第528話:命の火は簡単に…
しとしとと降り続ける雨は、昼になっても上がる気配がない。こういった雨は久しぶりだ。だからだろうか、チビたちは外で雨の中、遊んでいる。元気のいい声が、窓の外から響いてくる。
「ふふ、おちびちゃんたちは元気ですね」
「ああいった姿が、本来のあの子たちなんだろうな」
リトリィが淹れてくれたお茶を飲みながら、俺は隣に座るリトリィのしっぽに手を伸ばした。彼女も心得たもので、ふわりと俺のほうに振って寄こしてくれる。
ああ、ふかふか。繊細で濃密な毛が、とても心地よい。もうすぐ換毛期だから、今はこの感触を楽しんでいられる最後の時期だ。
「ムラタさん、お姉さまのしっぽで遊ぶのはまた後にしてください。お姉さまが動けません」
マイセルが、ほっぺたを膨らませてやってきた。
「久しぶりのお休みなんです。お姉さまに刺繍を教えてもらう、絶好の機会なんですから!」
「ふふ、でしたらマイセルちゃん、こちらに一式を持ってきてくださる? 今日はこちらで一緒にいたしましょう。座る場所さえあれば、どこでだってできるのが刺繍のいいところですから」
かくして、リトリィを真ん中にするようにして右側でマイセルが刺繍をし、その反対側で俺がリトリィのしっぽを愛で続けるという、妙な構図が出来上がった。だが、天の恵みによる休みだ。こんなことでバチなど当たらないだろう。
――などという平和を堪能している場合ではなかった。
孤児院の屋根は確かに気になるが、少なくとも修理をした部分に関しては雨漏りしないはずだから、以前よりマシなはずだ――なぜそんなことを思えてしまったのだろうか。
降ったりやんだりの天気からようやく青い空が戻ったのは五日目の朝。
三日目など特に雨が強かったが、四日目には雨時々曇りといった様子になり、そしてようやく訪れた青い空のもとで、俺もリノもいつもの体操・筋トレ、そして水浴びをする。
本当は、彼女とはもう、水浴びをすまいと思っていた。
けれど、彼女自身が望んだ。
本当はいち大人として、彼女が望んだとかどうとか言って彼女に責任を押し付けるのは、最低なのかもしれない。だが、俺が自制すればいいだけの話でもある。
彼女に接する、彼女が理想としてくれている男性として、紳士的に振舞っていればそれで――
「だんなさま!」
「どうした?」
「ずっと気になってたの、聞いていい?」
「なんだ? 何でも聞いてくれ」
するとリノは、俺が腰に巻き付けていた大手ぬぐいに飛びついてひっぺがす!
「おいこらリノ! お前なにを……⁉」
慌てて取り返そうとすると、リノがしゃがみこんで顔を近づけ、言った。
「この
「あっ――おいこらっ! リノ、それは……!」
「あ、先っぽつついたらおっきくなってきた!」
ギャース!
理想の男性像が!
紳士的振舞いが!
こらリノやめなさい! これは命に火を灯すありがたーいもので……!
「すごーい、上向いた! 調詰め肉みたい! ねえだんなさま、どうしてつついたらこんなにおっきくなるの?」
リノ、もうやめて、未来のだんなさまのライフはゼロよ……!
