第646話:らいふ・うぃず・べびー!
「いろいろと大変なんだな、お産って」
マイセルの指導の下で、娘のおむつを替えながら、俺はそう言ってしまった。
言ってしまってから、俺は自分の言葉がひどく他人事のように聞こえて、慌てて口を押えた。マイセルが聞いたら、きっと気を悪くする。
だが、口を押えてから、それが無駄だと気づいた。俺の首には翻訳首輪がある。俺が発した言葉は、周囲五メートル程度の人に、「声が届けば」理解されてしまうのだ。口を押えても無駄だった。
しかし、マイセルは怒るどころか、誇らしげに胸を張ってみせた。
「えへへ、そうなんですよ? 大変だったんです! ムラタさんも、すこしは女の子の大変さ、分かってくれましたか?」
「痛みを共有できないから完全には分かってないんだろうけれど、少なくとも大変さは分かった……つもりだ」
娘──エイリオのおむつの交換が終わったことを見届けてくれたマイセルは、エイリオを藤籠の中に移す。
「ふふ、『シシィ』ちゃん、おとうさまにおむつを替えてもらって、気持ちよかったですねえ」
「……シシィちゃん?」
「だってムラタさん、この子にもわたしと同じ、
そう言って、もぞもぞ動く娘のほっぺをつついている。
──
……いや、むしろ可愛いじゃないか、シシィちゃん。俺もそう呼ぶことにしよう。
「だんなさまも、そう呼ぶのですか? でしたら、わたしもシシィちゃんと呼んでもよろしいですか?」
リトリィが微笑む。もちろんいいに決まっている。みんなで、シシィちゃんと呼ぶことにしようじゃないか。
「これが親バカってやつなんスかね?」
フェルミが苦笑したが、フェルミだってシシィって呼んでいいんだぞ?
俺は、シシィが俺が触れさせた人差し指をしっかり握りしめるのを楽しみながら、そう答える。
たしか、把握反射っていうんだ、これ。生まれてから数カ月で消えてしまう反応。生まれたばかりで本当に小さい手なのに、意外な握力に驚く。赤ちゃんの、生きようとする本能の反射。
そうだ。こんなに小さいけれど、ちゃんと生きようとしているのだ。
俺も一人の親として、彼女を守っていかなければならないんだ。
そして、戦いが始まった。
そう、大量の洗濯物の発生だ。
一週間もすれば、ある程度は規則的な行動パターンが生まれてきたのが分かった。
あいかわらずもぞもぞすることくらいしかできないが、目を開けて、こちらを見るようになった。
マイセルそっくりの栗色の瞳は、吸い込まれそうに深く澄んでいて、これが赤ん坊の目なのか、と感動した。
親となる大人が四人もいるためだろうか。きょろきょろとせわしない。だがそれがまた、可愛い。
でもって、生まれて二週間もすれば、ずいぶんと様子が変わってくる。泣く声も初日の弱々しい声に比べて、だいぶ大きくなってきた。
まだ泣くことしかできない我が子だけど、よく泣いた。おむつが濡れては泣き、腹が減っては泣き、藤籠に寝かせては泣いた。
孤児院『恩寵の家』で見た、あの手ぬぐいでぐるぐる巻きにされた子供たち。今は変わったけれど、あのミノムシのように体を縛られ、赤ん坊の癖に虚ろに天井を見つめ、やけに静かだった赤ん坊たちとは違う。俺が日本で見かけた、俺のイメージ通りの赤ん坊だ。
でも、大人が四人もいれば、誰かしらがシシィを抱き上げ、あやそうとしてくれる。一番上手なのは、赤ん坊の弟であるザンクくんがいるマイセルだ。
とくに母乳を飲んだあとの、あの「背中をトントンと叩いてげっぷさせる」のが、抜群に上手い。あれをやらないと、寝転がったまま壮大に吐くんだよ!
一度、どうにもげっぷさせるのが上手くいかなくて、「出ないんならいいんだろう」なんて甘いことを考えて藤籠に横にしたんだけど、しばらくしたら「ぼえっ」と、すごい量のおっぱいを吐いたんだ。あれは驚いた。
『ま、マイセル! どうしよう、シシィが吐いた!』
何かの病気かとうろたえる俺に、マイセルは苦笑いしながら『ムラタさん、げっぷ、十分にさせなかったでしょう』とあっさり原因を看破された。
じゃあ、マイセルはいつもうまくいくかっていうと、そうでもない。
今洗ってるのは、マイセルのエプロン。
げっぷかと思いきや、リバース・アシッドミックスド☆ミルク!
それをにこにこと受け止めて、赤ん坊の口周りを丁寧にふき、何事もなかったかのように処理していくマイセル。すっぱい匂いのエプロンを渡しながら、あくまでもにこにこ顔でシシィをあやす姿に、俺は崇拝の念すら覚えたよ。
そして、おむつの中身。
いやもう、ヘドロが「ヘドロ」っていう名前の理由、嫌っていうほど実感したね。
おそらく「屁のように臭い泥」って意味なんじゃないかって思うけど、まあ、うん……分かってくれるよな?
ちなみにうんちの色はなんつーか、黄土色みたいな感じがベースだな。ああ、もうこれ以上は言わない。
それから、高分子吸収体の高機能おむつもないから、一回おしっこしたらすぐびしょぬれになるし、布だから使い捨てるわけにもいかず、たちまち庭はおむつ干し場になったよ。
多分、日本でも四、五十年まえくらいまでは、それが当たり前の光景だったんだろう。
「ふふ、わたしも赤ちゃんを産んだら、いま以上にお洗濯でてんてこまいになるのでしょうね」
リトリィが、しっぽをぶんぶん振りながらおむつを干している。
何が楽しいのか、リトリィはシシィのおむつを、鼻歌すら歌いながら洗っている。おしっこならともかく、うんちのついたおむつを、だ。
「だって、産んだのはマイセルちゃんですけど、あなたの子ですよ? 目元があなたによく似ていますし、全体はマイセルちゃんに似ていますし。大きくなったときが、とってもたのしみです」
目元が似ている?
栗色の吸い込まれそうな瞳を見せてくれるようになっても、泣くときはやっぱり遮光器土偶みたいな顔になる、アレが?
思わず聞き返したくなったが、ぐっとこらえる。リトリィが楽しみだと言ってくれているのだ、きっと美人になる。……に、違いない。……気がする。
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