第505話:少女の涙と怒りの拳(1/3)
孤児院からの帰り道、リノはずっと無言だった。いつもなら本当にたわいもないおしゃべりを途切れることなくしているリノが。
時々、ひどくおびえてとびすさるので、さすがに気になって聞いたら、ぽつりと、「……こわい」とだけ言った。
要は、虫を見つけてはあのツカアリにたかられたことを思い浮かべて、それで反射的に逃げてしまうのだろう。あの虫がよほどトラウマになったようだ。いや、俺も二度と現場で出くわしたくないとは思うが。
家に帰っても、リノは黙りこくったままだった。
二人そろって腕やら脚やらに大量の赤い斑点をつけていたこともあって、家の皆にはひどく心配されてしまった。ヒッグスなど、妹を守るべき兄貴として憤慨し、「オレが明日、虫をぜんぶやっつけてやる!」と息巻いていた。
対照的なのはマイセルで、さすがにツカアリの厄介さは知っていて、「噛まれるとかなり痛いそうなんですけど……リノちゃん、大丈夫でしたか?」と、リノが虫をひどく怖がるようになったことに理解を示し、今夜は一緒に寝ると言い出した。
リトリィも、俺やリノのありさまを見てその危険性を理解したらしく、ヒッグスに対して「ツカアリをやっつけたい気持ちはわかりますけど、そんなこと、絶対にしちゃだめですよ?」と、何度も念を押していた。
「リノ、寝る前にこの薬を塗っておくんだったよな?」
俺が、シュラウトからもらった薬壺を渡そうとすると、リノは酷く顔を歪めた。
「……なんだ、この薬、そんなに沁みたりするのか?」
リノは何度も首を横に振ったが、しかし、やはり気が進まない様子だった。リノは今や家族の一員として、すっかり素直に言うことを聞くようになっていたので、少し意外だった。
「……そうだな、じゃあ、俺もたくさん噛まれたことだし、少しだけもらうぞ?」
そう言って薬壺の中身、ペースト状のものを手に取り、左の手首辺りに塗り付けてみた。そういえばシュラウトは、リノに「擦り込め」と言っていたっけ。とりあえず手の甲から手首辺りまで、真っ赤に腫れているところに擦り込んでいく。
ところが、擦り込んでしばらく待ってみたのだが、効いているかと問われたら、微妙に火照りを感じる以外、はっきり言って分からないとしか言いようがなかった。
けれど、メントールのような清涼感や鎮痛作用のある成分が純粋に合成されて添加されている、現代日本の薬のような即効性が期待できるはずもない。こればっかりは仕方がないのかもしれない。
でも、シュラウトが「良い薬」だとして渡してくれたものだ。何もしないよりはましなのだろう。
「じゃあ、リノ。自分で塗れるか? 手足くらいなら、俺が塗ってやろうか?」
するとリノは、泣きそうな顔で首を振った。
「ぼ、ボク、自分でできる、から……」
「……そうか? じゃあ、今日は酷い目に遭ったし、ゆっくり休んで、早く良くなるようにしような?」
頭を撫でてやると、リノは何かを言いたげに俺を見上げた。けれどやっぱりうつむいてしまって、それ以上、なにも言おうとしなかった。
今夜は曇りなのか、月明かりがほとんど差し込んでこない。ぶち抜いてしまった孤児院の屋根のことを思うと、雨が降らないようにと願うばかりだ。
暗がりのなかで後始末を済ませたリトリィが、俺のかたわらに体を横たえつつ、心配そうに顔をのぞき込んできた。
「……あなた、リノちゃんのお話、聞いてあげましたか?」
「それなんだけど……なんだろうな、どうもしゃべりたがらない感じだ」
「無理に聞き出すようなことはいけませんけれど……話しだすまで待って、話を聞いてあげてください。あんなリノちゃん、初めてです」
リトリィがひどく不安げにしているのを見て、俺も何だか心配になってきてしまった。
「あの子は家族のみんなになついていますけれど、やっぱり一番はあなたですから。あなたに話せないことなんてあったら、あの子はきっと、だれにも話せません。どうか、どうかおねがいします。あの子のお話を、聞いてあげてください」
確かに、あの虫騒動からリノは不安定に見える。相当なトラウマを背負わせてしまったのかもしれない。ゆっくり話を聞いてやらないと、今後、仕事どころか日常生活もままならないかもしれない。
リトリィが眠ったところを見計らって、そっと一階に降りてみた。
チビたちと一緒に、リビングの暖炉の前で毛布に丸まっているマイセルに何だかほっこりする思いだったが、違和感を覚えた。
――リノがいない。
水を飲みに行った?
それともトイレ?
しかし、自分が階段を降りてきたとき、キッチンには誰もいなかった。
トイレか?
