第740話:世界は誰かの仕事でできている(1/2)

「散歩にはいい季節になりましたね」


 冬も終わり、陽射しも随分暖かくなった。三番街の門前広場に向かう道を歩きながら、リトリィが微笑む。


 コリィとアイリィも、もう三カ月。獣人の娘だけあって成長も早く、放っておくと匍匐前進で這いずり回り、気がついたら玄関の前で泥だらけになって笑っているありさまだ。元気があるのはいいことだが、日々冷や汗事案だらけで目が離せない。そんな二人を乗せた乳母車を、リトリィと二人で押す。


「ヒスイ、走っちゃだめだと言ってるでしょ?」


 フェルミが、腰のリボンを引っ張る。ヒスイはもう、短い足を懸命に動かして走るようになった。リノのように立てたしっぽをぴこぴこと振り回し、実に楽しそうだが、放っておくと本当にどこかに行ってしまう。そんな乳幼児に、ハーネスは必需品だ。


 日本ではハーネスについて、「飼い犬みたいで可哀想」なんて寝言をぬかす否定的な意見があるけれど、子育て未経験者は「黙ってろ」案件だが、子育て経験者が言うならただの呪いだ。


 どうせベビーベッドから出さない生活とか、親まかせだとか保育所に放り込んでいたとかで育児に関わらなかったとか、まともに幼児と関わったことがなかったんだろう。もしくは、「私が苦労したんだから若い世代も苦しめ」という老害的やっかみか。

 ハーネスさまさまだよ、本当に。


「ふふ、ヒスイの方が妹なのに、もうすっかりお姉ちゃんね」


 マイセルが抱っこしているシシィは、自分も歩きたいと言いたげにもぞもぞとしている。だが、ヒスイと違ってシシィはまだまだ伝い歩きが精一杯。獣人と人との成長スピードの差を如実に感じるが、それぞれのペースで大きくなってくれれば、それでいい。


「もうすぐ、だんなさまが直した井戸だね!」


 リノが、まるで自分のことのようにうれしそうな顔で、指を差した。四番門前広場と三番門前広場の間を結ぶ道の、ちょうど間くらいにある公共井戸。


 今日も公共井戸の周りには人だかりだ。本当は一度沸かした方がいい程度の水質ではあるが、慣れた人ならお腹を壊すほどでもない、そんな井戸。


 ひと月ほど前までは、生水で飲むとお腹を壊す程度では済まなかった程に汚染された井戸だったが、今はもう、そんなことはない。ひび割れて腐食したモルタルを撤去して塗り替えるだけでなく、排水溝の断水性能を高めるため、排水溝の周りをアスファルト塗料で固めた上で排水溝を引き直したのだ。


 一度、全て掘り出してやり直すことになったため、当初の予定より大幅に手間のかかる仕事になったが、誇り高い大工たちの仕事によって、もう、汚水が混じることはなくなった。


「この井戸の水は、大工ギルドの自作自演で汚されたのだ! 鉄血党をおとしめるための陰謀で──」


 井戸から少し離れたところでそう叫ぶ者がひとりいるが、誰も耳を貸そうとしない。この井戸を直したのは、大工ギルド。そして、誰もが安心して使えるように手押しポンプを設置したのも大工ギルド。もちろん、信頼と安心の鉄工ギルド製だ。


「ポンプをつけてもらえたのに、水の値段が前と同じってのは、ありがたいねえ」

「そうそう。それに奥さん、聞いた? このポンプをつけたのは大工ギルドってことになってるけど、実際は一人の大工さんがお金を出してつけてくだすったらしいのよ」

「聞いたわ、その話。ほら、このポンプの『しっぽ印』が、その大工さんの奥さんの銘なんですって」

「奥さんの銘って……じゃあ、このポンプ、大工の奥さんが作ったっていうの?」

「そうらしいわよ。すごい女性ひとがいるものよねえ」


 井戸端のご婦人たちの言葉に、右隣を歩くマイセルが妙にうれしそうな顔をする。リノもなぜか胸を反らして鼻高々、といった様子だ。


「えへへ、だってお姉さまの仕事ですもの! うれしいに決まってます」

「だんなさまもお姉ちゃんも、すごい仕事をしたんだもん!」


 すごいどころじゃない。

 というより、なんでうちの奥さんは、出産後、ひと月も経たずに工房に籠るような真似をするんだと、あの頃は本当に胃が痛い思いをしたんだからなあ。


『だって、だんなさまがせっかく直してくださった井戸ですよ? ついでに、だれもが使いやすい井戸にしたいと思って』


 また、それをマイセルもフェルミも応援したんだよなあ。


『コリィとアイリィの世話なら、大丈夫っスよ。私もマイセルも、乳なら溢れるほど出ますから。なんたって、大きな・・・赤ちゃん・・・・に毎晩吸われて、乳離れもクソもないスからねえ』


 お願いそういうことを大きな声で言わないでほしかったですフェルミさん。

 そんなわけで、リトリィは妊娠後期からずっと溜まっていたフラストレーションを発散するかのように、鉄を打ちまくったのだ。井戸のポンプも、その一環だ。

 断言する。ポンプはおまけだ。でなきゃ、「しっぽ印」の鍋やら鎌やら剣やらが、ずらりと工房のいちに突然並ぶはずがない。


 いや、ポンプだってそうだ。そもそもポンプ自体は鋳鉄ちゅうてつ製で、鋳型いがたに溶けた鉄を流し込んで作る方法なので、彼女の出番は無いはずだった。それなのに、わざわざハンドルとかパイプとかを作ったのだ。

 手漕ぎハンドルだって鋳鉄で作れるのに、わざわざ打って作ったんだよ、リトリィは。


『ああ、楽しかった!』


 これが、完成した時のリトリィの感想だ。全く、ふかふかの毛並みが自慢の獣人女性が、体中に焦げ跡を付けて言う言葉か?


