第506話:少女の涙と怒りの拳(2/3)

「行きたくない?」


 家を出ようとしたとき、リノは首を振った。孤児院には行きたくない――そんな様子だった。

 あの虫がいる孤児院だ。きっともう、近づきたくもないのだろう。


「そうか……。いいよ、大丈夫だ。無理に来なくていい。おーい、リトリィ。リノは今日からまた、そっちでお願いできないか?」


 するとリノは酷くうろたえて、ここにいてほしいとでも言うかのように、俺の腕をつかんで何やら一生懸命、俺を引き留めようとするかのようだった。


「どうした? 何か困ったことがあるなら、言ってごらん? みんな、リノのために力になるから」


 しゃがんでリノの目の高さに合わせると、俺は精一杯の笑顔で彼女の頭を撫でた。


「……だんなさま、お仕事、行くの?」

「そうだな、……でも、今日は早めに帰るつもりだ」

「……でも、やっぱり、お仕事は、行くの?」


 彼女が訴えようとしていることがいまいちつかめず、俺は少しだけ迷ったあと、「ああ、行くよ」と答えた。

 リノはしばらく逡巡していたようだったが、うつむき、暗い表情で小さく「……それなら、ボクも、行く」と答えた。


 それがなんとも辛そうで、俺は連れて行くべきか、それともやはりリトリィに任せるべきか、瞬時、ためらった。だが、「そうか、じゃあ、がんばろうな」と頭を撫でると、手をつなぐようにして、二人で玄関を出た。




「……ムラタ、そのチビ、なんかやたら暗くねぇか?」


 道中で合流したリファルが、リノを見て開口一番、耳打ちをしてきた。


「昨日はあんなにはしゃいでいたのに、なんだ今朝は」

「……朝から、ずっとだ。昨日のあのことが原因だとは思うんだが」


 するとリファルは首をかしげた。


「いや、ツカアリのアレは確かにイヤなことだろうけどさ? そのチビ、それでも昨日、オレたちが最初――ほら、お前が塗料を取りに行く前の間だ。部屋の中で騒いでいた間、部屋に入れなかっただけで、ちゃんと部屋の外からオレたちを応援してたんだぞ? なんでいまさら、そんな暗い顔なんだ?」


 ――そうだったのか? 気が付かなかった……。


 リノの方を見ると、リノはびくりと体を震わせ、そして目をそらした。

 それでも、俺とつないだ手は決して離そうとしないのだから、嫌われてはいない、と思いたい。




「やあ、おはようございます、ムラタ監督」


 門をくぐると、シュラウトがそこにいた。こいつが俺たちを迎えるなんて初めてだ。珍しいことだとは思ったが、殊勝な心掛けでもある。俺も挨拶をかえすと、シュラウトはリノの方に笑いかけた。


「やあ、リノさん。昨日の薬は、よかったかな?」


 リノはびくりとして、首を小さく横に振りながら一歩後ずさる。


「……リノ?」


 するとまたびくりと肩を震わせて俺を見上げ、そして、俺の後ろに隠れるようにしてしまった。

 こんな人見知りみたいなことをするリノも、珍しい。


「あ、監督! おはようございます!」


 続けて、リヒテルが館から飛び出してきた。


「今日は、どんな御用ですか?」

「いや、昨日の応急処置の具合を見に来たんだよ。それを確認したら、ちょっと人に会ってきて支援を頼むつもりだ」


 俺はそのまま中庭に向かうと、昨日の脚立を貸してくれるようにダムハイト院長に掛け合った。借りた脚立を腕に抱えて例の部屋に向かう途中で、見覚えのある顔ぶれに出会った。


 昨日、リノと一緒にいた奴らだった。特に、数人固まっている中で一人だけ妙にニヤニヤしていた大柄な少年は、昨日はリノに気を取られて気づかなかったが、最初にリヒテルにカネをせびり、ついでに俺からコートを奪おうとした奴だった。


「よう、リノちゃん? 今日も来てくれて嬉しいぜ」


 舌なめずりでもしそうな表情のそいつに、リノが「ひっ……⁉」と短い悲鳴を上げる。


「なんだよ、つれねェなあ。昨日は――」

「ミュールマン。君は大柄だから、小さい子を怖がらせがちだって、いつも言っているだろう? もっと言葉遣いに気を付けたまえ。そうすれば、リノさんも君への誤解を解いてくれるだろう」

