第527話:自分がやらなきゃ誰がやる

「おい、お前、やる気あるのか」

「……うるせえ。てめぇも井戸の水の汲み上げ十連、やってみろってんだこの野郎」

「井戸の水の汲み上げ十連?」


 午後の鐘が鳴ってからしばらくたってようやく現場に戻ってきたリファルは、足取りもおぼつかない様子だった。まるで酒を軽く引っかけたかのように。


「屋根も大事だけどよ、ここの井戸、まず何とかしようぜ」


 そう言って、ヤスリやらノコギリやら端材やらを持ち出そうとするので何を始めようとしているのかを聞いたら、「井戸の滑車が壊れてんだよ」という返事。


「だから、水を汲むときには桶のロープを直接引き上げなきゃならなかったんだ。メチャクチャ大変だったんだぞ!」

「それは分かったけど、どうして今、修理なんだ」


 午後の作業自体はとっくに始まっている。

 マレットさんの弟子で、以前、家を建てるときに働いてくれたバーザルトとグラニット、そしておそらくその補佐としてつけてもらえた職人さんが、すでに上で作業中だ。リノも、俺の目視確認及び伝令のため、屋根に上ってくれている。


「分かるけどよ、洗濯中なんだよ」

「洗濯? まだやっていたのか?」

「てめぇ、洗濯をナメてんのか?」


 この世界で洗濯というと、たらいに洗濯物と水、そして洗剤代わりの灰汁あくやムクロジの実をぶち込んで踏み洗い、というイメージだ。実際、家でもリトリィ、マイセル、そしてニューとリノが洗濯娘をやっている。


「あのな! 赤ん坊だぞ! クソ垂れたおむつだってあるんだぞ、一緒に踏み洗いができると思うのか!」


 ……ああ、なるほど。そういうことか。

 まずウンチを洗い落としてからでないと、汚れていないところ、ウンチ汚れのないおむつにまでウンチの汚れが広がってしまうわけだな。


「そのための水を全部、滑車の壊れた井戸から水を汲み上げて洗ってたんだよ、コイシュナさんは! おかげで洗濯自体もまだ終わらねえ。オレがやらなきゃ誰がやるってんだ!」


 なるほど、うん、大変よく分かった。

 よく分かったから、落ち着け。顔が近い、近いって。ていうか今、おでこがぶつかったんだが。


 道具や資材を抱えて鼻息荒く館の奥に消えていったリファルに、俺はため息をつく。いや、屋根の上だって人員が足りないんだよ。


「カントクー! どうかしたんですかーっ?」


 屋根の上から、バーザルトの声。なんでもない、と俺は手を振ってみせる。


「それよりどうだ、作業は進んでいるか?」

「順調ですけど、よくこの屋根、今まで形が保てましたね。自分、これほど酷い屋根は初めて見ましたよ!」

「安心しろ、間近で見るのは俺も初めてだ」


 リノの目を通して見えるのは、グラニットの手だろうか。灰色の、スカスカの板は、彼が剥がそうとした途端に崩れ、大きな破片が部屋の中に落ちていく。

 破片は部屋の床に当たった瞬間、それが木だったとは信じられないほど粉微塵に砕け散った。


『うわ、またやっちゃった……』


 グラニットが、苦笑いをリノこちらに向けてくる。


『カントク、僕、もうここにいるだけで足がすくむんですけど』

「そのあたりの垂木はまだしっかりしているはずだから、垂木の上から重心をずらすなよ?」

『は、はい、分かってます!』


 リファルなら、不満げな軽口を叩きながら、しかし危なげなく作業を進めたに違いない。

 バーザルトもグラニットも、決して腕が悪いわけじゃない。以前、俺が小屋を建てたときよりもずっと自信に満ちていたし、高所での作業にも慣れを感じた。一年間顔を見ないうちに、彼らも成長したのだ。


 しかし、それでもやはり「職人」と「見習い」には大きな差を感じてしまう。今回の現場を通してさらに成長してもらいたいが、しかし今回の現場は思った以上に危険だった。マレットさんの推薦するお弟子さんたちだが、少し荷が重かったかもしれない。


 もう一人の職人さんはベテランらしく、一人黙々と作業を進めていた。見習いの少年たちがてこずる板の撤去も、彼は無言で機械のごとく手早くおこなってゆく。彼のおかげで、かろうじて作業が前進しているように感じられた。


 結局リファルが戻ってきたのは、午後の休憩あたりのことだった。

 実に満足そうな顔をして戻ってきたが、屋根が今日の予定の五割程度しか進んでいなかったことに、さすがに決まりの悪そうな顔になった。

 ……いろんな意味で遅いって!




「……へえ、これか。直した滑車ってのは」

「直したっていうより、すっかり腐ってダメになってたから、ほぼ新造だ」

「なるほどね。これを二刻にこく(約二時間)でやったっていうなら、確かに頑張った、んだろうなあ」

「頑張ったどころじゃねえぞ! オレ一人で組み上げまでやったんだからな?」


 リファルが胸を張ってみせる。


「……そのせいで、屋根の方は大変だったんだからな?」

「いいじゃねえか、とりあえず今日の工程はなんとか終わらせることができたんだしよ」

「よくねえよっ!」


 今日の工程をなんとか終わらせる――その代償が、夕日が沈んだあとも続けねばならなかった残業である。なにせ瓦を剥がしたままにしておくわけにはいかないのだから。


 破損した瓦も多かったから、代わりの瓦を屋根の上まで運ぶのも大変だったが、星すら見え始めた薄暗い中で瓦を正確に並べて接着するってのも、相当に神経を使ったのではないだろうか。


