第529話:いつまでが子供?
「ムラタ! 応急箱を持って部屋に走れ! グラニットが虫食い垂木を踏み抜きやがった! お前ンところのチビも落ちた!」
……リノが⁉
我に返ってリノに呼びかけるが、返事がない。
というより、おそらく直前まで目の前に映っていたはずの、リノが見ている景色は見えず、本物の景色が目の前にあるだけだ。
俺は弾かれたように駆け出すと、資材置き場に投げ置かれていた布袋をひったくるようにつかんだ。
まるでねばりつくような空気を必死にかき分けるようにして、館に飛び込む。
通り慣れた通路を走り抜け、通りがかった子供にぶつかりそうになり自分から壁に体当たりするようによけながら、はしごのような階段を駆け上がり、半開きだったドアを蹴破る勢いで部屋に飛び込んだ。
「リノ! グラニット!」
異様に静かに感じられる部屋には割れた瓦や腐ったり虫に食われたりしてぼろぼろの木材の破片が散らばり、そしてひどくカビ臭かった。
屋根裏部屋とはいえ、屋根の最も高い位置から落ちればかなりの衝撃を受けることになる。
瓦礫と一緒に落下したのだ、砕けた破片で怪我をすることは十分あり得る。それどころか、『一メートルは一命取る』というキャッチコピーもあるのだ。どんなに低くても、打ち所が悪ければ――
「……だんな、さま?」
その声に全力で振り向くと、部屋のすみでしりもちをついたままのリノがいた。
「り、リノ! 無事だったか!」
「……うん。びっくりしたけど、あれくらいなら平気だよ!」
リノはそう言うと、嬉しそうに飛びついてきた。
俺も無事を確かめるように、力いっぱい抱きしめる。
言われてみれば、門外街防衛戦のときには、五メートル以上離れた家から家に飛び移って、侯爵軍の動向を監視してくれたリノだ。たかが三メートルほどの屋根からの自由落下なら、それほど恐れるものではないのかもしれない。
屋根の上に上るのだからと着せた丈の短いチュニック、そして「足をくるむの、イヤ!」と散々に抵抗された末に「
その効果はあったのかなかったのか、とにかく彼女の白い足には、わずかな擦り傷以外見当たらないことに、心底ホッとして胸を撫でおろす。
気が付くと、足元に「遠耳の耳飾り」が落ちていた。
急に交信できなくなったのはこれが原因か。
拾い上げて着け直してやると、嬉しそうにまた飛びついてきた。
「それよりだんなさま、あれ」
リノが指差した先。
そこには、天井に空いた穴から、
――そうだ、今日の現場から、バーザルトとグラニットには、アレを身に付けさせていたんだった。
俺が半年前に集合住宅再建の現場で考案した、というか日本で現場作業員が身に着けていたものを参考にして作った、
今回の作業は、形を保っているように見えるだけの、危険個所だらけだ。
事前に補強は入れたが、万が一のためにフルハーネスと呼ばれる安全帯を付け、命綱もつけて臨ませたのだ。
まさか補強が上手くいかなかったばかりか、命綱がこんなに早く役に立ってしまうとは。
「グラニット! 怪我はないか! 痛むところは!」
「……ないです……早く引き上げてくださぁい……」
情けなくか細い声が、屋根の上から聞こえてくる。一応、元気そうだ。
だが、引き上げるために力をかけて、ほかの場所まで穴をあけてしまったら話にならない。
「……むしろ降りた方がいい。待ってろ、今、
「か、監督、足がつかないのって、ほ、ほんとに怖いんですよぉ……!」
「大の大人が泣き言を言うな。
「なんですかぁ、『ヒノモト』印って……」
「それが俺の名だ!」
昼の休憩になり、俺は赤ん坊の部屋を訪れた。
中では、子守女中の女性が一人、赤ん坊を抱っこしていた。
リノが女性の元に駆け寄って、自分も抱っこして見たい、とせがむ。
リノは手を取って抱っこの仕方を教えてもらい、そして嬉しそうに胸に抱いた赤ん坊を俺に見せに来た。
「リノもこうやって見るとお姉ちゃんだな」
「えへへ、夏には、ボクもお姉ちゃんになるんでしょ?」
とっても楽しみなの、と笑うリノに、お姉さんにお礼を言って赤ちゃんをお返ししてきなさい、と頭を撫でると、彼女は嬉しそうに、またそろりそろりと歩いて女性の元に戻って行った。
「お疲れさまです、ええと……」
名を呼ぼうとして、そういえば名を聞いていなかったことに今さら思い至る。
「ヴェストキーファと申します。ヴェスとお呼びいただければ」
眼鏡の奥で微笑む彼女は、赤ん坊の目を覗き込むようにして微笑み、抱きしめ、何か一言二言話しかけて、そしてベッドに戻すと、また別の赤ん坊を抱き上げる。
リノはヴェスさんの腕の中の赤ん坊を、その抱っこの様子を真似するように、抱き真似をしながらじっと見つめていた。
ヴェスさんは何かに気が付いたのか、今抱き上げた赤ん坊に笑いかけたあと、ベッドに戻すとこちらにやってきた。リノもその後ろについてやってくる。