「……朝からひどい目に遭った」
「どうせてめぇのひどい目ってのは、一日中、嫁に足腰立たなくなるまで搾り取られたってくらいだろ。しばらく雨で仕事もなかったしな。愚痴に見せかけた自慢なんかしやがって、そのまま干からびてしまえ」
酷い誤解だ。
だが、隣を歩くリノが原因などとは言い出せず、言いかけた言葉を飲み込む。そういえばいつだったか、リトリィにも同じような醜態を晒したことがある気がする。
リノが不思議そうに「んう?」とくりくりの目で見上げてくるが、頭をくしゃくしゃっと撫でるだけにしておく。
「それより四日間も、降ったりやんだりで面倒くさい天気だったからな。屋根はどうなっているだろうか」
「オレがやった仕事が悪いはずねぇだろ、そこは絶対問題ないはずだ」
妙に自信たっぷりのリファルに苦笑しながら、門をくぐる。
門をくぐって、後悔した。
なぜなら、孤児院に入って最初の仕事が、
――二つの、小さな小さな棺桶作りだったからだ。
「……二人とも、一昨日の夜から昨日の明け方にかけてです。天に還っていってしまいました……」
震える声で、コイシュナさんは教えてくれた。
ナリクァン夫人の派遣する子守女中の女性が、一日おきの契約だったことも、遠因と言えた。もちろん、それを責めるわけにはいかないが、まさにその隙間に、命が零れ落ちてしまったように思われた。
「最初の二日で、乾いたおむつは全て使い切ってしまったんです……」
そこまで聞いたら、あとは想像がついた。
コイシュナさんは、きっと雨の中、精一杯おむつを洗ったのだろう。そして館の中に干せる空間を見つけたら、隙間を縫うようにしておむつを干していたに違いない。
けれど、なにぶんにも降り続く雨、そして生乾きのおむつ。
多分、あれだ。
もともと栄養失調気味だったこの孤児院の子供たちだ。
中でも赤ん坊たちにとって問題は深刻だったろう。なにせ粉ミルクもないのだ。
そんなときに、乾いたおむつがなくなった。
けれど、放っておくわけにはいかない。濡れたおむつを、生乾きのおむつに交換することになる。
三日目、一日中湿ったおむつで冷やされ続け、そのまま夜を迎えた赤ん坊たち。
貧しい孤児院ゆえに、暖炉に火を入れることも満足にできなかっただろう。
そもそも暖炉という暖房器具は、暖められた空気のほとんどが煙突から出て行ってしまうため、実は暖炉周辺以外はなかなか温まらない。部屋全体が温まるには、数時間かかる。
その結果がこれだ。
実に簡単に、命の火は消えてしまった。
だれが悪いわけでもない。
支援が整う前に雨がきた。
運が悪かっただけなのだ。
ただそれだけなのだ……。
「……リファルは、そんなにも簡単に割り切れるのか? 俺にはとても……」
「割り切るしかねえだろ。それともコイシュナさんが悪いって言いたいのか?」
即答されたが、返したリファルも、決してそれでよしと思っているわけではないだろう。ただ、受け入れるしかないという事実がそこにあるだけで。
そして改めて思い知った。我が家でも、マイセルがおむつをたくさん用意しているわけを。
おむつは、洗ってもすぐに使えるわけじゃない。
おしっこ数回分の吸収力、なんて便利なおむつはこの世界にはない!
新品の紙おむつを買い置きしておけばいいなんて世界でもないのだ、ここは‼
俺はどれだけ、考えが甘かったのだろう!
孤児院の葬儀はシンプルだ。
亡くなった赤ん坊二人の遺族など分からないから、参列者は院の者だけになる。
本当は今日は休みだったはずの子守女中さんも、朝から来て色々手伝っていた。
小さな小さな棺に納められた二人に、コイシュナさんは泣き崩れていた。やはり最も身近で世話をしてきたのだ、思いも強かったのだろう。
ただ、やはりここでも金のなさから、二人は街の郊外にある共同墓地に、土葬によって葬られることになったらしい。
「らしい」というのは、参列を丁重に断られたからである。
それどころか、今日一日は喪に服すために作業は中止になるかと思っていた俺たちに、ダムハイト院長は作業を要求した。
「参列への強いご希望をいただけた、その想いをいま、お伝えしていただけただけで十分でございます。それ自体はありがたく受け止めますので、今を生きる子供たちのために、どうか少しでも、屋根の修理を進めていただけたら……」
この世界の風習を、特に宗教儀式を、俺は詳しく知らない。
だから、喪に服すことなく日常を続ける、というその判断が、正しいのか間違っているのか、判断できない。
けれど、声を震わせながら、それでもあえてそう言い切ったダムハイト院長を、俺は少し、見直した。
命の火は、簡単に消える。
もう分かっていたことだ。
リファルだって言っていた、うちで引き取ったチビ三人だって、どうかしていれば死んでいたかもしれないのだ。
それを言うなら俺自身、何ならこの世界に落ちてきたその最初の時点で、死んでいたはずなのだ。
山の鍛冶師――今では俺の
――あれ?
何か引っかかったような気がして、首をひねったときだった。
突然、耳をつんざく悲鳴。
ぞわりとする浮遊感――直後に足を裏から打つ衝撃に、ひどい崩壊音!
続いて屋根の上から降ってきた、リファルの怒鳴り声――
「ムラタ! 応急箱を持って部屋に走れ! グラニットが虫食い垂木を踏み抜きやがった! お前ンところのチビも落ちた!」
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