ?」
俺が痛みをこらえつつ一息つくと、ファルツヴァイがぶっきらぼうに聞いてきた。
あの、問われない限り口を利かないファルツヴァイが。
それがなんだかうれしくて、「ああ、大丈夫だ」と返事をすると、彼は答えず、そっぽを向いてしまった。
「……お前ら、気をつけろよ? 噛まれると、このおっさんみたいになるからな?」
「はい、見つけたらすぐ潰します、リファルさん!」
「……リファルの言う通りだ。本当に痛いからな?」
「おっさん見てりゃ分かるよ!」
リファルが俺を指差して具体例にしやがると、子供たちが生き生きと返事をする。
……おい、なんで俺が「おっさん」のままなのに、リファルは「リファルさん」なんだ。
屋根の穴はとりあえず前回運び込んだ板の中から鋸で薄く切り出したものを、残った塗料を使って貼り付けて、とりあえずの応急処置とした。多少の雨なら、これでなんとかなるだろう。
応急処置も終わり、脚立を返しがてら、ダムハイト院長に挨拶をしたあとだった。
「……あれ? そういえば、リノはどこに行った?」
穴ふさぎ騒動の間、リノは部屋にいなかった。
中庭に脚立を返すために移動している間も、中庭でも、リノの姿は見なかった。
まさか、先に帰ったなんてこと、彼女に限ってはないだろう。
「リノ、さん……ですか?」
リヒテルが、首を傾げ、そして思い至ったらしい。みるみる顔が赤くなり、うつむいてしまった。
「あ、ああ……あの
「……ああ、そうだ。可愛いかどうかはともかく、片耳の垂れた
リヒテルはもはや耳まで真っ赤になった顔をぶんぶん振り回すようにあちこちを見回しながら、「ぼ、僕、探してきます!」と、若干前かがみの姿勢で走り出した。
……アレは多分、さっきのリノの裸を思い出したんだろう。うん、思春期だなあ。
「リノ、リノーっ! どこだ?」
こんな時は大声を出すに限る。俺の身に着けている翻訳首輪は、半径五メートルほどの距離しか力が届かない。だが、声自体は届くのだ。
リヒテルはどこかに走って行ってしまったが、こういう時は向こうに声を届かせた方が早いに決まっている。
「リノーっ! 帰るぞーっ⁉」
その時だった。廊下の扉が開いた。
――リノだった。
続いて少年たちが数人、ぞろぞろと出てくる。
「やあ、ムラタさん。どうしました?」
最後に出てきた少年が、どこか不思議な印象の笑顔を向けてきた。
あの、骨折したリヒテルを送った日に会った少年――シュラウトだった。
「あ、ああ。もう、帰ろうと思ってな」
「そうですか。じゃあ、リノさん。また」
シュラウトが笑顔で挨拶の手を挙げると、リノがびくりと肩を震わせた。
「リノ、どうした?」
俺が声を掛けると、リノは一瞬、顔を歪めた。
俺を見て顔を歪めるリノは、珍しい。
「リノ、なにかあったのか?」
「リノさん、虫に噛まれたんですよね? だから、ウチで作っている薬をあげたんですよ。塗り薬です」
俺が聞こうとすると、シュラウトが手に持った陶器の器のふたを開けて言った。
シュラウトが言うと、周りの少年たちも一斉にうなずいた。
中を覗き込むと、なにやらペースト状のものが入っている。これが薬、なのか?
「足首あたりなんてひどく真っ赤になっていましたし、僕も可哀想に思って。それで、薬をあげたんです。さすがに手当てとはいっても、僕たちが塗るわけにもいきませんから、自分で塗ってもらいました。ね、リノさん?」
リノは、ちらりとシュラウトを見て、そして少し肩を震わせ、またうつむいて、かすれる声で「……うん」と返事をした。
「リノ、本当に大丈夫か……?」
「よほど痛かったみたいで。自分で薬を塗っている間、辛そうでした。この薬、差し上げます。家に帰ったら、また寝る前に塗るように言ってあげてください」
リノの肩が、またびくりと跳ねた。
今度こそ本当に顔が歪み、ふるふると首を横に振る。
少年たちの視線が、リノに集まった。
「リノ、どうし――」
リノに聞こうとすると、シュラウトが悲しげな顔で、たしなめるように言った。
「リノさん、痛むから薬を塗りたくない気持ちは分かるけど、これ、ウチで作っている薬の中でも特別よく効くんだ。早く治したいだろう? さっき教えたように、ちゃんと塗るんだよ? でなければ――」
リノが目を見開く。
体を縮めるようにして。
シュラウトはそんなリノを見て、微笑んでみせた。
「脅かすようでごめんね? でも、薬を塗ればきっとよくなるから。自分でちゃんと、刷り込むように塗ろうね? 特によく塗る場所は、もう分かってるね?」
リノはうつむいたまま、ますます身を縮める。そんなリノに微笑みかけると、シュラウトは俺に向き直り、俺の手の中に、その薬壺を押し付けるようにした。
「この孤児院を綺麗に直してくださるムラタさんに、少しでも恩返しをしたくて。それで勝手な真似をしてしまいました。申し訳ありません。でも僕らの誠意とお礼を受け取ってもらえたら、嬉しいです!」
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