第640話:新たに生み出す健闘を称えて

「そういえば、おっぱいは? もうあげたのか?」

「はい。さっき、ムラタさんが追い出されちゃったあとで」


 その時の様子を思い出したのか、マイセルがくすくすと笑う。


「そ、そうか……」

「なんですか? 赤ちゃんに、それは俺のものだぞって言いたいんですか?」

「え? あ、い、いや! そんなんじゃ……!」

「ふふ、じゃあ、なんですか?」


 改めて問われて、俺は答えようとして、ためらってしまった。現代日本でも、母乳が出なくて悩んでいる女性は少なくないらしい。「完全母乳育児」を誇らしげに語る女性がいるかと思えば、「ミルクだって悪くない、むしろミルクのほうが栄養価が高い」なんていう不毛なバトルが、SNS上では見られると聞いたことがある。


 こちらの世界ではもっと深刻だろう。なにせ母乳が出なければ、人工ミルクなんてないんだから。中学生の時に、弟が飢え死にしてしまったという、戦時中の物語を授業で読んだことがあったっけ。あの作品の母親は、遠くまでヤギのミルクを買いに行っていた。


 もし母乳の出が悪かったら、そういうことをしなければならないのだ。しかしマイセルは、そういった不安そうな様子はない。ひとまず安心、といったところだろう。


「そういえば、『いつおっぱいが出るんだ?』っていって、私のおっぱいをしゃぶったことがありましたよね? 今なら、出ますよ?」


 いたずらっぽく微笑むマイセルに、俺は慌てて手を振って、用事を思い出したふうを装って部屋を飛び出した。こんな時にマイセルのおっぱいをしゃぶるなんてことをしたら、明日の朝には間違いなく街中で変態扱いだ!




 戦場のような忙しさがひと段落ついたらしく、部屋を出た俺は、改めて女性たちに囲まれた。もちろん話題は太陽熱温水器、ただ一択だった。


「どこで湯を沸かしてるんだい?」


 手伝いに来てくれたおばちゃんに詰め寄られ、正直に「屋根の上で」と答えたら、「あのでっかい黒いモノの中で火を焚いてるのかい? あんなところで、誰が火の番をしてるのさ?」と不思議がられた。


「いえ、お日さまが沸かしてくれているんですよ。天気力ってやつです」


 冗談めかして言うと、誰も信じてくれなかった。うなずいてくれたのは、俺を取り囲むご高齢のご夫人たちの背後で微笑みを浮かべる、俺が事業を持ちかけたナリクァン夫人ただ一人。


「これは、火を使いません。燃料は一切不要です」

「火をかずにどうやって温めるっていうんだい」


 ただ、すぐに理解してくれたナリクァン夫人と違って、ご婦人方はなかなか納得してくれなかった。いや、ナリクァン夫人の持つ教養・経験が別格なだけなのかもしれないが。


 ただ、仕組みは理解できなくとも、「栓をひねれば湯が出る」という仕組み自体は理解ができたようで、奥様方はぜひうちにも欲しい、と言い出した。


「あんたの奥さんが安心して子供を産めるようしたのは、あたしらだよ? タダで付けてくれてもいいくらいさ!」


 おい、オバちゃん。そりゃないよ!




 庭のテーブルでは、男たちが赤ら顔で出来上がっていた。

 おい、役に立たないなあんたら! うちの出産を祝う名目で昼間っから酒を飲みやがって!


「なに言ってんだ。奥さんの健闘、いまこそ称えるべきだろう! おらみんな、新しい命を世に生み出した、カントク様の奥さんにかんぱーいっ!」


 そう言って、リファルの音頭でまた乾杯してやがる。ていうかリファルがなんでここにいるんだよ。


「同じ大工のよしみで来てやったってのに、つれないこと言うんじゃねえよ」

「コイシュナさんが、応援に来てくれたんですよ」


 隣で、バーザルトが微笑む。孤児院『恩寵の家』で働いていたコイシュナさんも来ていたのか。しまった、女性たちの中にいたに違いない。必死過ぎて気づいてなかったよ。あとで礼を言いに行こう。


「なんでオレがーってわめくリファルさんが、ずるずるとここまで引きずられてくる様子、見ものでしたよ?」

「て、てめぇバーザルト! 何言ってやがる、後で覚えて──」

「誰が、なにを、覚えてるって?」


 隣のテーブルからそう言って移ってきたのは、バーザルトの師であるマレットさんだ。


「ウチの弟子に、なにを覚えていろと?」

「あっ……いや、その、……なんでもねっす」


 リファルが小さくなって、こそこそと席を離れる。


「……まったく、誰にでもでかい口を叩くならまだしも」


 マレットさんは鼻で笑うと、改めて俺に向き直った。


「よう、婿さんよ」


 マレットさんも、男たちの例に漏れず、すでに出来上がった様子だった。


「まずはおめでとう、とだけ言っておこう。リトリィさんを差し置いて、ウチのマイセルが先に子を産むことになっちまったってのは、まあ……」


 そこまで言って、マレットさんの顔がにへらっと急に崩れる。


「堅っ苦しいことは無しだ! まずはよォくやってくれた! お前は、偉い! よくやってくれた! まったく、全然孕ませねえから、ひょっとして俺はにマイセルをくれてやっちまったんじゃないかって、心配したくらいだったぞ!」


 そう言って、マグカップの中身を一気にあおる。

 まあ、なんだかんだ言って、マレットさんも父親としてマイセルのことを可愛がっていたようだし、顔を合わせるたびに「孫はいつだ」なんて言われてただけに、とりあえず義父の望みはかなったというところか。


 それにしたって、種無しはひどいけどな!


