第639話:ありがとう、マイセル

「産まれちゃうんですよ! 赤ちゃんがっ!」

「産まれる⁉ まさか、だって俺が出てくる前は……」

「なに言ってんですか! 監督の都合なんて、赤ちゃんには関係ないでしょう! 急いでくださいって!」


 まさかエイホルに突っ込まれる日が来るとは思わなかったが、それはそれとして、もうあとは四の五の言っている場合じゃなかった!


 俺はエイホルに引っ張られて走り出した。

 途中で馬車に轢かれそうになったり、転んだ挙句に人を巻き込んで屋台をひとつ台無しにしたりしたこともあったけれど、とにかく俺の子が産まれそうなんだ、勘弁してくれよ!


 俺はもう、とにかく祈りながら走った。

 神様仏様キリスト様!

 あとはなんだけ、この世界での俺たち職人の守護神のキーファウンタ様っ!


 お経も聖句もなんにも分からないから、しまいには「きーいよーしー、こーのよーるーっ!」とか訳も分からず歌いながら走ったよ! 何でもよかったんだ、とにかくマイセルが無事ですように──赤ん坊が無事に生まれてくれますように──ただそれだけを念じて。


 初産ういざんは時間がかかるというし、おふくろの場合は夕方に陣痛が来て、俺が生まれたのが夜の十二時過ぎだったって聞いている。そんな長く苦しむようなときに夫がいなくてどうするんだと、俺は必死だった。冷静に考えれば、近くに三番門前広場があるんだから、そこで騎鳥シェーンを借りれば早かったはずだったんだけど、そんなこと考えていられなかったんだよ!


「マイセルっ!」


 家に飛び込んだ俺を出迎えたのは、たくさんの顔、顔、顔。

 知っている顔も、知らない顔も、とにかく女性が何人も。全員が、鬼気迫る様子だった。そしてリトリィが、手桶を持って、居間の奥の部屋に駆け込んでいく。


「ま、マイセル……?」

「遅いですわ! どこでなにをしてきたのかしら!」


 猫のような顔つきの猫属人カーツェリングの女性──ペリシャさんが、猛然と食って掛かってきた。


「あなたは誰の夫なのですか! こんな大事な時に、外をほっつき歩いて! マイセルが今、どんな状態にあるのか、想像もできないのですか!」


 つかみかからんとする勢いのペリシャさんに、俺は最悪の想像がよぎる。


「ま、まさか……」


 現代の日本ですら、お産の果てに力尽きて命を失う女性もいるのだ。

 ましてこの世界の医療は未発達。産褥さんじょく熱で命を落とす母親も珍しくないと聞く。


「ま、マイセル……マイセル!」


 俺は恐ろしい不安に襲われて、俺はペリシャさんを押しのけるようにして奥の部屋に飛び込んだ。


「あっ……お待ちなさい! そこから先は殿方の入る場所では──!」


 そこにいたのは、エプロンに身を包んだ女たち──マイセルの母親たちのネイジェルさんとクラムさん、ナリクァン夫人、ゴーティアス婦人。そして、マイセルの隣で手を握っているのが、お腹の大きなフェルミ。そして、大きなクッションにうつぶせるようにして、四つん這いになるように下半身を向けるマイセルと、その隣で血まみれになっているリトリィ──!


 まさか……まさか、マイセル!


「ナリクァンさま……!」


 血まみれの何かを胸に抱いたまま、泣きそうな顔をしたリトリィだったが、ゴーティアス婦人は立ち上がると、リトリィが腕に抱くものに手を差し伸べた。


「リトリィさん? あなたは第一夫人なのです。こんなことでうろたえていてはいけません。あなたは、産婆たる私の指導の下で、適切に赤子を取り上げたのです。息をしていないだけで取り乱してはいけません。そもそも赤子は、腹の中では息などしておらぬのですよ?」


 そう言って、リトリィから受け取ったちいさな何かを、逆さづりにする。

 そして、その尻を、ぴたんぴたん! と叩いたのだ!


 お、おいッ! なんて乱暴な!

 俺が思わず駆け寄ろうとした時だった。


「アア……ホアア……」


 かすかな、声が、聞こえてきた。

 それはテレビドラマとかで見るような、大きな声ではなかった。

 けれどこの世に生まれたことを示す、確かな産声だった!


