第647話:成長するということは

 赤ん坊と生活するようになって、一番の戦いと言ったら、これだ。


「おああぁ、ほぁぁああああぁぁ……!」


 現在、深夜およそ二時に相当する時間。

 即座に目を開け、すぐさま体を起こす。

 娘を抱き上げ、まずはおむつチェック。

 濡れていなければ、マイセルの胸元へ。


 マイセルって、ものすごくよく寝るんだよ!

 一度寝たら、どれだけ隣でベッドを揺らしていようが、リトリィが全力で喘いでいようが、全く起きる気配を見せないくらいにすやすやと!


 そんなマイセルの胸元を探って乳房を取り出し、娘の口元に持って行ってやると、真っ暗でも平気でしゃぶりついて乳を飲み始める。この世に生まれてきた我が子も、もうすぐひと月。小さな小さな我が子だけど、このひと月足らずの間に、ずいぶん重くなった。


 なにより、マイセルの母乳をたっぷり飲んでは寝ているからだろうか。しわくちゃの猿みたいだった顔がぷっくりふくれてきて、体重も増えた。すでに関取のような貫禄だ。泣き声も大きくなったし、こちらの動きを目で追いかける表情も愛らしい。

 赤ん坊の成長の早さには驚かされる。小さいながらもたくましいよ、本当に!


 だが、それよりもだ。

 マイセル、全然起きない! そりゃもう、清々しいくらいに起きる気配がない! マイセルって結構、敏感な胸をしていただろ? 赤ん坊に吸われて、何にも感じないのか⁉


 いや、そりゃね?

 赤ん坊におっぱいをあげるようになった最初の頃は、これでも大変だったんだよ。かなり強い力で、しかも遠慮なく吸われるらしくて、痛くて大変だったらしいんだ。

 涙目になって、『もう、おっぱいあげるの、辛いです……!』と言われた時はどうしようかと思ったよ。


 ゴーティアス婦人におっぱいマッサージを受けて、多分ものすごく痛かったんだろうけれど、それでおっぱいがよく出るようになって、みんなで安心し、喜んだときもあったよ。「ちょっと、痛いです」なんて苦笑いしながら、それでもシシィの頭をなでながら乳を与える姿に、母となったマイセルの美しさと、耐える強さを感じたよ。


 だが、今ではおっぱいを吸わせながら平気で洗濯物をたたんでいたりするから、本当に女性というのはたくましい。母乳が出ないと泣いていた出産当初が嘘みたいだ。

 夢見る少女から恋する女性に、愛する妻に、母親に、そしてカーチャンになれ果てるといった具合に、自分の妻がクラスチェンジしていくさまを見せつけられている思いだ。


「なんですか、ムラタさん。おっぱい、欲しいんですか?」


 微笑みながら見上げるマイセルに、俺は慌てて首を振った。俺は天使ちゃんシシィを見てたんだ、その、出産前よりたゆんたゆんに豊かになった、白くて柔らかそうなおっぱいじゃない。


「エイリオが『天使ちゃんシシィ』なら、わたしだって『天使シス』ですよ? うふふ、今なら天使のおっぱいが飲み放題ですよ?」


 その蠱惑こわく的な上目遣いに、生唾を飲み込む。

 あ、あれ、足が勝手に……


「ご主人、それ、赤ちゃんの主食っスよ。ご自分の子供のメシを分捕る気っスか」


 冷めきったジト目のフェルミに、俺は必死で首を振りまくった。ところがフェルミは、パンパンのお腹をさすりながら、俺のほうなど見向きもしないで続けた。


「昨日だって、もういつ生まれるかも分からないほど大きくなったあなたがいるのに、このご主人ときたら、お母さんの中に入りたそうにしてたんですよ? ホント、あなたのお父さまは、こらえしょうのないご主人ですねー?」


 だから違うって!

 決して魅惑のおっぱいを吸ってみたいとかそーいうやましい気持ちではなく!

 昨夜のことだって、リファルが以前、『まだ生まれない? だったら「お迎え棒」ってヤツを試してみるか?』って言ってたから、どうかなーって思ってみただけで!


