第496話:己の信じる愛を信じる
「ところで、この家にやってきた三十五人以上の赤ん坊のうち、二十人ほどは、どうなったのですか?」
ダムハイト院長の目が一瞬、大きく見開かれる。
「――おい‼」
リファルも、弾かれたように俺の方を見た。
俺はリファルのほうに目を滑らせる。黙っていろと。
「……いやはや、なんとも……。これは、口が滑ってしまいましたな……」
ダムハイト院長は、縁のカップをテーブルに戻した。
手が震えている。
「……おい、ムラタ。赤ん坊の数が三十五人なんて、どっからでてきた?」
「三十五人以上、だ。院長先生自身が言ってただろうが。その程度の暗算なら簡単だろう?」
「暗算ってお前……」
目を白黒させるリファル。いやお前大工だろそれくらい分かれよ寸法くらい計ったりするだろ!
「寸法なんて見れば勘で分かるだろ、いちいち数を数えたりなんて……」
直感で生きている生粋の職人のことはもう、どうでもいいとして、ダムハイト院長は、空になったカップの底をじっと見つめていた。
肩が震えている。
俺は腰に手を伸ばした。
リトリィが俺だけのために丹念に打ってくれた、多用途ナイフ。
もしも――もしものときは、これを使う――そのつもりで。
「……実に、勘のよいことですな」
「ただの足し引きですよ。ずっと気になっていました。たくさんの子供たちが捨てられ、そして引き取っている――そのはずなのに、子供の数はそれほど多くない。むしろどうして気づかれないと思ったんです?」
――答えは簡単だ。誰も、孤児院のことなど
『……これだから、一番通り街は好きじゃねえんだよな』
マレットさんの言葉が思い出される。
『心の持ち方が、城内街の連中のそれに近いんだよな。門外街のなかでも一番古くて歴史あるからってよ』
門外街の中でも、一番長い歴史をもつ一番通り街。
他の門外街よりも排他的な傾向が強いとされる街。
「つまり、この家の子供たちは、この街――この一番通り街の住人たちから十分に関心を持たれることがなかった。ただの子供の捨て場所でしかなかった。だから、子供たちが次々に死ぬようなことがあっても、誰も気にも留めなかった……」
門外街の中でも特に歴史ある街だからこそ、他の門外街よりも城内街に近い立ち位置。
城内街の人間ほどの地位はない、だが門外街でも特に歴史ある区画――それが、変に歪んで現れる街。
――そんなエリート意識のようなものが透けて見える、高慢ちきの多い街なのだと、マレットさんは以前、吐き捨てるように言った。
その意識が、子供を捨てる場所――孤児院に対しての意識に繋がっているのだとしたら。
「……違いますか? あなた方が、どれほど砂をかむ思いで子供たちを守ろうとしても、この街の住人の多くは――」
「……もう、お帰り頂けますか?」
ダムハイト院長が、指で顔を覆う。
まるで仮面を引き剥がそうとするように爪を立てて。
「……ここは、厳格な愛を説く、私たちの
「ダムハイトさん、俺は――」
院長の丸眼鏡の奥の目はこれ以上ないほどに見開かれ、食いしばった歯からはぎしぎしと歯のきしむ音が響く。
院長の頬に、握りしめられてゆくその爪の跡に沿って、赤い筋が幾筋も浮かぶ。
「……お帰り頂けますか? 安い同情などいらぬのです」
院長は、カップの中を凝視したまま、自らの頬をえぐり続ける。
「ダムハイト院長! 聞いてくれ、俺の話を――!」
「ここは我らが神の家。芸術と職人の守護者を詐称し、神どころかヒトにすら股を開き血を混ぜて回る、退廃的な
「てめぇッ‼」
リファルが即座につかみかかろうとするのを、俺は体当たりで制する。二人してカビ臭い床に転がると、俺はリファルを踏みつけたまま立ち上がった。
「おい! 何しやがるムラタ! てめぇ、我らが女神を侮辱されてそんな――」
「そんな安い挑発は無駄です。俺はちょっとした訳ありでしてね、神様って奴を侮辱されたところで、気にもならない不心得者なんですよ」
「なんだとっ! ムラタてめぇ、やっぱり
騒ぐリファルの股間を蹴っ飛ばす。
さすが樫の木による補強でつま先を保護する俺特製の安全靴。即座に悶絶してくれた。
……あとで一杯奢って、許してもらおう。
「俺は別段、あなたがたを糾弾しようとか、そんなことは考えていない。ましてあなたがたに
「ほお……? ではなにか? 我が神への私の信仰を試すとでも?
「俺はもっと俗物です。信仰がどうとかなんて、正直、どうでもいいんです。俺は、俺には――」
とっさに浮かぶ、リトリィの柔らかな、マイセルの朗らかな、リノの天真爛漫な、そしてフェルミのはにかむような、それぞれの笑顔が脳裏に浮かぶ。
「――いや、俺にも子供が生まれるんだ。おそらく、この夏に、二人。だから――」
だから、ほっとけない。
安い同情?
