第644話:マイセルのおっぱいが
娘の名前もやっと決まり、今夜だけは愛し合うのもやめて、みんなでゆっくり寝よう、そう言って横になっていた時だった。
「……マイセル、その……今日は、お疲れ様」
俺は、マイセルのお腹をなでながらねぎらった。俺もいろいろ大変だったけど、マイセルの大変さは俺なんか足元にも及ばない。「鼻の穴からスイカを出す」などというたとえ話を聞いたことがあるくらいだから、本当に大変だったはずだ。
「ううん……。ムラタさんも、大変でしたね」
「マイセルは……眠くないのか?」
すでにすやすやと寝息を立てているフェルミを見て、俺は苦笑せざるを得なかった。フェルミだけは、名づけがほぼ決定したころに、さっさと一人で寝てしまっていたからだ。
「お産が終わったあと、お昼寝……というか、お夕寝というか……おやすみしちゃってたから、かも。でも、多分大丈夫で……」
マイセルがそう言いかけると、可愛らしい声が聞こえてきた。
「アア……ホアア……」
おちびちゃんが、小さな泣き声を上げ始めたのだ。
月明かりの中で、小さな小さな顔をくしゃくしゃにして、青い月明かりの中でも、きっと真っ赤な顔をしているだろうと分かる様子で、もぞもぞと動きながら、可愛らしい泣き声を上げていた。
俺もリトリィもマイセルも、ほぼ同時に体を起こしていた。三人で顔を見合わせて笑ったあと、マイセルが赤ん坊を藤籠から抱き上げた。
「おむつは……濡れてない、と思うんですけど……」
「おなかがすいたのではないでしょうか?」
マイセルの言葉に、リトリィが別の可能性を挙げる。マイセルは笑顔でうなずくと、胸元を開け、乳房を取り出した。
「ふふ、エイリオちゃん。お食事の時間ですよー?」
月明かりの中、赤ん坊の小さな小さな口に、妊娠を経て大きく発達した浅黒い乳首はやたらと大きく感じられた。小さな富士山のような形のおちょぼ口には、入りそうに見えなかった。
けれど、乳首を口元に押し付けられた赤ん坊は、少しだけむずかってみせたあと、意外にすんなりとくわえた。目も開けていないのに、どうして分かるのだろうというくらいに。
しかし、しばらく吸ってみせていた赤ん坊だけど、口を離して泣き始めた。
「あ、あれ? どうしちゃったのかな、飲んでくれない……」
「まだ、あまり量がでないだけなのかもしれませんよ? もう片方のおっぱいをあげてみたらどうですか?」
リトリィにうながされ、マイセルは赤ん坊を抱き直して、反対の乳首をふくませた。けれど、やっぱりしばらくしたら口を離して泣き出してしまう。
「む、ムラタさん、どうしよう……。私、おっぱい、出ないんでしょうか……?」
赤ん坊と同じで泣き出しそうな顔になったマイセルに、俺は慌てた。
おっぱいなんて、赤ん坊を産んだらいくらでも出てくるものだと思い込んでいたからだ。
「ごめん、見当違いなことを聞くようなら悪いけど、おっぱいが出る感触って、わかるものなのか? それとも……」
「ごめんなさい……よくわからないの。おっぱいが出てるかどうかなんて……」
泣きそうな顔でうろたえるマイセルだが、こればっかりは俺もアドバイスなんてまったく思い浮かばない。リトリィも困っている様子だった。……だめだ、授乳経験どころか、弟妹もいなかった俺たち二人にできるアドバイスなんて、なんにもないぞ!
