第200話:マイセルの特別な日(1/5)
今夜は曇りで、だから、隣で俺の腕の中に納まっているリトリィの顔も、よく見えない。残念な夜だ。
「……あの」
リトリィが、ためらいがちに口を開いた。
「あ、明日、ギルドに行くのはやめて、その……じっくり、おうちで、字の練習でもしませんか?」
「え? 明日は俺の階級章を取りに行く話になっていただろ?」
明日は、俺の階級章――『建築士』と彫り込んだネームプレートが出来上がるはずで、それを取りに来い、と言われていた。
電話があれば、用事ができたとでも連絡できただろう。だが、この世界にはそんな便利なものはない。用件を伝えたければ、自分で行くか、人を使うしかない。
人を使う手も、俺にはない。結局俺が行くしかないわけだ。
しかし、そんなことよりも。
「……どうして、急に、そんなことを?」
俺の問いに、リトリィはややためらったあと、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、つぶやいた。
「あ、……あなたと、いっしょに、いたいから……?」
耳を、ぱたぱたとせわしなく動かして。
「……俺に、隠し事はしないんじゃなかったか?」
「ひうっ!?」
……ああ、やっぱり嘘だったか。恥じらっているか、嘘をついているかの二択だったが。
「いや、責めてるわけじゃないんだ。リトリィは、不義理を嫌うだろう? それで、不思議に思ってさ」
明日取りに来い、と言われ、こちらもそのように約束を交わした。リトリィも、その確認をした。にもかかわらず、彼女の方から約束を反故にする提案――勝手に延期するということへの違和感。賭けて正解だった。
「……あの、笑わないでくださいね?」
彼女の言い分は、「なんとなく、嫌な感じがしたから」だった。
「あ、あの! ギルドに行くのがいやっていうことじゃないんです。その、……夕方の、あのことが気になって……」
夕方の、あのこと。
――ああ、つけられていたかもしれないという、あれか。
「ギルドの人たちだったらいいんですけど、でも、なにか違う気がして――」
今夜は月明かりがないから、リトリィの表情はほとんど分からない。だが、俺の左半身に絡みついている彼女の腕からは、こわばりが感じられる。
「だから、おうちでゆっくりしましょう? 字の練習でなくったって構いません。なんなら一日、ずっとここで、わたし、ご奉仕いたしますから」
真剣な様子に、だが思わず苦笑が漏れる。それはそれで、干からびて死にそうだ。
「ギルドのほうもそうだけど、シヴィーさんの依頼についても進めなきゃいけないからな。どちらにしても、城内街に用事はあるんだぞ?」
「明日――明日だけでもけっこうですから。ムラタさん、明日一日だけ、おうちにいましょう?」
すがり付いて訴えるリトリィに、俺は結局根負けし、明日は一日、家にいることに決めた。彼女といちゃいちゃしながら、のんびりと字の練習というのも、まあ、悪くない。
「来ちゃいました!」
ドアを開けると、そこに立っていたのはマイセルだった。
どことなくガーリーなクリーム色のドレスに、ふわふわに編まれた可愛らしいライトグレーのショール、レースの布を被せた小さな肩掛けバッグ。
そして元気のいい声と、ピンと伸ばしてきた右手。
……うん、マイセルだ。実にマイセルらしい。
苦笑しながら手を重ねてやると、そこまでは予想していなかったようで、ばっと手を引っ込め、右手を胸元に当てて真っ赤になってうつむき、そして上目遣いで微笑んでみせた。
「あ、ありがとうございます……!」
何がありがとうなのかよく分からないが、とりあえず家に入れる。「お姉さまは、どちらに?」とさっそく聞いてきたので、もうすぐ下りてくるよ、というと、「じゃあ、お二階ですね! おじゃまします!」と階段に向かおうとする。
いま、朝っぱらからの情事の後始末のために慌てて二階に上がったのだ。行かせるわけにはいかず、慌てて引き留める。
「字の練習をしていたんですか?」
「ま、まあな」
「これは?」
「例文集だな」
「……お姉さまの、手作りですか?」
「……そうだけど、どうして分かった?」
「だって、ほら」
そう言って、マイセルが例文集の一節を指し示す。
『わたしは むらたさんが だいすきです』
……そうだよ、ああ、そのとおりだ。例の『恋文シリーズ』だ。
しかしよかった、もっと過激な例文を開いていなくて。
胸をなでおろし、「お茶でも飲むかい?」とキッチンに向かう。まだ熱めだったポットの湯を使って茶を淹れ、テーブルまで持って行くと、マイセルは、さっきのまま、テーブルを前にたたずんでいた。
「……むらたさんが いちばん すきなのは わたしです……」
「――!?」
いきなり何を言い出すのマイセル!?
