第433話:異世界のパン作り事情
炊き出しで配るためのパン作り――と言っても、庶民が作るものだから至ってシンプルだ。
水に塩を混ぜてよく溶かし、小麦粉をぶち込んで適度に練る。
適度に、と言うところがポイントで、あまりこねずに大雑把な感じだ。あとは形を整えて焼くだけ。
日本では砂糖とかバターとかイースト菌を入れたような気がするが、そんなものは入れない。が、ここではなぜか、シロップみたいなものを入れる。レーズンみたいなものを水にひたした、その汁だ。これは、ペリシャさんが大量に持ち込んだ。
「これがパンの
そう言ってペリシャさんは笑うが、俺の記憶にあるパン作りに、そんなもの無かった気がする。まあ、気にしても仕方がない。この世界ではそういうものなんだろう。
暖炉の前に並べられた生地は、やがて二倍くらいに膨らむ。おそらくこれが発酵ってやつなんだろう。そいつを適当にちぎって伸ばし、かたちをととのえ、もうしばらく置いておいて、また適度に膨らませてからからオーブンへ。
焼きムラをなくすため、途中で引っ張り出して向きを変えてまた焼く。
そうやってでき上がるのが――
「……バゲットだよな、これ、どう見ても」
そう、バゲット。いわゆるフランスパン。そのパリパリの皮に魅せられて、そーっと一部を剥ぎ取って食ってみて、その香ばしさを堪能し、そしてリトリィに「めっ」とされてしまった。
ニューとリノが歓声を上げ、食べたいと駄々をこね、ナリクァンさんも笑いながら一つずつ、食べることを許可してくれた。
「かたい……! なんだこれ……!」
目を白黒させながらかじるニューに対して、俺の真似をしてパンをむしって食べることに慣れていたリノは、目を丸くして叫んだ。
「でもニュー、ほら、見て見て! 中はふわふわ! ボク、お姉ちゃんのパンも好きだけど、これも好き! おばあちゃん、半分とっといて、あとでまた食べていい?」
「ふわふわなのは今のうちだけですからね。冷めたら固くなりますから、おいしい今のうちにお食べ」
「はぁい!」
少女たちの一挙手一投足に目を細めるナリクァンさん。自分の孫やひ孫のことを思い浮かべているのだろうか。
「さあさ、どんどん焼きますよ? お嬢さんたち、美味しいパンを焼けるのは、いいお嫁さんになるための大事な大事な条件ですからね、頑張りましょうね?」
いやナリクァンさん。パンをこねてるの俺ですから。一番の力仕事をやってるの、俺ですから!
「何をおっしゃるのやら。美味しいパン作りに欠かせないのはおいしいパン
ペリシャさんがあきれたような口調で、腰に手を当てる。
「パン生地をこねるなんて、誰でも出来ます。それこそ、水車にだってできるんですからね? ニューちゃん、リノちゃん。おいしーいパンを作ることができる上手なパン
ぺリシャさんの言葉に、少女二人が歓声を上げる。
「男の人は力仕事だけやらせておけば良いのですよ。女の仕事は指と長年の勘、そして繊細な感性が物を言いますからね。こればっかりはがさつな男には決して任せてはいけませんよ」
「はーい!」
……ペリシャさんそりゃないぜ。ふてくされてみせると、リトリィが苦笑した。
だが、それもしかたないだろう。なにせ俺は今まで、ずっとリトリィにパンを焼いてもらっていて、一度も自分で作ったことがなかったのだから。
「そういえば、リトリィは『パン
リトリィがいつも作ってくれるのは、あのナンみたいなパンだ。山の家にも例のレーズンを漬けたシロップみたいなものはなかったし、この家にも置いていない。だからリトリィの作っているパンは
「はい、もちろん入れていますよ? わたしは、お母さまから受け継いだ『パン生地の
「パン生地の素……?」
「はい」
リトリィはほほえみながら、キッチンの棚から、粘土のようなものを取り出した。見ればわかる、パン生地だ。
「これが、パンの素?」
「はい。練った生地を、焼く前に少しだけ取っておくんです。新しくパンを焼くときに、前に作った生地を混ぜるんですよ。そうしてふくらませたら、またそこから少し残しておいて、次の時に使うんです」
……そうか。そういうことか。
わざわざ毎回イースト菌を買ってきて入れなくても、一度発酵させたものを取っておけば、その中に菌がいる。だからそいつを使って、また次のパンが作れるというわけか。
あれだな、ヨーグルトを牛乳に入れて新しいヨーグルトを作るみたいなものか。なるほど!