「あ、いえ、お構いなく。様子を見に来ただけで――」
言いかけた俺に、「さようでございますか」と笑いかけたあと、扉近くの
……ああ、おむつを取りに来たのか。
てっきり俺への対応をしに来たのだと思い込んでいた俺は、間の抜けた言葉をかけてしまったと、恥ずかしくなる。
手早くおむつを交換しているヴェスさん。実に慣れた手つきに感心する。
リノも、それをふんふんと鼻を鳴らすようにしながら食い入るように見つめている。その仕草がまた、愛らしい。
それにしても、今は孤児院の全員が葬儀に出ているため、彼女が一人で世話せざるを得ないのだろうが、こうしてみると大変だ。
「……ナリクァン夫人に伺ったのですが、よそでなら乳母だって務まるほどだと」
「あら、そうですか? そう言っていただけるのは嬉しいですわ」
そう言って赤ん坊に微笑む彼女は、俺のほうなど見向きもせず、次の赤ん坊を抱き上げる。あれこそプロフェッショナルというものなのかもしれない。
これ以上いても邪魔になるのだろう。リノがまとわりついていても、笑顔で相手をしてもらえるのは大変ありがたいのだが、そのぶん、子守がおろそかになっても問題だ。
俺はリノを呼び寄せると、礼をして、部屋を出ようとした。
――そのときだった。
「そうそう。ムラタさん、でしたか?」
まさか呼ばれるとは思っていなかったので、軽く驚きつつ振り返った。
「な、なんでしょう?」
「子供は……可愛いですよね?」
「は、はあ……」
俺の返事に、リノが振り返って俺を見上げた。
思わず苦笑が漏れる。彼女の頭に手のひらを置くと、リノが両手を伸ばして嬉しそうに俺の手をつかんだ。
「私は、子供を愛おしいと思っています。だから、この仕事をしているのですけれど」
相変わらず俺の方を見ずにものを言う人だ。さすがに感じが悪いように思えてきてしまう。赤ん坊の方をまっすぐ見ていること自体は、好感が持てるのだが。
「赤ちゃんは、自分のことをうまく表現できません。その仕草を、泣く意味を、私たちが汲み取ってあげないと――」
「……そうですね」
「そうやって私たち大人の手を借りて、大きくなって――手がかからなくなったと思ったら、子守の手を離れて、思うままに歩き出して行ってしまう。子守って、やりがいはあるんですけど、すこし、寂しいお仕事でもありますね」
「子供なんてそんなもんじゃないですか? 俺も父や母に感謝はしていますが、子供の頃は親の手出しがうっとおしくて仕方がなかったですし」
俺は、中学の時に逝ってしまった母を、二度と帰れない日本にいるはずの父を思い出す。
「――もう二度と会えないって分かってから、もっと孝行しときゃよかった、とは思うんですが」
リノが、また俺を見上げた。
「……ししょー? なんだか悲しそう?」
大丈夫だよ――微笑んでみせると、くしゃくしゃっと頭を撫でてやった。
リノはくすぐったそうに耳をぱたぱたさせながら、だが嬉しそうに笑う。
すると、ヴェスさんは再び赤ん坊を抱き上げて、こう言った。
「では、ムラタさん。ひとつお伺いするのですが……子供って、なんでしょう?」
「ハァ? ムラタ、ナニ言ってんだ。子供っつったら子供だろうが」
「まあ、そうだよなあ……」
帰り道、リファルに聞いてみたのだが、聞いた俺が馬鹿だった。
彼のあっさりとした返事に、俺はそれ以上、何も言えなくなる。
「だんなさま、だんなさま! ボクって、コドモ? オトナ?」
「……そうだな、まだ今は子供だな……」
リノは少し不満そうに頬を膨らませたが、それ以上は何も言わなかった。
ヴェスさんはあのあと、微笑みながら何も教えてくれなかった。
リファルは当然のものとして、答えにもならないことを返した。
――子供ってなんだ。
成人するまでの人間を子供だとするなら、日本なら十八歳未満が子供ということになるんだろう。
この世界では十五で成人だから、十五歳未満が子供ということになる。
つまり子供とは、社会が「今日から大人」と認められるその日までの、「社会的地位」のこと、その地位に属する存在を子供と呼ぶのか?
いや、それは制度的な問題なだけで、じゃあ肉体的に未成熟な間は子供?
肉体的に未成熟って何を以って判断する?
背が伸びきったら大人?
じゃあ、女子なんて中三くらいでもう背が伸びなくなる子もいるぞ?
そしたらそれで大人と見なすのか?
動物――陸上の哺乳類や鳥類は一年でだいたい子供が産めるようになるけど、それを以って大人とするなら、第二次性徴が始まったらもう大人?
子供を作れるようになったら大人?
……じゃあ、リノは大人?
何か違う気がする。
特に最後。リノが大人って、それはない。
……ヴェスさんは、なぜあんなことを俺に問うたんだろう。
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