第645話:子供の誕生は一家の主の始まり

「姉ちゃん、大丈夫か?」


 昨日から、お産が済んだというのにお腹をさすりながら、時々マイセルがうめいている。理由が分からず、女の子がお腹を痛めているのならと、とりあえず湯たんぽを持たせて温めているけれど、根本的な解決になっていないようだ。


 ベッドの周りを取り囲むヒッグスとニューとリノが、心配そうに見守る。自分たちの子分ができたとばかりに昨日は大はしゃぎだったチビたちだが、その子分を産んだマイセルの体調不良が、これまた気がかりらしい。


 もう一つ、昨夜はフェルミがマイセルのおっぱいを搾る形で母乳が少し出たんだけど、今朝になったら結構硬くなってて、そしておっぱいもやっぱりほとんど出なくなっていた。昨日みたいに蜘蛛の糸のような筋が出る、というわけでもなく、微妙にじんわりと米のとぎ汁のような汁が垂れてくるような、そんなありさま。


 今回のお産では、ナリクァンさんが「いまこそあなたの発明品を試すときでしょう!」と、まだ量産体制が整っていないはずの大量の消毒用アルコールを持ち込んでくれた。おかげでマイセルの出産に関わる全ての人の手や布類などを、アルコール消毒することができたという。だから、産褥熱を発しているわけではないと信じたい。


 マイセルの乳房も、柔らかく薄い餅のようないつもの感触の奥に、妙に固いしこりのようなものを感じて、これが噂に聞く乳がんか、などと馬鹿なパニックを起こしたりもしてしまった。


「こういう時は産婆さんっスよね」


 というフェルミの提案で、マイセルから赤ん坊を取り上げる指導をしてくれたゴーティアス婦人に、再度、来てもらうことになった。


「やれやれ、あなたも人使いが荒いこと」


 ゴーティアス婦人は、馬車から降りてくると微笑んだ。その手を取りながら、俺は深々と頭を下げて、足労の礼を述べる。続いて降りてきた犬属人ドーグリングのシヴィーさんの手も取り、急がせてしまったことを詫びた。


 彼女たちは、マイセルの産婆としても駆けつけてくれた女性たちだが、以前、彼女たちの住む家のリフォームを担当した、顧客でもある。

 階段を上ることに辛さを覚えるようになったお歳のゴーティアス婦人のために、二階にあった寝室を一階に移し、彼女が強い愛着を持っていた「二階の寝室の壁」を、一階に移植する工事だった。


 それは、ゴーティアス婦人の夫だった人が、新婚当時に落書きした性的な戯れ唄が残る壁だった。彼女はその落書きを、亡き夫の忘れ形見として大切に想い、最期までそのそばにいたいと願っていた。しかし二階の寝室は、移動が大変になってきた。そこで俺が、寝室を壁ごと一階に引っ越す提案をし、何とかやり遂げたのだ。


 それが縁で、俺たちの結婚式のときにはマイセルにレディーとしての振る舞いについてレッスンしてくれたし、マイセルのドレスまで整えてくださった。


 また、その仕事の最中に、それ以前に俺がぶっ潰す手伝いをした奴隷商人の残党に襲われ、生死の境をさまよう事態に陥った。そのとき俺の命を救ってくれたのが、戦争経験者で、後方の看護役として多くの兵士の傷の手当て、場合によっては縫合などの手術までおこなった経験を持つ婦人だった。


 そんな婦人の家に朝一番に駆け込んでみれば、身支度の一時間を経て我が家へ。この世界では特急並みに早い対応に、感謝の念が止まらない。それだけ、マイセルのために無理を押して来てくれたのだ。やはり、持つべきものは縁だろう。


「マイセルちゃんの腹痛が止まらない、ですって?」

「はい。昨日のお産が済んでから、時々お腹をさすっているのは気づいていたんですけれど……」

「やれやれ、そういうことは親御さんに聞いてみるのが一番でしょうに。どうして一足飛びに、私に相談するのかしらねえ」


 言われてみて、実にその通りだと思った。体調不良といえば、日本であれば薬局の薬か医者を思い浮かべるが、この世界の薬も医者も目の玉が飛び出るほど高額のお金を請求される。しかも、外科医ならともかく、内科医は、俺のなかの「日本基準」の医療レベルから判断するに、到底信用に足るものではない。