「誤解? 何言ってんだオメーは――」


 ミュールマンとかいう、その大柄な少年が顔をしかめた瞬間、シュラウトが一歩前に出る。


「ミュールマン?」

「……フン。ああ、そうだな、そういうことにしといてやるよ」


 ミュールマンはニヤニヤ笑いを引っ込めることはなかったが、「おい、行くぞ」と、周りの数人を連れて廊下の奥に行ってしまった。


「すみません、ムラタ監督。彼は年下の面倒をよく見ることができる人なんですが、あんな体格なので、年下の子たちによく怖がられているんです。僕もいつも言っているんですけれど、彼自身にも年下の子たちにも、なかなか分かってもらえなくて」


 気にしなくていい、と俺は返しつつ、しかし違和感がぬぐえなかった。

 体格や言葉遣いだけで、こんなにもリノがおびえることなど無いはずだ。

 なにせ彼女は、初対面のとき、俺を敵と認識した途端に襲い掛かってきて、俺の股間を蹴り飛ばしたあと更にあごを蹴り飛ばすということをやってのけたのだから。


 そう、リノにとって、その気になればこの孤児院の少年たちなど、はっきり言って敵ではないはずなのだ。

 なのに、どうして彼女はこうもおびえているのだろう。




 リノは例の屋根裏部屋まできたとき、やはり部屋には入れない様子だった。廊下で待っているように言うと、ほっとしたような、けれど不安げな表情で、ドアの端にかじりついていた。


 今日もハフナンは現場に出ていて、手伝ってくれるのがリヒテル、ファルツヴァイ、トリィネ、そして――


「どうでしょう! そこの――ええと、垂木たるきって言うんでしたっけ?」


 シュラウトだった。

 彼は妙に積極的に、ツカアリがいるかもしれないという場所を指摘し続けた。

 昨日発覚した場所だけでなく、木を叩いたりつかんでみたりして、虫がいないかを確かめるのである。

 そのあたり、素人の俺には判断がつかないので、今日、脚立の上で点検をしているのは、リファルだった。


「そっちは垂木じゃねえ、母屋もやっつうんだ。垂木は屋根のてっぺんから屋根の端までを支えるヤツで、母屋もやはその垂木たるきに直角に交わる横木。垂木を支えるんだ」

「ありがとうございます! さすがリファルさんですね! それで、その母屋もやのほうはどうですか? なんだか色が変じゃありませんか?」

「……そうか? 別に――」

「どうでしょうか、僕、気になります!」


 リファルが確認作業が終えるころを見計らって、すぐにまた別の場所、それもやや離れた場所を指し示すのだ。


「シュラウト、あんまりあちこち――」

「なに言ってるんだいヒリテル。後から見つける方がよっぽど手間じゃないか。それにリファルさんだぞ? 一流の大工が見てくださる機会を逃しちゃダメだろう? 後回しにしたら、手間が増えるだけだと思わないか?」

「でも、さっきから別にアリは――」

「リファルさんだって、見ただけですぐアリがいるかいないかを判断しているわけじゃないじゃないか。だったらボクたちが、あやしいと思うところをどんどん調べてもらった方が、結局は効率がいいはずだよ? いなければいなかったで、安全だと分かるわけだから無駄がない。ほら、何も問題はない」


 確かにそういう面はあるかもしれない。だが、午前中の一時間ほどで簡易的に調べようと思っていたのが、結局、二時間近くかかってしまった。その分、念入りに調べることはできたと言えるのだけれど。




「では、隣の部屋はいつ見てくれますか?」

「しゅ、シュラウト。監督たちは忙しいんだ、このあと人に会うって――」

「なにを言ってるんだい? 僕は今日の話なんてしていないよ。明日以降の話さ!」


 シュラウトが、どんどんと足を踏み鳴らす。


「心配じゃないのかい? リファルさんが言っていたじゃないか、このままじゃ屋根が落ちてくるかもしれないって。他にもそういう部屋があったらどうするのさ」

「……シュラウト、そのためにも今日、俺たちはこれから人に会ってくる。もうだいぶ時間も押してしまった、今日はこれで失礼するよ」


 俺はシュラウトの話を切り上げた。

 さっきからシュラウトは、ドアの向こうをちらちらと見ている。実は俺も、さっきからそれが気になっていたのだ。


「待ってください、僕たちも不安なんです。せめて、次はいついらっしゃるか、教えていただけませんか?」


 何を焦っているのか、シュラウトはさっきから床を踏み鳴らしている。不安……は、まあ不安かもしれないが、地団太を踏むような真似をされても、こちらにも予定と都合というものがある。