衝撃に固まった俺に、彼女は背を向けたまま、続ける。
「……わたしは むらたさんの およめさんです……」
「……むらたさんの あかちゃんが ほしいです……」
「……あかちゃんは なんにん ほしいですか……」
なんだろう、素朴な愛の言葉のはずなのに、マイセルがぽつりぽつりと、しかも背を向けたまま言うと、まるで呪詛か何かのように聞こえる。
「ま、マイセル……?」
意を決して声をかけると、マイセルがゆっくりと振り向いた。
どんな顔をしているのか――なかば畏怖すら覚えながら見守る。
ところが彼女は、恥ずかしそうに、若干うつむき加減にこちらを向いた。胸に、例文集を抱えて。
肩が落ちた。
ガチャンと、盆の上のティーセットが音をたて、慌てて持ち直す。
なんのことはない、マイセルはリトリィの作った例文集のうち、『恋文シリーズ』を読み上げていただけだったのだった。
「……これって、ムラタさんが、字の練習をするために、お姉さまが作ったんですよね?」
「……まあ、その通りだが」
「お姉さまって、とっても、可愛らしいひとだったんですね……?」
――可愛らしいひと。
……あー、まあ、確かにとっても可愛らしい。
でも、今さら気づいたのか?
「だってお姉さまは、とっても優しくて大人っぽくて、いかにも淑女らしくおしとやかで! 私の憧れで、目標だったんですよ! なのに、こんなに可愛いひとだったなんて!」
やたら力説したあと、例文帳を胸に抱えて「きゃーっ」と一人で盛り上がっているマイセル。
俺はなんと声をかけていいか分からず、とりあえずスルーしてテーブルにティーセットを並べる。
いや、例文集は、リトリィが俺の言語習得レベルに合わせて簡単な言葉を選んでくれているから、例の『恋文シリーズ』もそれに合わせて、簡単な言葉でつづられているだけなんだけどな。
……まあ、だからこそ、ストレートに感情が発露されてるのが、それはそれで味わい深くて……。
――やばい!
「……こんやも たくさん あいして ください……きゃーっ! お姉さま、だいたーん!!」
ギャース!! 『寝室シリーズ』まで見つけやがった!!
「は?」
思わず、目が点になる。
「だから、今日は私の誕生日なんです」
タライに入れた洗濯物を、リトリィと一緒に踏み洗いしていたマイセルが、突然の爆弾発言をしたのだ。
突然そんなことを言われても困る、こちらはなんの準備もできていない。
というか、一日家にいるのならと、思い切ってあれこれ洗濯しようとして準備してあったものの山を見つけたマイセルが、自分から言い出したのである。
「お洗濯ですか? 私にもさせてください!」
はじめはどうしようかと顔を見合わせた俺とリトリィだったが、本人がやりたい、やらせてほしいと言うので、最終的に手伝ってもらうことにしたのだ。
というわけで、朝から洗濯娘が二人、楽しげに誕生したわけだが、洗濯は重労働。いくら本人が望んだからといっても、誕生日を祝われるヒロインに対する扱いじゃない!
しかしマイセルは、にっこり笑った。
「大丈夫です。私だって、お姉さまと一緒にお仕えするようになるんですから、これくらい当然です」
せっかくの可愛らしいクリーム色のドレスをまくって、洗濯に興ずる年頃の娘。マレットさんが見たら、何というのだろうか。本人は楽しそうだが、俺の胃袋はキリキリと痛んでいた。
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