「じゃあ、その鼻の下が伸びた顔はなんなんスか?」


 だからなんで我が愛しのフェルミちゃんは、そーいうことにめざとく気づくんですかね! 「だ、誰が『愛しのフェルミちゃん』っスか!」とか、目を丸くして頬を赤く染める君にこれ以上突っ込めないシャイな俺の豆腐メンタルを、もう少し労わってくれてもいいと思うんですがっ!




 シシィが生まれて何が変わったって、生活の諸々もろもろが変わったのはもちろんなんだけど、シシィ誕生の日と同時に設置して運用を開始した太陽熱温水器のほうも、実に快調だった。

 最初の数日こそ、パイプの継ぎ目から水漏れしたりしたけれど、すぐに対処できたから、今はもう問題ない。盛大に黄土色に染まった赤ちゃんのお尻を水で洗うのは可哀想で、だからいつでもお湯が使える太陽熱温水器は、天気力エネルギーさまさまだ。

 ムクロジの実を使ったせっけん液も、お湯を使った方が効果が高まる気もする。俺はなんて素晴らしいものを作ってしまったんだ! とばかりに自画自賛だ。


 ……とはいえ、習慣となったモーニングルーチンでは、相変わらずの水浴びだ。なにせ夜明け一番の活動なのだから、水が温まる余地がない。冷たい井戸水を、直接その身に浴びる。


「だんなさま! ボクのしっぽ、可愛い?」

「もちろんだよ」

「耳は? ねえ、耳は?」

「当然可愛いさ」


 俺にぶっかけられながら、今日もリノは、やっぱり朝日の中で、白い肌に水滴をまとわりつかせて跳ね回っている。


 彼女が耳やしっぽにこだわるわけは分かる。

 耳もしっぽも、獣人女性にとって重要な「魅力のアピールポイント」だ。特にしっぽは、成人した獣人女性ならば筒状の「かざり」で隠し、しっぽの先端だけ見せる、といったことを求められるくらいに。


 成人しても尻尾を露わにする女性というのは、新婚で、「すでに自分には仕える男性がいる」ということのアピールであり、リトリィがまさにそれだ。


 それなのに、リノは門外街防衛戦のさなか、敵に捕まり、ひどい傷を負わされた。ちぎれかけるほどの傷を負った右耳は、上半分ほどが折れて垂れてしまうようになり、しっぽもまっすぐしなやかには伸びず、途中でわずかに曲がっている。


 リノの華奢な体そのものには大して傷をつけていなかったから、侯爵軍の連中は、獣人の美的感覚を理解したうえで、リノの「獣人女性としての魅力」を奪う意思を明確に持って、彼女を傷つけたことになる。フェルミがされたことと一緒だ。

 つまりリノは、獣人基準では女性的魅力を傷つけられた、「醜い女の子」なのだ。


 そんな馬鹿な話があってたまるものか! 彼女は愛らしく、美しい!

 そして、リノは信じてくれているのだ。たとえ街の誰もが口をそろえて「醜い」と言ったとしても、俺は必ず「可愛い」「美しい」と言ってくれると。彼女は、俺だけにそう言ってもらえれば、満足できるのだろう。


 ぷるん、と可愛らしいおしりをふるわせてぴこぴことしっぽを揺らすリノに、だから俺は、思いっきりの笑顔で答えてやる。


「リノ、お前は可愛い。お前の耳もしっぽも、綺麗で可愛いよ」


 歓声を上げて飛びついてくるリノの頭を、くしゃくしゃっと撫でてやる。

 くすぐったそうに笑ってこちらを見上げる彼女が、なんとも愛らしい。


 この世界の風習では、女性の髪を撫でることは、配偶者、もしくは将来を誓い合った恋人だけに許される特権だ。親ですら許されないのに、リノは俺の手を受け入れている。それはつまり、リノが俺という男を、なのだと受け入れているということだ。それもまた、愛おしい。