「……ほら、もう大丈夫ですよ。第一夫人、あなたは一家を治める実質の長なのです。これしきの事でうろたえてはいけません。生まれ出ずる命は、意外と強いものなのですよ」


 改めてその小さな……本当に小さな体を胸に抱き直すと、ゴーティアス婦人は微笑み、荒い息をつくマイセルのそばにひざまずいた。


「さあ、あなたの産んだ子ですよ? 抱いておあげなさい?」

「あ、あり、がとう、ござい、ます……」


 汗びっしょりのやつれた顔で、疲労の色が濃い表情で、けれどマイセルは、確かに微笑んだ。 

 クッションの上にうつ伏せていた彼女は、ゆっくりと体を横に向けると、弱々しい声で泣く小さな赤ん坊を胸に抱き、微笑んだ。


「こんにちは……ムラタさんの、……私の、赤ちゃん……」


 マイセルの微笑みと、彼女の発した言葉に、彼女が成し遂げたことの重みが、徐々に染み渡ってくる。


 マイセルは、頑張ったんだ。

 頑張ったんだ、そしてやり遂げたんだ!


「ま、マイセル……!」


 なんと声をかけていいか分からず、けれどなんとかしてねぎらいたくて、俺は一歩踏み出した。


 その時だった。


「ご主人、ここは男性禁止ですよ?」


 マイセルの隣でずっと手を握っていたフェルミが、小首をかしげるようにして、にっこりと笑った。


 その時初めて、マイセルは俺に気づいたようだった。そして、下半身をあられもなく俺のほうに晒していることにも気づいたようで、大きく目を見開き、声を上げ──


 ──ようとした瞬間。


 バッチ──ン!


 その音が自分の頬から響いてきたということが、なんだか妙に現実感のない、それほどに素晴らしく甲高い音だった。


「これは、ご主人がどこかに行ってしまった上に初産だったマイセルの、痛みと孤独の恐怖に耐えた分!」


 で、もう一発!


「これは、ご主人がいない中で第一夫人の使命の重さに耐えながら赤ん坊を取り上げることになったお姉さまの苦しみの分!」


 おまけに、もう一発!


「最後は、……特に意味もないですけど、とりあえず私らを放って仕事に行っちゃったご主人への私の八つ当たりの分!」


 マイセルも、リトリィも、あっけにとられたようすでフェルミと俺を見比べている。

 そう、俺はフェルミから、思いっきり強烈な平手打ちを食らったのだった。それも三発も!


「では、改めてここは男性禁止なので。とっとと出て行ってください」


 平手打ちを三発も食らったうえに、ヤクザキックまがいの蹴りで、俺は部屋から文字通り蹴り出されたのだった。




 それからも大変だった。たくさんの湯が必要になったからだ。

 けれど、もはやその点に関しては全く問題がなかった。初夏の日差しを存分に受けた太陽熱温水器が、程よく温かい程度には、タンクの水を湯に変えていたからである。


 試運転の湯が、そのまま我が家で生まれた初の我が子の産湯うぶゆになるとまでは考えてもいなかった。けれど、そう考えると今朝システム全体が完成したのは、まさに運命だと言えるものだったのかもしれない。


 そして、「栓をひねれば、その場で湯が出てくる」仕組みは、詰めかけた女性たちに驚きと感動でもって迎えられた。


 便利なものは使い倒されるのが宿命だ。我が子の産湯うぶゆはもちろん、マイセルやリトリィの体を洗う湯にも、血や羊水でよごれた床を拭くにも、そしてたくさんの手ぬぐいやクッションのカバーを洗うにも、太陽熱温水器の湯は大活躍だった。


 そうした嵐のような忙しいひとときが過ぎると、俺はようやく、もう一度さっきの部屋に入ることができた。


 マイセルは、淡いピンクのバスローブのような服に着替えていた。先ほど、出産のときに抱えるようにうつ伏せていたクッションを背に、ゆったりと座っていた。そして胸には、タオル生地の布で包まれた、真っ赤な顔をした、小さな小さな「ひと」がいた。


「あ……ムラタさん」


 どこか恥ずかし気に、ぎこちない仕草で、マイセルは俺を見た。

 そういえばさっき、あんなあられもない格好を見た──見られてしまったのだ、恥ずかしがるのも当然かもしれない。ごめん。


「だんなさま。だんなさまのお子ですよ? 声をかけてあげてくださいね?」


 リトリィは、周りにいたフェルミやゴーティアス婦人らに声をかけ、そろって部屋を出ていく。部屋には、マイセルと俺、そして、マイセルの腕の中にいる小さな赤ん坊だけが残された。