 マレットさんは、がっはっはと大口を分けて笑うと、またにへらっと顔を崩した。


「で、どうだ?」

「どう……とは?」

「決まってんだろ!」


 上機嫌で俺の肩をばしばしとぶっ叩くマレットさん。

 酔っているだけあって手加減なしだ。痛いって!


「最初の子供を迎えた感想だよ、感想! 俺やマイセルと違って、微妙に髪が黒みがかってるからな。お前さんの色を受け継ぐ、正真正銘、あんたの子だ。髪がああなんだから、目の色はどうなんだろうな? 目を開ける時が楽しみじゃないか、うん!」


 そう言って、マレットさんは俺の背中をバシバシとぶっ叩く。だから痛いって!


「どうだ。初めての子だぞ? 嬉しいだろう。かわいいだろう! どうだ、うん?」


 しわくちゃのサルみたいな顔でした。

 ……なんて馬鹿正直に言おうものなら、マレットさんのそのハンマーのような拳が俺の頭の上に振り下ろされるのは疑いようがない。俺は自分でも引きつっている、と自覚しながら、愛想笑いを浮かべた。


「ええ、 とっても……可愛かったです」


 そのあまりに短い返事に、マレットさんは不満を言うかもしれないと思ったが、どう返事をしたら良いものか分からず、結局そう返してしまった。


「そうだろう、そうだろう! 可愛いだろう! なんたって俺の孫だからな!」


 ……酔っぱらいの目と耳は節穴だったようで助かった。それはともかく、マレットさんは実にご満悦の様子だった。待望の初孫だっただろうし、自分の娘が無事出産を終えたということも、彼にとって満足できることだったのだろう。


「それで、どうするんだ?」

「どうする、とは?」

「子供は女の子だっただろうが。大工にするつもりか? それとも別に道を歩ませるか?」


 マレットさんには、息子が二人と娘が一人だ。そして、その娘が、長男のハマーを差し置いて先に大工ギルドの職人になってしまった。とはいっても、俺がマイセルの背中を押さなければ、マイセルはきっと今も、大工に憧れたころの思い出を胸に秘めながら、悶々とした日々を過ごしていたのではないだろうか。


 誰だって、いつかは自分の歩む道を決めるときが来る。マイセルは、たまたまその分岐点にいたところを俺と出会い、俺を共に生きることで、大工の道をあきらめずに歩み続けることを決意してくれた。


 俺の娘が、同じような悩みを抱える日が来るかどうか、それは分からない。自分で歩む道は、自分で決めなければ、いつか後悔するときが来る。もちろん、自分で決めても後悔することは山ほどあるだろうが、自分で決めたのと、他人の意見に従ってきめたのでは、価値の度合いが違う。


 だから俺は答えた。分かりません、と。


「……あの子が将来、どんな道を選ぶのかなんて、分かりません。あの子次第ですから。ただ……」


 マイセルたちのいる部屋の方を見ながら、俺は笑ってみせた。


「あの子が将来、やりたいことを見つけたとき、そのやりたいことを実現することができるだけの技術チカラと、そして根性を身につけさせることが、親の務めだとおもってますから。そこは頑張りますよ」

「やりたいことを実現させる技術チカラ、ね。あんたらしい」


 マレットさんも笑った。俺たちは互いに技術職の人間、生きる糧を得る手立ては腕一本──その誇りを胸に生きる職人だ。


「ただ、俺にできることなんて限りがありますから。俺にしてやれるのは、その道の先導者を紹介してやることだけです。もし大工をやりたいって言うなら、マレットさんの弟子に放り込むだけですよ」

「おう。そのときは任せておけ」


 どんと胸を叩いたマレットさん。隣のテーブルから、瀧井さんも移ってきた。


「いい心掛けだ。その道に詳しいものに任せることが、結局は近道だからな」


 瀧井さんからなみなみと麦酒が注がれたマグカップを受け取ると、彼も席に着いた。


「誰もが自分の道を模索するのに必死だ。わしだって、この歳になってもまだ、落ち着かん。人生、いつでも再挑戦はできる。近道を行けたらそれが一番だが、たとえ遠回りでも、いつかは何かをつかめるものだ」


 そう言って、カップを持ち上げてみせる。


「この街に来た頃のお前さんが、迷い、苦しんだ挙句に、こうして幸せを手にできたようにな」

「……ええ」


 このご老人の膝の上で泣いたあのときのことは、俺は決して忘れない。

 認められることの喜びを。

 認めてくれる人がいることの、ありがたさを。


「さ、今日は太陽で湯を沸かすとかいうじつに興味深い装置を作り、そしてこの世にまた新しい命を生み出した、じつに素晴らしい夫婦の健闘を称えて──」


 瀧井さんの音頭に合わせて、俺はテーブルの皆と乾杯をし、そして一気に飲み干したのだった。

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