第431話:雪休み
「……寒いね」
リノが、空を見上げて言った。帰り道の、家と家の隙間から切り取られたようにのぞく灰色の空からは、大粒の綿埃みたいなものが大量に舞い降りてくる。
「そうだな。それより、この街でも雪は降るんだな」
「たまにね」
普段なら、リノは炊き出しの後片付けを終えたあと、リトリィたちと一緒に先に家に帰って、夕食の準備をしてくれる。だが今日は、監督判断で仕事が昼過ぎに中止となった。そのため、今日は珍しく、家族みんなでそろって帰宅だ。
「リノ! 見ろよ、こんなにでっかい雪! ああ、融けちまう!」
ニューが大はしゃぎで雪をつかまえるのを見て、リノも同じように手を伸ばし、通りをぐるぐる駆け回り始めた。
「おい、馬車が通る。走り回るんじゃない」
苦笑しながら呼び止めるが、ニューとリノは一時的に動きを止めるだけで、また通りを駆け回り始める。
「ふふ、子供って、元気ですね」
リトリィが、そっと身を寄せながら微笑んだ。
「そうだな。……俺も、覚えがあるよ」
「だんなさまも、ああやって雪を追いかけていたんですか?」
「雪を追いかけるというより、積もった雪で遊んだものだな」
マイセルが、それを聞いて俺を見上げた。
「ムラタさんは、どんな風に遊んだんですか?」
「そうだな、やっぱり雪合戦……かな」
「あ、それ、わたしもやったことがあります!」
滅多に積もらないですから、ほとんどやったことはないんですけど――マイセルはそう言って笑った。
「もし雪が積もったら、みんなで雪合戦をしたいです! ムラタさん、夕方までに積もるでしょうか!?」
「……そうだな。夕方までというのは厳しいと思うが、積もったら――明日の朝には、できるかな?」
――今日は朝から寒さが厳しかったが、昼前から降り始めた雪が本降りになったおかげで、今日の作業内容は昼過ぎには中止となった。
「……今日はもうダメだ。この雪は止まねえ。みんな、メシを食ったヤツから今日の賃金をもらって帰れ!」
クオーク親方の鶴の一声で解散である。
もしこのまま雪が積もり、そして寒い日が続くようなら、作業は何日か、中断するかもしれない。
「なあおっさん。なんで今日は、仕事が終わりなんだ?」
「雪が止まないからだ」
「これくらい、どってことないじゃん。オレ、雪好きだぜ?」
ニューとリノが、大粒の雪をつかまえるようにして遊んでいるのを見ながら、ヒッグスが不思議そうに言う。
「俺たちが、という問題じゃない。モルタルの問題だろう」
「モルタルの問題?」
そう。
クオーク親方は、雪を問題視して今日の仕事の中止を宣言した。
「つまり、寒すぎるとモルタルの硬化に悪影響があるということを、クオークの親方は知ってるってことだ。今日はもう、仕事を進めてもよくないことになるって判断したんだな」
「寒いとモルタルがダメになるのか? 寒くたって、そのうち乾けばいいんだろ?」
首をかしげるヒッグスだが、こういった知識は、建築に身を置くなら重要だ。教えてやるのが、先人の務めというものだろう。
「そうだな……。ヒッグス、モルタルの材料は砂とセメントと、あと何だ?」
「水に決まってるじゃん。おっさん、モルタルを練るの、オレの仕事だぜ?」
「そうだ。水だ。水は寒いとどうなる?」
「……凍る?」
「その通り。モルタルだって、寒いと凍るんだよ」
これは、日本でも法律で定められているくらい重要なことだ。建築基準法施行令 第七十五条には、コンクリートの
『コンクリート打込み中及び打込み後五日間は、コンクリートの温度が二度を下らないようにし、かつ、乾燥、震動等によつてコンクリートの凝結及び硬化が妨げられないように養生しなければならない』
摂氏二度以上をキープする。日本では、これが法律で定められているのだ。
また勘違いされがちだが、コンクリートは糊のように「乾いて固まる」のではない。混ぜられた水分とモルタルの化学反応(「
コンクリートは気温が高いと早く固まるが、それは「乾いた」のではなく、「化学反応が早く進んだ」ということだ。
「……え? あれ、ただの泥じゃなかったのか?」
「違うぞ。なんなら、水中でだって固まるからな」
「ウソだ、水の中なんて溶けちまうじゃねえか!」
「そのうち機会があれば、実験してみせてやるよ」
実際、橋脚などの工事では、工夫は必要だが水中でコンクリートの打設が行われている。コンクリートの硬化に必要なのは水分を吹き飛ばす風ではなく、適切な水分と温度と時間なのだ。実際、夏場のように水分が蒸発しやすい環境では、むしろ水を撒くことすら求められるのだから。
だが、いくら水分があっても凍ってしまっては意味がない。氷点下になって水分が凍ってしまうと、水和反応が進まなくなり、固まらず砂のままぼろぼろになってしまうのだ。