そう思ったとき、奥の俺の仕事部屋のドアが、わずかに開いていることに気が付いた。
大事な書類などがあるから、いつも締めてあるドアが、少し開いている。
そっと隙間から中をのぞくと、薄暗い月明かりの中に、彼女はいた。
俺の仕事机には、例の小さな薬壺が置かれている。
リノは俺の椅子に座り、机に額を乗せるようにして、両手で体をまさぐるようにしていた。薬を塗っているのだろう。息が荒く感じられるのは、痛みに耐えているからだろうか。
――だが、なぜ、今この夜中に?
寝る前に塗り忘れた?
それとも、痛痒に耐えがたかったから、残っている薬を塗り込んでいる?
「ふっ……ぐっ……う、うう……」
うめき声とも、押し殺した泣き声ともつかぬ声が漏れてくる。
痛いのか、苦しいのか。
放っておけなくて、俺は思わず部屋に入っていた。
「リノ、大丈夫か? 痛いところでもあるのか?」
反応は劇的だった。
まるでばんざいをするように両手を体から離してこちらを見たリノは、ひどく顔を歪め、そして、泣き出しそうになった。
「リノ……どうした? 体が痛むのか? 何か辛いことがあったのか?」
するとリノは、蚊の鳴くような声で「……みた?」とだけ聞いてきた。
「見たって、薬を塗っているところのことか?」
リノは目を見開き、うつむいて、そして俺の脇をすり抜けるようにして「おやすみなさい……!」というと、部屋を飛び出した。
俺も部屋を出ると、マイセルのそばの毛布に、頭から潜り込んでしまっていた。
『話しだすまで待って、話を聞いてあげてください』
リトリィの言葉だが、とても話をする雰囲気を感じられず、俺は居たたまれない思いで、「おやすみ、リノ」と声を掛けることしかできなかった。
翌朝、なぜかリノがモーニングルーティンへの参加を渋った。いつもなら、むしろ早く早くと俺を急かすくらいなのに。
体が痛んだりするのかもしれない、そう思ってそっとしておこうとも思ったが、昨日、あれほどリトリィが懇願したのだ。ちょうどいい機会だと思って待ってやると、暗い顔をして起きてきた。
朝からこんな暗い顔をしているリノというのも初めてだ。背筋にぞわりと冷たいものが走るのを感じた。
「……リノ、体の調子はどうだ?」
努めて明るく聞いたが、リノは答えない。小さく、首を横に振っただけだった。
昨日噛まれたところの痛みはだいぶ収まっていたが、赤い斑点はまだ体中に残っている。リノも、ワンピースからはみ出す腕や脚には、昨日の赤い斑点が、やや小さくなったとはいえ無数に残っていた。特に、屋根を踏み抜いた左足は、相変わらずひどい状態だ。
こんな皮膚をこするなんて考えたくもない。乾布摩擦も筋トレも今日は中止にしてラジオ体操だけを済ませると、俺は井戸に向かった。リノも、無言で付いてくる。
水浴びのために服を脱ぐと、リノもつられたように服を脱いだ。一糸まとわぬ白い裸身に浮かぶ、無数の赤い斑点。ああ、かわいそうに――そう思いながら、水を汲んだときだった。
少女らしいふくらみかけの胸の、その淡い桜色の尖端の周り。
いつもと違う――その違和感に気づいたとき、俺はざわりとした、得体のしれない感情が湧き起こった。
胸にまで散らばる赤い斑点、そんなものの話ではない。
胸の、未熟さを象徴する尖った若芽の、その周りに、浅黒い跡がいくつもついているのである。まるで強い力でねじり上げたかのような、あざのようなものが。
「……リノ、それは、どうした……?」
「……んう?」
リノは気づいていない様子で、俺の顔を見上げる。
あどけない顔だ。いつもより暗い感じだが、いつもの素直な、リノ。
そのリノの顔の向こう――胸に刻まれた、いくつものあざ。
「……リノ、教えてくれないか? その胸のあざは、どうしたんだ?」
聞かずにはいられず、俺はリノの肩をつかんで揺さぶるようにしてしまった。
リノは目を見開き、そして体をかたく縮め、うつむいてしまった。
「リノ、教えてくれ、どうしたんだそれは」
何度も聞くと、リノは目を固く閉じ、か細い声で答えた。
「……ボク、その……じ、自分で――」
「……自分で? 自分でって、どういう……」
「ぼ、……ボク、その……自分で、こう、やって……」
リノはついにべそをかきながら、左手で右の胸の尖端をつまむようにし、そして右手を下腹部の奥に滑り込ませるようにして、消え入りそうな声で続けた。
「こう……やってたの……」
その時の俺は、世界一、間抜けな顔をしていたという自覚がある。
……ああ、思い出せば思い出すほど腹の立つ、ひどい間抜け面だっただろう。
昨夜の、あの光景を思い出したのだ。
あれは、つまり、アレだったのかと。
性の目覚め、なんて言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、娘の、見てはいけない姿を見てしまったかのような思いになり、慌ててリノから目をそらしてしまった。
「だんなさま……?」
「すまない! いや、あの……リノも知られたくないことくらい、あるよな! 無理に聞いて、悪かった‼」
……ああ。
俺はそのとき。
……どうして、気づいてやれなかったんだろう。
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