「お母さまだって、弟にいっぱい、おっぱいあげてるのに……。お姉さま、どうしよう。このままおっぱいが出なかったら、エイリオが……!」
「ご主人に吸ってもらったら、出るんじゃないスか?」
フェルミだった。
いつの間にかむくりと起き上がっていたフェルミは、俺を見ながら、にんまりと笑った。
「だってご主人、女の子のおっぱい、好きでしょ? 吸って揉んで搾ってあげたらどうスか?」
「お、お前な! 冗談でも言っていいことと悪いことが……!」
「冗談なんかじゃないですよ」
フェルミが、真面目な顔をした。
「最初、おっぱいが出ない女の人っていっぱいいるんですよ? 赤ちゃんだって、生まれて初めての経験なんですから、最初はうまく吸えないですし。ご主人さまは、少なくとも赤ちゃんよりは、おっぱいの扱いに慣れてるんですから、マイセルちゃんのおっぱいが出るようになるお手伝いだと思って、がんばっていただけませんか?」
いつになく真剣な目だ。名前を考える時ですら冗談ばかり言っていたのに。
リトリィは、判断が付きかねると言った表情で目をそらした。マイセルは頬を赤らめ、上目遣いで俺を見る。
……ああもう、仕方がない! やってやらあ!
と、意気込んだところで、「はい、ご主人のご退場~」と、フェルミから蹴飛ばされた。
「な、何をするんだ!」
気が付いたら床にさかさまになっていた俺は、しばらくして、ベッドから蹴り落とされたことに気が付いて、さすがに抗議した。あっけにとられた様子だったリトリィも、すぐに毛を逆立てる。
しかしフェルミは落ち着いた様子で、「さっさと台所に深皿を取りに行ってって言ってるんスよ」と言い、マイセルから赤ん坊を受け取ると藤籠に戻した。
「……何やってるんスか、さっさと皿を取りに行ってって言ったっスよね?」
フェルミにあきれられて、俺は釈然としないながらもキッチンに皿を取りに行ったが、フェルミの理不尽な扱いにはさすがに腹の虫が収まらない。
普段なら、俺を手玉に取るあの言動もまた可愛いとも思えるけれど、本当に困っている時にああいう理不尽なことをされると、可愛いを通り越して怒りを覚える。
とはいうものの、臨月の妊婦に怒りをぶつけるわけにもいかない。彼女のお腹には、もうひとり、俺の子がいるんだ。歯ぎしりしながら足を踏み鳴らすようにして皿を取りに行って戻ると、「おいフェルミ! 要求通り皿を──」言いかけて、言葉を飲んだ。
フェルミが、マイセルの背後から、マイセルの胸をソフトタッチで揉んでいる。
「お前、こんな時に何を──」
「おっ、ご主人。意外と早かったっスね」
フェルミはにんまりと笑ってみせた。
「む、ムラタさん……!」
羞恥に染まるマイセルのことなど気にしていない様子でさらにこねあげるように胸を揉みながら、フェルミは続けた。
「ご主人、じゃあそれ、ベッドにおいてもらえますか?」
「……何をするつもりだ?」
「見ればわかるでしょ? 乳搾りっス。街から街に渡り歩いてた時に、どこでだったか、農場で覚えたんスよ。ヤギの乳搾り。これでも、なかなかのモンなんスよ?」
「ヤギとひとじゃ違うだろ!」
「やってみなけりゃ分からないスよね?」
そう言って、フェルミは全く動じることなく、マイセルに前かがみになるように言った。
「いま、マイセル姉さまのおっぱい、ちょっと張ってるんですよ。だからおっぱいは、ちゃんとそれなりにできてるはずなんです」
フェルミの目が、真剣になる。
「マイセル姉さま、大丈夫だから。ちゃんと姉さまは『お母さん』になってるから。おっぱいもちゃんと出るから、安心して。ね?」
マイセルの耳元でささやきながら、フェルミはベッドに手を突き前かがみになったマイセルの乳房を両手でつかみ、徐々に根元から奥に押し出すようにして握りしめてゆく。
「い、痛い……痛い、フェルミ!」
「ごめんなさい、でも頑張って」
「ほ、ほんとに痛いの……! お願い、やめて……」
「痛いのは、おっぱいがあるのに出られないからなの。マイセル、大丈夫、必ず出してあげるから、少しだけ我慢して?」