「あっ……」


 リノが何かに気づいて視線を落とし、そしてまた俺を見上げた。


「……えへへ、だんなさま。ボク、だんなさまのこと、大好きだよ?」

「……ああ、俺もだ。リノ」

「うん……感じるよ、だんなさまの『大好き』の気持ち」


 彼女はそう言ってそっと身を離すと、俺を見上げて微笑み、おずおずと手を伸ばした。


「だんなさま、熱くなってる……」

「リノの手も温かいよ」

「……ボク、いけない子……だよ、ね?」

「いや、いい子だ」

「……ほんとに?」

「本当だ」


 リノが、はにかんで微笑む。


「……だんなさま、ボクを可愛いって……きれいって言ってくれるだんなさま……。ボク、だんなさまのこと、大好きだよ」


 俺と同じように、五十年前にこの世界に落ちてきた日本人である瀧井さん。彼は、若い頃、孤児になってしまった猫属人カーツェリングの娘であるペリシャさんの後見人を自認し、彼女を一人前の立派な女性に育てて嫁に出すつもりだったという。しかし、そのペリシャさんから熱烈な愛のアプローチを受けて、結局は陥落してしまったのだとか。


 ペリシャさんは十二歳で想いを遂げ、瀧井さんと添い遂げることになったそうだが、俺の方も、リノとの関係は、もう後戻りができなくなった。リノの髪をなで、リノと同じものを食べて──


 新たな命が生まれるということは、その重ねた時のぶんだけ、誰かもまた、成長しているということ。


 浴室という別棟べつむねができたことで、増えた物陰──雨でも水を汲むときに濡れないようにとこしらえた、井戸を覆う仮小屋で。

 リノが「リトリィお姉ちゃんに赤ちゃんができてから」と、ずっと憧れつつも遠慮してきた「大人のキス」。しかし俺たちは、もはやそれを飛び越えてしまっていた。


 リノが、まだ慣れぬ様子でこくんと喉を鳴らしたあと、唇を離す。

 名残惜しそうに伸ばした彼女の舌先から、白い糸がとろりと垂れ下がる。

 その上気した頬が、潤んだ上目遣いの瞳が、はにかむ顔が、今は何より愛おしい。


 彼女が望んだことだ。

 だが、それを言い訳になどすまい。

 俺は彼女の、右の折れた三角の耳を愛でるようになでながら、改めて心に誓う。


 彼女も、必ず幸せにするのだと。




「ボクもリトリィお姉ちゃんみたいに髪、長くしたら、だんなさま、ボクのこと、もっと好きになってくれる?」


 リノが、肩口まで伸びてきた髪をいじりながら、上目遣いに聞いてきた。

 そういう仕草、どこで覚えてきたのやら。


「ならないならない。リノ、お前は今のお前が一番可愛い。誰かの真似をしようとするな。俺の惚れたリノのままでいてくれ」


 その言葉に、リノがしっぽをピンと立てる。喜んでいるサインだ。実に分かりやすい。こういうところは、まだまだ幼さを感じさせる。


「……でも、だんなさまは長い髪と、ふかふかの毛と長いしっぽと、でっかいおっぱいとおしりが好きなんでしょ?」


 自身の白いふくらみかけの胸をなでながら、リノが口を尖らせた。


「誰がそんなこと言ったんだ? ……予想はつくけどな」

「フェルミ姉ちゃん!」


 ほら、やっぱり。


「フェルミの冗談を間に受けるな。俺は一人ひとり、その違いも含めてみんな好きなんだ。みんな同じ格好をされたって、うれしくもなんともない」


 そう言って水に濡れた髪を撫でると、喉を鳴らすようにして目を細めるリノ。


「ボクは、ボクでいいってこと?」

「ああ。俺は、リノがリノだから好きなんだよ」

「……うん。わかった。ボク、だんなさまのお役に立てるように、がんばるね?」


 彼女の口癖に苦笑する。


「『お役に立つ』なんてこと、考えなくていい。リノはリノらしく、のびのびと大きくなってくれたら、それでいいんだよ」

「ボク、それだけじゃイヤだもん」


 リノがいたずらっぽく笑ってみせた。


「だって、お役に立てば、だんなさまにいっぱい、ほめてもらえるもん。ボク、がんばるよ!」


 いかにもリノらしい返答に、俺は微笑みながら彼女の髪をなでた。

 もはや子供ではない、愛する女性への、親愛の情を込めて。



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