「でも、おかげでこの井戸、評判がとってもいいらしいじゃないスか。ご主人が成した仕事が評判になる──私は、とてもうれしいスよ?」


 そう言うフェルミの微笑みに、思わず胸がどきっとする。

 いつもからかわれているから、こうも真っすぐに喜ばれると、なんだか新鮮だ。

 そうでなくとも、社会的インフラの整備に関わる仕事をするというのは、こうやって、顔も知らぬ人々から喜ばれているのを見る時、とても充実感を覚える。


 やってよかった──心から思える瞬間だ。




 まっすぐ伸びる三番大路を、俺たちは噴水広場に向かって歩いていた。もうすぐ昼時。噴水に囲まれた神像群が評判の噴水広場では、近くの救児院の子供たちによる歌唱隊が、その美しい響きを披露する時間帯だ。


「だんなさま! 水売りさんだよ! ボク、葡萄ぶどう水が飲みたい! 買ってくる!」

「あっ……おい、リノ! 勝手に走るな、もうすぐ広場なんだからそこまで……って、おい! リノ、待てよっ!」


 水売りの屋台に向かって走り出したリノに、ヒッグスが声をかける。

 だが、リノは飛び跳ねるようにしながら、ヒッグスよりずっと速いペースで駆けてゆく。


「へへーん、悔しかったら追いついてみたら? もう、ボクの方がおっきいもんねー!」

「くそっ……! 少しばかり先にでかくなったからってなあっ!」


 ……ああ、確かにリノは、この冬から春にかけて、ずいぶん成長した。体つきは急に女性らしい丸みを帯びるようになった。その若干幼い言動とは裏腹に、すっかり乙女らしい姿だ。この姿で朝は俺と一緒に水浴びをしたがるのだから、本当に目のやり場に困る。


 獣人は成長が早い──こんなところでも実感させられるとは。


 大はしゃぎのリノが、遠くの方で手を振る。彼女の言葉は聞こえるが、もう翻訳首輪の効力の効く場所ではない。ただ、とても楽しそうな様子で、広場を指差し、そして手を振って、駆け出していく。


「おっちゃん、もうすぐ始まるんだってさ」


 ヒッグスが、じれったそうに見上げる。


「そうか。じゃあ、少し急がないとな」

「少しって……おっちゃん、始まっちゃうって」

「だったらヒッグス、先に行って、リノと合流してくれ。こっちは、赤ちゃん連れだからな。万が一があってはいけないから、ゆっくり行くよ。なに、少しくらい遅れたって、全てを聴き逃すわけじゃないだろう?」


 俺の言葉に、ヒッグスは納得したようだった。ニューと手を繋ぎ、二人連れ立って、うれしそうに駆けていく。はやる心を、チビたちの面倒を見るという思いでこちらに合わせてくれていたのだろう。ただ、ヒッグスはニューのペースに合わせるようにして、ちゃんと様子を見ながら走っているようだ。ただの兄としてだけでない、レディをエスコートする一人の男として。


「……子供は元気でいいスね」

「ふふ、それを言ったらヒスイちゃんなんて、元気の塊ね」

「シシィだって、ヒスイを泣かすくらいケンカが強いじゃないスか。ご主人も頭が上がらないマイセルの血筋っスね」

「だったらいつもムラタさんを軽口でやり込めるフェルミなんてどうなるのよ。お姉さまなんて、ほんの少し顔を曇らせてみせただけで、ムラタさんをすぐにおろおろさせちゃうし」


 はいはい。どうせ俺は、奥様がたに全く頭が上がりませんよ。


 そうこう言っているうちに、三番大路の噴水前広場に着く。

 すでに救児院『神の慈悲は其を信じる者へ』のコーラス隊が展開していて、美しい歌声を響かせている。


 しばらく、観客に混じってその歌を聴いていたが、女声隊のすみっこの方に、一人の見知った少女を見つけた。ヴァシィだ。そして、そのヴァシィを近くで見つめている少年は、孤児院『恩寵の家』の少年、リヒテル。


 『恩寵の家』と、この春に「学校」として施設を一部解放する『神の慈悲は其を信じる者へ』とは、子供たちの交流が始まっているらしい。ヴァシィはすでに自立し、リヒテルの元に身を寄せているが、こうしてたまにコーラス隊に、OGとして参加しているようだ。


 二人とも、孤児として施設で育ち、特にヴァシィは少女として過酷な環境に身を置かされた経験もある。だが、今こうして、二人は助け合って生活している。この二人の未来に、幸多かれ、と願うばかりだ。


「だんなさま、歌、好き?」


 リノが、いつの間にかそばにいた。


「歌か? そうだな……好きだよ」

「そう? よかった、ボクも好き!」


 笑顔を見せる彼女の頭をなでてやると、うれしそうに喉を鳴らす。こういうところは、猫だなあとしみじみと思う。


「……だんなさま?」


 すぐ左隣から、寂しそうな声。

 ハイっ! 奥さまが一番ですよ!


 果たして、機嫌を直してくれたリトリィの、幸せそうな微笑みいっぱいのキスが、褒賞として俺の頬に与えられたのだった。



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