「また来れるときに来る。なに、早いうちに来るさ。……じゃあ、また」

「ま、待ってください。リファルさん、せめてその……早いうちっていつか、教えてもらえませんか?」


 シュラウトは盛んに足を踏み鳴らしたが、リファルもそれには答えず、俺と共に部屋を出た。


「……リノ?」


 廊下には、誰もいなかった。


「おい、リノ?」


 吹き抜けから下を見ても、リノらしい少女は見当たらない。

 俺の様子を察知したのか、リヒテルが廊下に出てきた。


「リノさんがいないんですか?」

「ああ。どこに行ったんだ、あいつ」


 その瞬間、リヒテルは部屋の中をにらみつけた。


「……リヒテル?」

「……いえ、なんでも……なんでもありません!」


 リヒテルは駆け出すと、階段ばしごを駆け下りていく。

 俺もつられて駆け出すと、階段ばしごを飛び降りるようにして追いかけた。


 果たして、リノは、そこに居た。

 廊下を独りで、とぼとぼと、こちらに向かって歩いてくる。

 ただ、彼女は俺たちを認識して歩いている様子ではなかった。


「リノさん!」


 リヒテルがリノに駆け寄ると、リノは短い悲鳴を上げて立ちすくんだ。

 リヒテルが強い調子で何かを話しかけるが、リノは首を振るばかり。やや遠かったのか、二人の会話の内容が翻訳されず、何を言っているのか分からない。


 急いで二人に駆け寄るが、リノは暗い表情でうつむいたまま、何もしゃべろうとしなかった。


「……おい、ムラタ……」


 追いついたリファルが、うつむき、肩を震わせ、唇をキュッと噛んで、それでも頑なに何もしゃべろうとしないリノを見て、絶句する。


「……まさか――」


 リヒテルが何か言いかけたときだった。


「やあ、すみません。時間を取らせてしまって。次、人に会うんですよね。僕もわがままを言って申し訳ありませんでした。リヒテル、三人をお見送りするよ。一緒に門まで、来てくれるよね?」


 シュラウトだった。


「シュラウト! 君、まさか――!」


 リヒテルがシュラウトにつかみかかると、彼は大げさに驚いてみせ、そして声を張り上げた。


「リヒテル、どうしたんだい? 暴力はやめてくれ!」

「暴力……だって?」

「なにがあったか知らないけれど、暴力は感心しない! リヒテル、やめてくれ! 落ち着こうじゃないか!」


 すると、中庭への出入り口のほうから、何人かが入ってきた。ダムハイト院長も、コイシュナさんも。


「どうかしましたか、シュラウト君。……そして、リヒテル君ですか」

「ああ、院長先生! いえ、なんでもありません! リヒテル君が、すこし、興奮してしまっただけです!」

「リヒテル君……またですか?」


 ダムハイト院長は、その丸眼鏡を押し上げるようにしてリヒテルを見た。

 リヒテルが、気圧されたように一歩、下がる。


「い、いや、僕は……」

「院長先生! 違います、彼は悪くありません! ただ、きっと少し興奮してしまっただけなのです!」


 シュラウトは逆に一歩前に出て、目がやや険しくなった院長を説得するかのような仕草をみせる。

 コイシュナさんは、院長とシュラウト、そしてリヒテルの三人を交互に見比べるようにしながら、困惑しているようだ。


 ……なんだ、これは?

 俺はリファルの方に目配せをすると、リファルも肩をすくめる。


 俺はリノの肩に手を置くと、そっと俺の後ろに誘導した。リノは、俺の背中側に回ると、きゅっと俺の腰にしがみつく。


「ダムハイト院長。シュラウト君の言う通り、リヒテル君は何も悪くありませんよ」


 俺は、どうしようもなく湧き起こってくる違和感のなかで、努めて声を抑えつつ、院長に話した。


「ええ、彼は今日もよく働いてくれましたし、私の大切な家族の行方を心配して、一番に駆け出してくれました。むしろ私は、口先だけの人間よりも、彼のような他者を思いやる素晴らしい少年をこそ、仕事場に欲しいですね」

「……リヒテル君が、ですか?」


 院長は、怪訝そうな顔を向ける。俺はここぞとばかりに笑顔を作った。


「ええ。不幸にも今は怪我をしていますが、治り次第、すぐにでも寄こしてほしい。他者を思いやり、そのために走ることのできる彼は素晴らしい人材となるでしょう。末は我がギルドの親方のもとに、徒弟として来ていただきたいくらいですね」


 一息に言い切った俺に、院長は目を丸くした。シュラウトとリヒテルを見比べて、首をかしげる。


「は、はあ……。彼も十五ですし、今年中に独立せねばなりませぬ身ですから、そう言っていただけるのは、大変ありがたいお話ですが……」

「ええ。ぜひ彼の良さを、院長にはよく見届けていただきたい。私は彼に期待をしています。など無いよう、ぜひ彼をまた、我々の現場に戻してくださいね」


 院長は狐につままれたような顔で、首をひねった。


 それから、お前・・の、舌打ち。聞こえたからな。

 なあ、シュラウト?

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