それを防ぐために、寒い地方の工事ではコンクリートを型に流し込んだあとで保温のためのシートをかぶせたり、必要ならヒーターで温めたりする必要があるくらいだ。
砂とセメントを混ぜたモルタルに、「
もちろん、構造材として用いるコンクリートと糊として用いるモルタルでは話は違ってくるだろうが、クオーク親方は仕事の品質を落としたくなかったんだろう。職人魂が感じられる。
それにしても、この街で暮らし始めて一年になるが、雪は初めて見た。山の鍛冶師の家では、あの半地下室の中にまで雪が降り込んで、実に寒い思いをしていたものだが。
「……あっ! おっさん、オレ、ニューを見てくる!」
雪に夢中になりすぎて転んだニューのところに、ヒッグスが駆け寄る。だがニューはけろりとして、また雪を追いかけ始めた。
ヒッグスが何か言っているが、ニューは聞く耳を持たずに雪を追い続けている。うん、子供ってのはあれくらいがちょうどいいと思う。
リノは雪を追うのに飽きたようで、息を弾ませながらこちらに駆け戻ってきた。飛びついてきた彼女の頭を撫でてやると、嬉しそうに顔をこすりつけてくる。
彼女の、猫のような三角の耳がぴこぴこと跳ねて、くすぐったそうにはしていたが、けれど抵抗するようなそぶりも見せない。
しっぽを振りながら俺を見上げるので、いつものように抱っこをしてやると、実に嬉しそうに顔を擦り付けてきた。
「えへへ、だんなさま、あったかい! ねえねえだんなさま、ボクはあったかい?」
「……あったかいよ?」
それもまた嬉しかったのか、リノはぎゅっとしがみついてきた。
「ボク、今夜はだんなさまといっしょに寝たいな! だって今日の夜、ぜったい寒いだろ?」
無邪気なリノの言葉に、俺は苦笑いをした。
「……そうだな、今夜は冷えそうだからな」
「ボク、だんなさまをあっためたげるからさ! だから、ぎゅーってして?」
「はは、そうだな、だったら――」
お願いしようかな、そう冗談で返そうとして、背筋が凍った。
「あなた?」
「ムラタさん?」
両脇から、ドライアイスの如く冷え切った言葉が投げかけられたからだ。
二人から、計ったかのように同時に。
「……そ、そんなときは、今まではどうしてたんだ?
必死に会話の方向転換を図る!
妻たち二人の絶対的な氷の刃の如き視線を浴びながら!
「ボクが今までどうしてたかってこと?」
リノは、不思議そうに首を傾げ、そして、笑った。
「
――そうだ。日々食べるものにも事欠くありさまだった子供たちが、
思わず、彼女を抱き上げる腕に力を込める。
「……だんなさま、ボク、だいじょうぶだよ?」
リノが、微笑んで、頬をすりつけてきた。
「ボク、だんなさまに拾ってもらえたから。だんなさまがやさしい人で、ボク、いま、すごく幸せだよ?」
窓から見えるのは、一面の雪景色。
近所の家々の屋根を見た感じ、四、五十センチメートルは積もっただろうか。明日の作業は、おそらく休みだ。
子供たちが暖炉の前で眠るころ、雪はようやく止んだ。
雲間から降り注ぐ青白い月の光が、カーテンのようだ。積もった雪が光を反射するからだろうか、いつもの夜よりずっと明るく感じられる。
リトリィの金色の髪が、毛並みが、明かり取りの窓から差し込む青白い月明かりに照らされ、銀色に輝いている。体毛がほとんどなく肌の露出している胸も、雪のように白く艶やかで、ほのかな光をまとっているようにすら見える。
一糸まとわぬその姿は幻想的な美しさだが、その隣に並ぶマイセルと共に前にしていると、今はちょっと、そんな気分には浸れない。
なぜなら――
「それで、だんなさま?」
「ハイ、リトリィさん!」
「リノちゃんのことですけど」
「ハイ、マイセルちゃん!」
「いつ、あの子をお嫁さんに迎えるんですか?」
ずいっ。
ふたりの距離が近づく。
リトリィの透明な青紫の瞳とマイセルの褐色の瞳が、じっと俺の目を見つめる。
もとより逃げるつもりなど無いが、しかしこの圧迫感。
「そ、それは、当方といたしましても、先の読めぬ案件でございまして……!」
「せめて、私たちのどちらか……できればお姉さまに赤ちゃんができるまでは、待てませんか?」
「そ、その案件につきましても、ご存じの通り日夜、誠心誠意取り組んでいる最中でございまして……ッ!」
ずずいっ。
たわわに実る果実が重たげに揺れ、控えめな丘の尖端がつんと突き出される。
それに反応してしまう自分がまた、情けない。
するとリトリィが「
「今夜は寒いですけど、暖炉には多めに、とっても太い
「ふふ、だんなさまを温めるのは、わたしたちのおしごとですから、ね?」
……分かってるよ。晩飯の、俺の前にだけ大量に積み上げられた
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