さんにそって並べるだけだ、簡単なものだよ」

「だからお前、そのための作業がもう、手元も見づらい時間になっちまったことを反省しろよ! 星すら見え始めた薄暗いなか、足元を踏み抜かないように下りてくるお前たちを待つ間、どれだけ胃の痛い思いをしたことか!」

「終わらせたんだからいいんだよ」

「だからよくねえって!」


 ため息をつきながら、滑車のロープを引っ張ってみる。

 意外な滑りの良さに驚いて何度も引いてみていると、リファルがどうだ、と言わんばかりにニヤリとしてみせた。


「……まあ、こんなもんかな」

「なに言ってやがる。今、動きの滑らかさに驚いてただろ」

「そのせいで今日はギリギリ仕事になったんだ。これくらいマトモな仕事してもらわないと、俺たちの労働時間という尊い犠牲が無駄になるってもんだ」

「ぬかせ」


 俺はリファルと小突き合いながら中庭を出ようとすると、中庭の出入りの扉のところで、リヒテルがリノに何かを渡しているところだった。


 リノは不思議そうにリヒテルを見上げ、リヒテルはどこか真剣な様子で何かを言っている。残念ながら翻訳首輪の効果範囲外のようで、何を言っているかは分からない。


 俺がリノを呼ぶと、リノはぱっと顔を上げ、そして大きく手を振ってこちらに駆けてきた。


「ししょー! おはなし、おわった⁉」


 飛びついてきたリノを抱きしめて、ぐるんと時計回りに一回転。


「終わったよ。帰ろうか。……マレットさんのところはもう、帰ったもんな?」

「うん」


 リノがうなずく。

 うなずいてから、不思議そうにきょろきょろとした。


「……水のにおいがする」


 ああ、井戸の近くだからな。この井戸の壊れた滑車のせいで、俺たちは今日、大変だったんだ。

 大変だけど、リノはずっと屋根の上で、俺たちのサポートをしてくれていた。リノが作業の進捗を教えてくれるから、手際よく資材を運ぶこともできた。


 ――そうだ、資材と言えば。

 俺はリヒテルに向かって手を高く掲げてみせた。


「リヒテル、今日もお疲れさん。資材運び、疲れただろう」

「い、いえ……! え、えっと、自分たちが暮らす場所ですし、こ、これからも、お手伝いできることがあれば……!」


 リヒテルが妙にしどろもどろになる。……ああ、こいつ、こんなやつだったか。

 すると、リファルが突然俺を押しのけるようにして前に立った。


「おい、リファルお前――」

「あら、リファルさん」


 廊下の向こうから聞こえてきた声の主は、コイシュナさんだった。リファルの姿を認めてか、ドレスの両すそをつかんで、廊下を小走りでやってくる。


「今日は井戸の修理と、それからお洗濯のお手伝い、本当に助かりました。ありがとうございました」


 コイシュナさんは俺が見たことのないほどの笑顔で、肘から上の腕を挙げて右手のひらを見せ、左手でドレスのすそをつかみ、腰を落として深々と頭を下げる。

 ……洗濯? 洗濯だって⁉ お前、滑車作ってたんじゃなかったのかよ!


「滑車の修理も大工の仕事、お役に立てて、何よりです! また、何でも言ってください。オレ、洗濯でもなんでも手伝いますから!」


 調子のいいこと言いやがって。おかげでこっちは大変だったんだぞ。

 背中から小突くと、素早く右足のかかとで俺の足のつま先を踏みやがった!

 ふぐぅおぅっ⁉

 きょ、今日からは屋根に上るかもしれないからって、安全靴、履いてなかったんだよ俺は……!


「やりがやったなてめえ!」

「うっせぇ既婚者、邪魔すんなっつっただろ!」


 熱い漢同士の熾烈な戦いが始まる――そう思ったが、その緊張感は即打ち砕かれた。リノが「ボクの――ししょーに何すんだっ!」と参戦したからである。

 おかげでまたしても顔中に爪痕を残したリファルが引き下がり、ドローとなった。




「だんなさま、外が気になりますか?」


 リトリィが、口を離して俺を見上げた。

 彼女の舌から、長い銀糸が伸びる。


「……ああ、ごめん」

「ふふ、謝らなくても」


 そう言ってリトリィも体を起こすと、窓の外を見上げた。

 夜になって降り出した雨は、静かに夜を閉ざし続ける。


「明日は、畑で種まきでしょうか」

「……そうだな」

「春の恵みの雨ですね」


 そう言って微笑むリトリィ。

 そういえば、リトリィが住んでいた山の館の周りには、不釣り合いなほど広い畑があったっけ。


「はい。春の雨のあとは、お父さま、お兄さまがたと、みんなで種まきでしたね」

「そっか、お姉さまのおうちは、自分たちの畑で食べ物、作ってたんでしたね」

「そうですね。麦以外の多くは」

「私、雨って好きじゃなくて。だって外出もおっくうになるし、大工仕事だってできないじゃないですか」


 マイセルの挙げた理由に苦笑してしまう。

 外出がおっくうになる、はまだいい。大工仕事ができなくなるというのは、いかにもマイセルらしい感想で。


「それにしても、恵みの雨……か。俺、雨って奴に今までそういう考え方をしたことがなかったな」

「街暮らしの方は、そうかもしれませんね」


 そう言うと、リトリィは舌なめずりをしてみせた。次いで、下腹に指を滑らせる。


「ふふ、だんなさま……だんなさまのは、こちらですよ?」

「いや、今夜はもう何回も――」

は、芽吹く・・・まで何回いたしてもいいんですよ?」


 思わずマイセルの方を見たが、彼女は「ムラタさんがをしないで、誰がするんですか?」とにっこり微笑むだけだった。

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