確かにそうかもしれない。
けれど、べつに善人ぶりたいわけでも、恩を着せて信仰を分捕ろうと考えているわけでもない。
俺はただ、ほっとけないんだ。
親になる――二人の赤ん坊の、父親になる者として。
「子供の、父親になる?」
院長の顔が歪んだ。
嘲弄するかのように、口の端が大きくねじくれる。
「馬鹿なことを……! 男など、子捨てのそもそもの元凶! まして神に帰依せぬ男など、産ませて捨てる、原罪そのものではないか!」
「俺はそんなことはしない! 彼女たちの喜びが俺の喜びだ」
「知ったような口を利くものだ! 子育てがいかに大変か、知らぬからそのような口が叩けるのだろう! どうせ濡れた
まさにあざ笑うように、院長が叫ぶ。
赤ん坊の部屋にこもる臭気にも耐えられなかった、父親失格の男――そう言いたいのだろうか。
だが違う。俺があの部屋を連れ出されたのは、臭気に耐えられなかったからじゃない。怒りに耐えられなかった、それをリファルが察して連れ出してくれたのだ。
「子育ての苦労? ――ああ、知らないさ! 母は十三のときに死んだし、弟も妹もいなかったから下の子の面倒をみるなんて経験もなかった! そもそも女にモテたこともなかったし、だから妻に恵まれるってこと自体、この歳になるまで想像もしていなかったさ!」
「ふん、
「だがそれがどうした!」
俺は、テーブルを殴りつけるようにして身を乗り出した。
「俺はリトリィと出会った! あの金の毛並みと澄んだ青紫の瞳が美しい、この世で最も気高い女性にだ! 空っぽだった俺に、価値を吹き込んでくれた女神のような女性だ! 彼女のためなら俺はなんだってする、なんだってできる!」
「女神――女神だと⁉ 毛並み――
俺は、院長の胸倉をつかみ上げながら叫んだ。
「か、神に仕えるこの身に狼藉を――⁉」
「あんたが神の愛とやらを信じるように、俺はリトリィの愛を信じる! 彼女は俺の全てだ、その彼女を
「おぞましい……! けだものの愛だと? この獣姦趣味――けだものに肉欲を吐き出してきた外道めが……!」
「言いやがったな! 上っ面の慈愛を説いてきたその裏で、赤ん坊を死に追いやってきた死神坊主が!」
「言ってはならぬ――言ってはならぬことを!」
俺の手を振りほどくようにしたダムハイトが、逆に俺の首を締めあげる……!
「我らが……我らがこれまで、どれほどに涙を振り絞ってきたか知りもせずに!」
「だっ……たら……! 赤ん坊が死ぬ原因……少しでも追究しようと……したことがあるのか……!」
「原因? ……原因なぞ! 神がこの試練多き世から、愛をもって子供たちをお救いくださっているのだ!」
「……神の、愛――なんて寝言、目ぇ開けたまま言える、なら……な! あんた、が、泣く、必要が、……ないだろっ! そんなもん、愛なんかじゃ……ないっ!」
渾身の一撃を、奴の左ほおにお見舞いする。
たまらずよろけた奴の襟元を、俺はもう一度つかみ上げた。
「愚かな……! 愛とは、神が我々に垂れるべき――」
「俺は!」
咳き込みながら、俺は叫んだ。
「俺は、自分を愛してくれているひとの愛を、その想いを信じている! だから――」
『お前さんを信じてついてきてくれるひとを、その想いを、信じなさい』
かつて、瀧井さんが――日中戦争のさなか、まさにその戦場からこの世界に落ちてきた、大日本帝国の軍人として本物の殺し合いの中で生き延びてきた瀧井さんが、俺に語った言葉。
リトリィの愛を信じきれずにいた、
マイセルの想いを俺に向けられたものだと信じられなかった、
俺自身すら信じられずにいた、
――そんなひねくれた俺に対して、瀧井さんが語った言葉。
『誰かに
俺はたくさんの人の愛に支えられて、この世界で生きてこられた。
こんなこと、日本では到底自覚してこれなかった。
……いや、本当は、日本でも、きっとたくさんの人の愛の中で生きてきたのに。
日本を失ってから、やっと気づいたんだ。
俺は、父に、母に、たくさんの人に、愛されていたはずなのだと。
だから、せめて――
「――せめて、俺を愛してくれるリトリィに、俺との子を抱かせてやりたい! 俺を信じて愛してくれる彼女への、それが俺の恩返しで、俺が捧げる愛なんだ! 俺はそうする使命がある――そうできるのが、俺なんだ!」
神様の愛なんて凡人の俺には分からないが、彼女の愛は俺を今でも包み込んでくれている。その揺るぎなき自覚を持つことができている。
それは、俺が彼女に愛されているから。
「あんたの信じる神の愛ってやつを俺がどうこうしようという気はない、あんたはそれを信じていればいいさ! 俺は、俺を愛してくれるリトリィの、その愛を信じているだけだ! それが俺の選んだ生き方だ!」
「だから、それが愚かだと――」
愚かだって?
俺を信じて愛をくれた、そのひとを信じる――それを、愚かだと言うのか?
それが、ダムハイト院長の信じる教義だと――子供たちを養い育てる孤児院のありかただとでもいうのか⁉
「人の信じる生き方を、愛を、貶めることでしか自分とこの神の愛を説けないようなひとに、愛を説いてもらおうとは思わない!」
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