第643話:きみの名は(2/2)
「じゃあ、明日には名前、決めとけよ!」
マレットさんが極太の青筋を浮かべ、俺の鼻に鼻を押し付ける勢いで迫る。
さっき、「さっさと孫の名前を決めろ!」と俺をつかんで振り回していたら、マイセルから縦お盆チョップを食らってしばらく脳天を押さえていたから、とりあえず手は出してこないのが、本当にありがたい。
「本当に大丈夫? お母さん、今夜だけはここに一緒にいてあげてもいいのよ?」
「大丈夫だって、お母さん。私だけじゃなくて、リトリィ姉さまもいてくださるんだから」
クラムさんが、マイセルに赤ん坊の世話についての心得について何度も何度も念を押すようにして説明するのを、俺は微笑ましい思いで見ていた。
今、クラムさんが胸に抱いているのは、マイセルを産んだあと、十八年ぶりに産んだ息子さんだ。ものすごい年齢差だが、クラムさんは、マイセルを産んだあと、体調を崩してほとんど育児に関われなかったと聞いている。
マイセルの育児に関われなかったからだろうか、ザンクくんへの世話は、とても熱心だという。それがあるから、娘に対して育児の助言をしたいのかもしれない。母親らしくしてやれなかったぶんを、いま、贈ってやろうとでもするように。これが、親心って奴なんだろう。
マイセルがお腹をさすりながら、何度も「大丈夫だから」と答えているのを見ていると、そうした微笑ましい気持ちになるとともに、自分自身を振り返ってしまった。
自分も子供のころ、ずいぶんと親を邪険にしてしまった気がする。
「大丈夫だって」
「関係ないだろ」
「ほっといてくれよ」
何度そんな言葉を返したことだろう。今さら反省する。
結局、早くに亡くなってしまった母はもちろん、クソ野郎とはいえ親父にも親孝行をすることはできなかった。こうして生まれた孫の顔を見せることも、もはや永遠にできない。親父は日本で元気に生きているはずなのに、だ。
俺より年下の、しかも俺の後輩の女の子を後妻をもらったクソ親父だが、それでも親は親だ。なのに、孫が生まれたことを──俺が、この世界で、幸せに生きていると知らせる手段すらない。
それを思うと、胸が少し痛んだ。
夜、寝室で、マイセルを囲みながら、どんな名前がいいかとアイデアを出し合った。とても楽しかった。三者三様に、赤ん坊の未来への願いを語り合った。
話を聞いていると、それぞれに色々な願いを持っていることが分かった。
周りから大切にされる子であってほしい、というのがリトリィの主な願い。
自己実現を果たす心の強さを持って生きて欲しいというのが、マイセルの主な願い。
でもって、冗談なのか本気なのか、まぜっかえすようなことばかり言っていたのがフェルミだった。
「たくさんの子宝にめぐまれますように」
「自分の夢を大事にしてくれる旦那さまに引き合わせてもらえますように」
「変な男に引っかかりませんように。どっかのご主人みたいな」
「やさしい子にそだちますように」
「兄弟とケンカしてもめげない力強い子になりますように」
「優しい言葉と口先だけのヒョロガリ男にだけは引っかかりませんよに。どっかのご主人みたいな」
「相手の気持ちをおもいやれる、つつしみぶかい子になりますように」
「好きなことは好きとやり通す力を持った子にそだちますように」
「『あなたが一番』とか言いながら他の男をひっかけるような女にだけはなりませんように。どっかのご主人みたいな」
フェルミ! お前、俺を何だと思ってんだよっ!
「べつに? 私は『どっかのご主人』を例に挙げてるだけっスよ? それとも、なんスか? ご自覚がおありだと?」
ああもう、フェルミには敵わないよちくしょう。
……それはともかく、妻たちの願いは、集約すれば次のようなものだった。
明るい未来があってほしい。
多くの人に好かれる、優しい娘に育ってほしい。
自分の未来を切り開くことができる、力強さをもってほしい。
リトリィがひとつひとつメモしてくれたものを集約し、それを組み替え、そしてできた名前。
『エイリオクトリスヴォーマシス』――エイリオだ。
ちょっとぜいたくすぎる名前かもしれないとみんなで笑ったけど、でも、俺たち夫婦みんなで考えた願いをこめたんだ。
本名がやたら長く感じるけれど、リトリィだって「
ちなみに、
「だ、だって……私だって、ずっと恥ずかしかったんだもん。名前に
「だって可愛いじゃないか! 天使ちゃんだよ、天使ちゃん!」
「私、天使みたいに綺麗でも可愛らしくも……」
「いいや可愛い! マイセルは綺麗で可愛い!」
拳を振るって力説する俺に、マイセルが真っ赤になってうつむいてしまうが、ここで押さなければ、マイベビーを「天使ちゃん」って呼べなくなっちゃうじゃないか!
でもって、名前は男親が決める、というこの世界? この地方? の風習から、マイセルの本名「
可愛いんだよ、自分の子ってのは!
もぞもぞ動いて、マイセルの乳房に、不器用に吸い付いて、んくんくとやってる姿を見たときだ。「藤籠の中に転がされている酔っぱらった遮光器土偶」みたいに見えていた存在が、懸命に生きようとしているっていうのを感じたんだ。
世界に光が降りてきた、みたいに感じたよ、あの時は!
この子が俺の子なんだ、俺のためにこの世界に来てくれたんだって!
「こんにちは、赤ちゃん」、なんて歌があったけど、まさにそれを感じたよ!
マレットさん、夢の中で浮かれたまま何かをキメたような、あんたのマイセルへの命名、その時の気持ちがよ~く分かったんだよ!
「いいんだよ、マイセルは俺にとっての天使なんだから! でもってこの子も、俺たちにとって天から遣わされた可愛い可愛い天使なんだ、これほどふさわしい名前は無いって!」
「で、でも……」
「大丈夫! 俺たちの愛を、この子も絶対に分かってくれるから!」
「そ、そうですか……?」
「そうだよ! 愛は心だけじゃ伝わらない、形にして伝えなきゃ!」
「……じゃ、じゃあ、ムラタさんの言う通りにしますね?」
「分かってくれてうれしいよっ!」
「む、ムラタさん……抱きしめてくれるの、うれしいけど……くるしい、です……」
というわけで、誠心誠意の説得で、なんとかマイセルに納得してもらった。
「なるほどー? こうやってオンナをたらし込んできたんスね、ご主人は」
そう言うフェルミの、じとーっとした半目が胸に痛かったけどな!
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