第638話:これでも今を生きている
俺は廊下を歩くと、確かに人の声が聞こえた。その一室のドアの前に立つと、俺はそっとノックをした。声が聞こえなくなり、長い時間が経過した。俺はもう一度ノックをすると、だいぶ経った後で、かちゃり、と鍵が開く音が聞こえてきた。俺はドアのノブを手に取り、思い切って開けた。
「ひっ……!」
そこにいたのは、ぼさぼさの髪の子供だった。
思わず部屋の奥を見ると、中の藁がはみ出している粗末なベッドに、一人の大人が横たわっていた。
そして、強烈な、異臭。
糞尿のにおいもあるが、それだけではない。なんとも不快な異臭。
「失礼します。二級建築士のムラタと申します。こんど、この集合住宅をより住みよいものにするための、改装を担当することになりました」
あえて明るい声で、奥のベッドの上の人に届くように言ってみた。
返事はない。俺は「失礼します」と、勝手だとは重々承知しつつ、部屋に入った。
子供は、俺を見上げて何かを言いかけたようだが、俺はあえて無視するとベッドのところまで歩いて行った。
そこには、ひどく衰弱した男性がいた。長く臥せっているのだろうか。ほとんど骨と皮ばかりといった様子だった。
おそらく子供たちの父親だろう。何かをうわごとのように呟いているが、何を言っているかは聞き取れない。翻訳首輪の力をもってしても分からないのだ、本当に無意味なうめきでしかないのかもしれない。
「……君たち、食事は?」
子供たちは、首を振った。
……なんてことだ。ファーミット氏は知らないのだろうか、それとも、知っていてこのありさまなのか。
いや、知らなかったでは済まされないだろう。知っていた、けれどここまでの状態だったとは気づかなかった……そうであってほしい。
やせ細った子供たちに、俺はいても立ってもいられなくなった。部屋を飛び出すと、三番門前広場に向かって駆け出す。放ってなんておけなかった。とりあえず、お腹に優しそうなパンのたぐいとスープを屋台で買い求めると、急いで部屋に戻った。
「ほら、お食べ」
俺がパンを差し出すと、子供たちは最初、警戒したものの、俺がひと欠片ちぎって食べてみせると、おずおずと手を出し、一口食べ、ついで息もせぬ勢いでかぶりつき始めた。
よほど腹を空かせていたんだろう。保護したばかりのリノたちのことを思い出す。今でこそ白くみずみずしい肌が美しいリノだが、保護したばかりのときは酷く痩せて肌もかさかさに荒れていた。
この子たちも酷いありさまだ。つらい思いをしてきたのだろう。
ついで、ベッドに横たわる男性に声をかける。器のスープを見せ、食べられるかと聞いたが、返事は不明瞭で聞き取れない。俺は彼の体を横向きに起こすと、床に落ちていた欠けた木のスプーンを拾い上げ、何度もハンカチでこすってからスープをすくって口元に差し出した。
男はしばらくもごもご口を動かしていたが、薄く開いたところでスプーンを差し込み、奥に流し込んだ。
何度かそれを繰り返し、ようやく器が空になったころ、隣でずっと見ていた少年が恐る恐る見上げるようにして口を開いた。
「……おっちゃん、父ちゃん、良くなる?」
「とりあえずスープは全部食べたし、まずは、……様子を見てから、だな」
本当なら、「医者に診せてから様子を見よう」と言いたいところだったが、その言葉はかろうじて飲み込んだ。この世界の医者はめちゃくちゃ高いうえに、俺から見ると、外科医はともかく、内科医は迷信の域を脱していないようなことしかしない。
家賃を払うどころか、食べるもの、飲み水すらすら買えないこの家の住人たちを医者に診せることなど、できようはずもなかった。
しかし少年は、うれしそうに笑った。
「よかった! じゃあ、もう大丈夫なんだね! 父ちゃん、雪が降ったころからずっと寝込んでたから!」
「雪の頃……から?」
思わず聞き返してしまった。雪が降った頃だなんて、半年は前じゃないか。
「うん。何回目だったか、雪が積もったころだったよな?」
少年たちは、兄弟で互いにうなずき合う。
俺は改めて聞き直してみたが、やはりこの子ちの父親は、冬のある雪の日に倒れたとのことだった。
半年近く前のある雪の日、体調を崩して仕事ができなくなったらしい。僅かな蓄えも底を尽き、ここ数日、食べるどころか、ろくに水すらも飲んでいなかったのだという。
俺は頭を抱えた。この世界に、生活保護というセーフティーネットなど無い。あるとすれば、ナリクァン夫人のような資産家による慈善事業としての活動だけだ。
体調を崩して働けなくなる──それは、ついこの間の、鉄工ギルドで大怪我を負って動けなくなった俺みたいなものだ。例えば現場の落下物等に挟まれて腕を切断、なんてことも、誰にだって──俺にだってありうること!