 だから、フェルミの言う通りに産婆さん、となったわけだが、そもそもマイセルの母親であるクラムさんや、育ての親であるネイジェルさんを呼べば、もしかしたらマイセルの症状について心当たりがあったかもしれないのだ。


 自身の心の余裕のなさに猛烈な恥ずかしさがこみあげてくるが、ここまで来ていただいてしまったものは仕方がない。せっかくだからちゃんと診ていただこう。


「ごめんなさい、ゴーティアスさま。こんな格好で……」


 寝間着のままの姿を恥じらうマイセルに、「いいえ、初めてのお産で大変でしたでしょう? でも、もう大丈夫よ」とゴーティアス婦人が微笑む。


「……ほら、いつまでいるのですか? 今からここは女の園。男は禁止ですよ」


 そして俺は、チビたちと一緒に寝室を追い出された。




 そして、しばらくしてからマイセルの悲鳴が聞こえてきた。

 そりゃもう、とんでもないくらいの。

 何があったのかと階段を駆け上ったら、ドアの前でにこにこしているシヴィーさんが、頑として寝室に入れてくれなかった。


「お乳が出る処方をしていますので、殿方は入室禁止です」


 そう微笑んでいるのが、妙に怖かった。




「じゃあ、もう姉ちゃん大丈夫か?」


 寝室から汗だくで出てきたゴーティアス婦人の「もう心配はいりませんよ」という笑顔と言葉に、ニューの表情がぱっと明るくなる。


「そうだぞニュー、お医者さんは偉いんだぞ!」


 なぜか自分が偉くなったように胸を張るヒッグス。


「お医者さまでなくて、産婆──取り上げ婆ですよ。そんなことより、おちびちゃんたちにもずいぶん心配をかけましたね。これをおあがり」


 そう言って夫人は、可愛らしい形のビスケットのようなものを子供たちに配った。


「わあい! おばあちゃん、ありがとう!」


 リノが大喜びでビスケットを受け取る。彼女の癖──喜ぶとしっぽをぴんと立てる癖のせいで、ワンピースのすそがまくれ上がり、白くて滑らかな可愛らしいおしりがぷるんと揺れる。だが、リノは全く気にした様子もない。それを目の前で見せつけられる俺のほうが、逆に恥ずかしくなる。


「……それで、心配ないとは?」


 とりあえず、お菓子にかぶりつくチビたちはさておき、俺はゴーティアス婦人にマイセルの症状について話を聞くことにした。


「ええ、心配いりませんとも。ただ、ちょっと疲れましたからね、少し休ませてくださらないかしら。ああ、話はシヴィーから聞いてくださいな。ああ、そうそう。私の荷物をとってちょうだい。我慢して待っていたおちびちゃんたちに、絵本を読んでさしあげますから」


 たしかに、この陽気のせいばかりではない汗だくの様子に、よほど大変な作業をしてきたのだということは分かる。それと、マイセルのさっきの悲鳴は、無関係ではあるまい。それなのに、さらにチビたちのために絵本を読み聞かせしてくれるという。


 俺は慌てて夫人を居間のソファーに案内すると、手ぬぐいを手に取り水で冷やすためにキッチンに走った。




「……陣痛? でもそれって、出産前なんじゃ……?」

「陣痛ではありません、『こう陣痛じんつう』です。あとばら、なんて言ったりもしますわね」


 寝室に戻ると、マイセルが赤ん坊に乳を含ませていた。朝には「おっぱいが張って痛いのにお乳が出ない、どうしよう」と泣いていたときに比べれば、げっそりとやつれた顔だが表情は明るい。むしろ、やつれているからこそ、逆に幸せそうに見える。


 隣では、リトリィが実に嬉しそうにそれをのぞき込んでいる。しっぽがぱたぱたとせわしなくゆれていて、マイセルが授乳しているのがよほどうれしいようだ。マイセルをはさんだその反対側では、これまたげっそりとやつれたフェルミが、自分の胸をそっと揉むようにしながらため息をついている。


 シヴィーさんの話だと、出産を終えた女性は、こう陣痛じんつうという腹痛に悩まされるものらしい。出産から二、三日あたりでもっとも症状が重くなり、徐々に痛みも収まっていくのだという。