「わたし、お母さまのやり方しか知りませんでしたから、こんなふうに乾燥果実を使ったやり方があるって知って、少しびっくりしました。パン作りも、いろんなやり方があるんですね」
……俺こそ驚きだ。俺はずっとリトリィの作るパンのことを、種無しパンだと思っていた。ナンみたいにもちもちした平べったいパンだったから、てっきり発酵なんてさせていないと思っていたのだ。
「……よく、わかりませんが……。パン
「いつも焼いてくれているパンと、今焼いたパンでは、生地自体は同じってことなんだな? じゃあ、何が違うんだ?」
「一度ふくらませることはするんですけど、二度目のふくらませをしないのと、温度も低めにして焼いているんです。ふわふわなパンの方がお好みでしたら、これからはそうしますね?」
なるほど。発酵過程を省略し、温度をやや低めにして焼くと、リトリィがいつも作ってくれる、あのナンみたいなもちもちパンになるという。
「……いや、いつものあれでいいよ。俺、いつものあのパン、好きだから」
「そう、ですか? でも……」
「じゃあ、たまにはパリッと焼いてくれると、時には違った風味を味わえていいかな? でも、基本はいつものあのパンでいいから。俺はリトリィが焼いてくれるあの味が好きなんだ」
俺の答えに、リトリィは目をしばたたかせ、はにかむように笑ってくれた。
「なあ、おっさん。パンって、あとどれくらい焼くんだ?」
ヒッグスが、外から戻ってきた。焼いたパンは、外に置かれた棚に並べて熱を取る。十分に冷えた頃合いを見計らって取り出し、食品庫にしまっておくという予定になっている。
「どれくらいか……ナリクァンさんに聞いてくれ」
「あのばあちゃん、『たっくさんですよ?』ってばっかりで、あとどれくらい焼くのか、全然教えてくれねえんだよ」
「じゃあ、まだまだってことだろう。頑張ろうぜ」
「ええ~っ?」
ヒッグスは顔をしかめた。
「せめてあと何個焼けばいいのかくらい、教えてくれたっていいだろ? それに、なんでわざわざアツアツのパンを外に放り出して冷ましちまうんだよ。もったいねえ」
「こうすると、日持ちするんですよ」
ヒッグスの言葉に、ペリシャさんがすまして答える。
「へえ……。これは、昔ながらの知恵、という奴ですか?」
「いえ。夫が考案しましたの」
……ああ、そういうことか。カリカリに焼いて水分を飛ばすのと、すぐ冷蔵庫に入れるようにすることで、カビが生えにくくするのか。
そう言えば日本酒っぽいお酒を開発してたし、農学部の知識ってのは幅広く応用できるんだなあ。
……ひょっとして、パン種の扱いが山育ちのリトリィとこことで違うのは……
「そうですね。私たちも、昔はリトリィさんと同じやり方をしていましたのよ。ただ、美味しいパンを作ることができるパン
もともとは、この街でも一般的な家庭ではリトリィと同じやり方でパン
それを、瀧井さんがどうにかして庶民も安定的にパン作りができるようにと、知恵を絞ったのだそうだ。
「夫は、それをコォボと呼んでいますけれど」
「コォボ?」
「ええ。目に見えない小さな妖精さんが、乾燥果実を食べてパン
コォボ――酵母菌のことか! そうか、あのレーズンみたいなものの表面についている酵母菌を、水につけることで培養してパン
すごい、すごいぞ瀧井さん! 異世界チートって、ひょっとしてこういうことをいうのか? 同期だったアニオタの島津がいってたのは、そういうことだったのか!
「なあ、おっさん!」
一人で感動していると、ニューが服のすそを引っ張ってきた。
「早く、次のパン生地作るぞ?」
「あ、ああ、分かった。でもニュー、さっきの生地、もうなくなっちゃったのか?」
「無くなった。だから早く。おれもこねるから!」
ニューが、妙に鼻息荒く催促を繰り返す。
「……ニュー、ひょっとして、パン作り、楽しいか?」
「うん、楽しい! おもしろい! なあおっさん、おれ、パン作り気に入った!」
「そうか……ニューはいいお嫁さんになれそうだな」
「ほんとか!? ほんとにニュー、いいお嫁さんになれそうか!?」
「ああ、なれるとも、すぐにでも――」
と言いかけて、慌てて口をつぐむ。そうやってマイセルとリノが結果的に俺の嫁に収まってしまったんだ、これ以上増やしてたまるか!
「にゅ、ニューは誰のお嫁さんになりたいんだ? 俺にはもう、リノもいるから――」
「おっさんなわけないだろ? 第一、そんなことしたらリノと取り合いになっちまう。そんなめんどくせえこと、したくない」
罵られているようにしか思えない口調だが、それでも彼女の中で、リノとトラブルを起こしたくないという思いは分かった。
どんな理由にせよ、彼女が技術を身に着けることに意欲的になっているのはとてもいいことだ。もしかしたら、パン職人への道が開けるかもしれないじゃないか。
手に職を持つというのは、自らの生き方の道を広げることにつながる。ニューが自立できるチャンスだ、大変ではあるかもしれないが、ニューのなかで目標ができたのはいいことだ。その芽を大事に育ててやりたい。
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