俺には、今この時点だって守るべき家族がたくさんいる。赤ん坊だって、いつ生まれるやら、という時期だ。俺がもし、この父親のように働けなくなったら……そう考えると、ぞっとする。この子供たちの姿は、少し先のリノたち、あるいは生まれてくる我が子の姿かもしれないのだ。
リノたちには生涯食っていける技術を、なんて思っていたけれど、万が一の社会保障制度、それもなくては安心して暮らせる社会とは言えないだろう。
つくづく俺は、日本という社会──多くの先人による、たくさんの試行錯誤の末に成り立つ社会で、ぬくぬくと生きてきたのだと思い知らされた。
ただ、現実問題として、この子供たちをこのままにしておくわけにはいかないだろう。この男のことも気になるが、この子供たちも、まずは食える環境に置かなければならない。リノたちのように俺が預かることができればいいけれど、もうすぐ子供が生まれる我が家で、それは難しく感じられた。
そうなると思いつくのは、先日、俺が関わった孤児院──ダムハイト氏の『恩寵の家』、もしくはゲシュツァー氏の『神の慈悲は其を信じる者へ』か。一時的でもいいから、そうした施設に預けた方がいいのではないだろうか。
しかし、俺の一存でそんなことができるはずもない。この少年たちは、この男性の子供なのだ。俺がどうこうできるものではない。そもそも、この弱りきった男性だって、なんとかしなければならないのだ。そして、それは俺の分を超えているだろう。
俺は歯を噛みしめると、もう一度市場に戻った。あの少年たちが、そして男が食えそうなものを見繕っていくつか購入すると、再び例のアパートに戻る。
少年たちは、俺の手の中のもの見て歓声を上げた。
ベッドの男も、うっすらと目を開け、ふらふらと力なく手を挙げた。
間違いない、俺への挨拶をしてくれたんだ。
俺は胸痛む思いで食べ物をテーブルに置くと、深々と頭を下げてから続けた。
「申し訳ありませんが、自分は一介の建築士に過ぎません。食べ物と水をここに置いておきますが、食べられそうならぜひ、何でもいいので口にしてください。ただ、くれぐれもゆっくりと食べてくださいね」
少年たちは、うれしそうに礼を言って俺を玄関先まで送り出してくれた。しかし、それがかえって哀れを誘った。彼らを救う──それがどんなに傲慢なことか。自分の家族に必死な時に、他まで手を伸ばす余裕などないのに。
我が家のチビたちを思う。
俺の家に侵入したばっかりに、俺にとっ捕まった。
それは、お互いに不幸な出会いだったかもしれないが、しかし、いま、俺たちは互いに幸せに向かって歩んでいるのだと信じたい。
それに比べて、この子たちはどうだ。
「……おじさん?」
「おっちゃん?」
ひざまずき、二人を抱きしめる。
酷い匂いだ。糞尿のにおい、何かの腐った匂い。
あの劣悪な環境の中で、彼らは、これでも今を生きている。
「すまない。今、俺は君たちの状況を知って、それでいて何もできない。……本当に、すまない」
こんなことを考えること自体が傲慢なのだと思う。
それでも、この子供たちを哀れだと思った。
あの男もだ。果たしてこの子たちが成人するまで、生きていられるのだろうか。
幸せに満ちた我が家との、あまりの落差を感じてしまう。
知らなければそのままだったかもしれない。
だが知ってしまった。
どうにかしてやりたいという思いが、首をもたげてきてしまう。
仮に知らないままだったら、おそらくこの子供たちは死んでいたのだ。知らなかったでは済まされない、取り返しのつかぬことになっていたかもしれないのだ。
こんなありさまでも、今、彼らは生きているのだ。
ならば、関わることができた今──
その時だった。
「監督! やっと見つけた、こんなところにいたっ!」
走ってきたのは、エイホルだった。転げる勢いで──というか文字通り転げながら、俺たちの前で止まった。
「……ど、どうしたんだ、なにがあった? 怪我は……」
「どう、したも、こう、したも……っ!」
ぜい、ぜい、と肩で息をする。
「お、奥様が!」
「……リトリィがどうした?」
「じゃない、奥様!」
「リトリィじゃない奥様?」
エイホルは、力なくうなずく。
「……マイセルか、フェルミ?」
エイホルが、がぜん、力任せに首を何度も縦に振った。
「マイセル……さんが! マイセルさんが!」
「マイセルが……どうした、なにかあったのか?」
こちらに来る前は午前のお茶の時間だった。大きなお腹を抱えてはいたが、なにか体調が悪いとか、そんな素振りなんてなかったはずだ。……まさか、あれから急変したとか、そういうことなのか⁉
「違いますよっ! とにかく、なんでもいいから、帰らなきゃ!」
「帰るさ! 帰るが……本当に何があったんだ!」
「なんでわかんないんですかっ!」
エイホルは頭をかきむしる。
「早くしないと!」
「早くしないと?」
エイホルは、地面を何度も踏み鳴らして叫んだ。
「産まれちゃうんですよ! 赤ちゃんがっ!」
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