「お産を終えたお腹が元に戻っていくのですから、きっとお腹も無理をしているのですよ。こればっかりは『日にちぐすり』しかないですわね」

「薬があるんですね! おいくらですか!」


 思わずシヴィーさんに詰め寄った俺に、彼女は苦笑いしながら教えてくれた。


「ムラタさん、『日にちぐすり』とは、『対処のしようがない』『症状が治まるまで待つ以外の方法がない』という意味なんです。昔から、私たちおんなはみんな、そうやって赤ん坊を産んできたんですよ。ムラタさん、きっとあなたのお母さまも、同じようにして」

「俺の、おふくろも……」


 ……そんなこと、おふくろから聞いたことなんて一度もなかった。

 お産が半日がかりだったことは聞いたけれど、産まれる際の痛みとか、いまマイセルが味わっているこう陣痛じんつうとか。もう、顔も覚えていない母親だが、俺の出産に関わっては、幸せそうな雰囲気で、俺が産まれたことの喜びや、周りへの感謝の言葉しか聞いたことがない気がする。


 もっと、お産の大変さと、それを乗り越えたときの喜びや幸せを、もっと学校で教えてもいい気がする。もちろん、出産に伴うリスクも教えるべきだ。その両輪を教えた上で、生き方の選択ができるといいんじゃないだろうか。聞いたときには尻込みしてしまう女の子もいるだろうけれど、知らないよりは知っていた方が、心構えもできそうだし。


「お産も、こう陣痛じんつうも、同じくらい大変なんですよ。どうしてもお産ばかりに目が向きがちですけれど、本当の意味で旦那さまになられたムラタさんは、奥さまを大事にしてあげてくださいね?」

「本当の意味で、旦那さま……」

「ええ。子供の誕生は、一家の主としての、本当の始まりでもあるのですよ?」


 一家の主としての、本当の始まり……その言葉は、俺の胸にずしりと重みをもってのしかかってきた。

 一家の主としての、本当のスタートラインから飛び出した──それが、子供を授かるってことなのか。


 俺の血を継ぐ子供が生まれた──それは、「人生、生きてりゃなんとかなる俺」から、「なんとかしなければならない人生を生きる俺」になったってことなんだろう。


 思わず身震いしてしまう。俺が、一家の主として、家族を守っていかなきゃならない──それは結婚した時にも、マイセルやフェルミの妊娠が分かったときにも思ったことだけれど、改めて感じさせられた。


 そんな俺の緊張を感じたのだろうか。シヴィーさんはにっこりと微笑んだ。


「まあ、そんなに身構えなくても構いませんよ。それにこう陣痛じんつうは大変ですけれども、病というわけでもないのですから、殿方とのがたはどっしりと構えていてくださいな。あと、奥さまの体調を気にする程度の心構えも」

「い、いや、でも、だから、あんなふうに痛そうに……」

「乳を含ませると、余計に痛むようになる人もいますけれど、乳をやらぬわけにもいきませんからね。もしお食事を準備したあとなど、お湯がすこしでもあるなら、湯たんぽなどでお腹を温めてあげられるなどしたら、すこしは……」


 それを聞いて即刻階段を駆け下りキッチンに走る。任せろ、太陽熱温水器はまさにこのためにあるんだ!


 瀧井婦人──ペリシャさんから教えてもらった湯たんぽは、妻たちが同時に生理痛を抱えることになっても大丈夫なように、すでに三つ、準備してある。俺はその一つをひっつかむとすぐさま湯の蛇口を開き、三分待たせず二階に走った。


 これから湯を沸かすのだと思っていたらしいシヴィーさんは、俺の高速機動ぶりに驚いたようだった。だが、すぐに微笑んで湯たんぽを俺から受け取ると、毛布をめくってマイセルのお腹に当ててくれた。


「マイセルさんの旦那さんは、よく動かれること。少しうらやましいわ」


 シヴィーさんはそう言って微笑む。


「私の夫もまめに動いてくださいましたけれど、それでも騎士でしたから、なかなか忙しくて……」

「ムラタさんも、忙しいときは全然ダメなんですよ! 私たちのことほったらかしにして、仕事仕事って! それに──」

「まあ、ふふふ……」


 いやマイセル、せっかくシヴィーさんがいい話にしてくれてるんだから、あんまり俺の失敗談を強調しないでください、いやほんとに。



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