そう言って、フェルミは手を止めることをしない。
「痛いの、フェルミ! やめて、お願いだから、どうか……!」
マイセルの辛そうな声が、俺の胸をもさいなんだ。第一、ヤギの乳搾りとマイセルの胸が同じだとは思えなかった。リトリィもおろおろして、救いを求めるように俺を見つめる。
「フェルミ、マイセルが痛がっているんだ、やめてやってくれ」
「やめたら、乳が出るようになるんスか? エイリオの腹がふくれるんスか? もしそうなら今すぐやめるっスけど、いいんスね?」
「そ、それは……でもマイセルが……」
「じゃあご主人がやってください」
言われて、はっとした。
マイセルが気の毒だからやめて欲しい──それはある一面として、マイセルを思いやる発言なのかもしれない。だが、代替案のない無責任な提案は、誰のためにもならないものだ。
俺が吸う、という選択肢もあるにはあるが、マイセルが痛がるほどフェルミが搾っているというのに母乳が出ないという状況で、俺が吸ったところで何になるというのだろう。とにかくこの場は、フェルミに任せるしかないのかもしれない。
マイセルのか細い悲鳴に、耳をふさぎたくなったころだった。
「……姉さま、ほら。見て?」
不意に、フェルミの、優しい声が聞こえた。
「……出て、る……?」
「うん。出てる。頑張ったね」
その言葉に、俺は弾かれるようにマイセルのもとに身を寄せた。
「ムラタさん……分かる? ほら……」
マイセルが、力尽きたといった顔で、でも、たしかに微笑みながら、俺を見た。
前かがみになって、ベッドに手を突く華奢な両腕の間で、マイセルのものとは思えぬほどたわわにぶら下がる胸の、その浅黒くなった先端から、蜘蛛の糸のように細い筋がいくつか、シャワーのようになって皿に注がれている。
母乳だった。
初めて見たし、初めて知った。
母乳って、乳首のてっぺんから、水道の蛇口のように噴出するじゃないんだ。
乳首のあちこちから、蜘蛛の糸のように細い筋が、いくつも噴き出すんだ。
これが母乳──命を繋ぐ、しずくなんだ……!
それは、とても十分な量が出ているようには見えなかったが、それでも、さっきまでの全然出ないような状態ではないというのは、明白だった。
「じゃ、もったいないっスから。さっさと飲ませて寝るっスよ。明日は産婆さんとこに姉さまを連れて行くんスから」
フェルミはそう言って大きく伸びをすると、「ご主人、あとでこの残業分、何でもいいから楽しみにしてるっスよ」と言って、ごろりと横になってしまった。
だが、そういった憎まれ口を叩きながら、彼女も下腹を撫でている。
彼女も、もうすぐ出産なのだ。マイセルの母乳が出ないというトラブルは、彼女自身にとっても、決して他人事じゃなかったんだろう。そんなことも考えないで、俺はマイセルへの安い同情で、フェルミにやめろと言ってしまった。
「ムラタさん、ほら……この子、おっぱい飲んでる……飲んでくれてる……!」
マイセルが涙をこぼさんばかりにして喜ぶ姿に、俺はうれしくなる。夕方に見た授乳の様子よりも、明らかに口元と頬が動いている。マイセルの命のしずくを、受け取って飲み込んでいるのが分かるのだ。
「だんなさま、よかったですね」
のぞき込むリトリィも、しっぽがふわふわ揺れていて、本当にうれしそうだ。
「フェルミ、お前のおかげだ、あり──」
──がとう、と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
すでにフェルミは眠っていた。
ローブをはだけて、大きく突き出した白いお腹をさするような格好で。
「……妊婦さんが、お腹を冷やしそうな格好をしていたらだめだろう……?」
俺はどうしようもなく愛おしい思いに浸りながら、そっと毛布を掛ける。
ごめんな、フェルミ。君を信じられなくて。
明日、ちゃんと埋め合わせはするから。
……いまは、おやすみ。
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