「……ずいぶんと小さいんだな」

「産まれたばかりですから」


 微笑むマイセルの隣に腰を下ろすと、赤ん坊を改めてじっくり見てみた。


 ……うん、猿だな。しわくちゃのニホンザル。これが、正直な感想だった。

 どうしても赤ん坊というと、丸々と太って餅のようなぷにぷにの肌をイメージしてしまうが、生まれたばかり赤ん坊というのは、こういうものなんだろうか。


 酒でも飲んだかのような赤ら顔。

 ぷにぷにどころかしわくちゃの顔や手。

 目を閉じたカエルのような、やたら半球状に盛り上がっている閉じられた目。


 ……正直、可愛いかと聞かれたら、不細工としか言いようがない。俺の子として生まれたばっかりに、こんな顔で生まれてきてしまったということだろうか。腹の中で全力で謝る。


「ムラタさん、なでてあげてください。──あなたの、子ですから」


 言われるままに、そっと、まだ湿っている髪をなでてみる。

 ──本当に小さい。なんだこの小ささは。頭の大きさも、ソフトボールよりちょっと大きい程度なんじゃなかろうか。


「抱っこ、してみますか?」


 言われるままに、俺はそっとその体を手に乗せられる。

 ますます小ささを感じる。だって、俺の両のてのひらに、すっぽり入っちゃうんだよ、これが! 両手の間には赤ちゃんって、こんなに小さかったのか⁉

 だって、右手で首を支えながら背中に手を回せば、あとは左手でおしりを支えて、それで抱き上げることができてしまう! ほぼ両のてのひらのサイズで、支えることができちゃうんだよ! ひょっとして、未熟児だったとか⁉


「ふふ、ムラタさん、なんだか落ち着かないって顔をしてますよ?」

「い、いや、だって、赤ちゃんってその……もっと丸々としてて、大きいものだって思ってたから!」

「そんなに大きかったら、お腹から出て来れないじゃないですか。すぐに、おおきくなりますよ」


 手や足をわずかに揺らすように動かす我が子に、俺は戸惑いを隠せなかった。

 マイセルに返すと、マイセルはそっと胸に抱き、微笑んだ。


「ムラタさん、ありがとうございます。……来てくれて。うれしかった」

「……ああ、いや、その……ごめん」


 マイセルの出産そのものには立ち会えなかった。それについて頭を下げると、マイセルは首をかしげ、そして笑った。


「どのみち、お産が始まったら男のひとは部屋から追い出されちゃいますから」

「いや、でも、──その、フェルミが言ってたけど、やっぱりその……初めてのことだし、怖かったんだろう?」

「お腹が痛みだして、ずしん、ずしんとくるようになって。しばらく休んでいればって思ったら破水はすいして。最初はおしっこをもらしちゃったって思って、驚いちゃったんですけどね」


 破水はすい──お産の始まりだ。もっと特別な感覚なのだと思っていたけれど、マイセルはそうは感じなかったみたいだな。


「それから、本当に苦しかったんですけど、破水してからすぐに、お姉さまが呼びに行かれた産婆さん──ゴーティアス婦人が到着して。それで、おしっこじゃなくって破水はすいだって分かったんです」


 恥ずかしそうに笑ったマイセルだけど、何もかも初めてだったんだ。恥ずかしがることなんてない。

 その後、二時間ほどで出産を終えてしまったとのことで、これは異例中の異例だという。本当はもっと時間がかかるものらしい。


「お父さまに、早く会いたかったんでしょうね。ちょうど、出てきてすぐに、ムラタさん、来てくれましたし」


 そう言って、マイセルは笑った。

 マイセルの胸のなかで、小さな小さな赤ん坊が、時々手をもぞもぞと動かす。目は閉じたままで、何か口を開けてみせたりもする。


 ……ああ、これが、俺とマイセルとの子供なんだ。

 俺が、この世界にいたことをのちの世に伝えてくれる、最初の証人なんだ!


 そう思ったとき、ずっと、ずっと言い忘れていたことをやっと言えた。


「マイセル」

「なんですか?」


 赤ん坊を抱く彼女を、そっと抱きしめる。

 マイセルは、リトリィやフェルミと比べれば、小柄で華奢だ。

 けれどその彼女が、力を振り絞って、俺に特大級のプレゼントをしてくれたんだ。

 我が家で、先陣を切って。


 カッコ悪かったと思う。声は震えていたし、彼女を抱きしめる腕もてのひらも、間違いなく震えていたはずだ。

 でも、俺はどうしても伝えたかったんだ。今、この時を置いて他にないと思った。


「……ありがとう、マイセル。俺を選んでくれて。ほんとうに……ありがとう」



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