第75話:ここにいる理由
「……あなたは、ひょっとして、他に日本人に出会ったんじゃないんですか? なぜそんなに詳しく――」
「ははは、これでも、私も当時大学生、インテリを自負する一人だったからね。中国戦線はともかく、アメリカに勝つのは難しいとは思っていたよ。口には出せんかったが」
大学生。大学生だったのに、兵士?
「少し違うが、そうだ。……一応、これでも下士官、小さな隊を率いて戦う側ではあったがね。
あの頃、大日本帝国は大きな危機に見舞われていた。何とかしたいという思いでいっぱいだった。農業の発展で、飢餓にあえぐ農村の人々を救いたいという思いもあったが、国が滅べばそんなことも言っておられんからな」
国が滅べば。
確かに一度、日本は滅んだと言えるかもしれない。
あの敗戦で。
「――それで、日本は今、アメリカの植民地になっているのだろう? いくら平和と言っても、独立のための準備は進んでいるのかね?」
「……いや、日本は植民地になどなっていません」
「そんなわけ――」
「本当です。昭和天皇も処刑されませんでした」
瞬間。
椅子を蹴倒す勢いで瀧井氏は立ち上がった。
「まさか! ――いや、いま、
「昭和天皇は昭和天皇でしょう?」
「
……何を怒っているのかが分からない。
「ええと、今は令和天皇、でいいのかな、令和天皇の時代です。昭和天皇のお孫さんです」
俺の言葉に、ぶるぶると肩を震わせていた瀧井氏だが、やがて力なく椅子に戻る。
「陛下のご威光は、アメリカによって穢されたということか、それとも軽んじられる時代になってしまったということか……」
呻くようにつぶやく。
「――村田さんや。今、即位なされている陛下を
身罷られた場合に、元号をつけて呼ぶのだ。明治天皇、大正天皇、などとな」
へえ、それは知らなかった。さすが戦前の人間、そういったことにはこだわりがあるんだな。
「それで、陛下はどうなったのだ。昭和天皇と呼ばれるということは、身罷られたのだろう? どのような最期を遂げられたのだ」
「いや、普通に寿命だったと思いますよ? たしか、昭和は六十四年まで続いたんでしたっけ」
「――そうか、陛下は、日本をお守りくださったうえに、平和な世になるのを見届けてくださってから、お逝きになられたのだな……」
守ったかどうかと言ったら、俺はそうは思わない。
日本軍が意外に悪さばかりしていたわけじゃないことは分かったが、それは単に中国軍のクズっぷりが日本より深刻だったというだけだ。
それに、真珠湾だまし討ちでアメリカを怒らせて太平洋戦争を始めて、日本を敗戦に追い込んだようなものだし、その責任は天皇にもあるだろう。
まあ、そんなことを言ってみても話が終わらない。本題にさっさと入ろう。
「――前置きが長くなってしまいましたが、瀧井さんと同じで、私も日本からやって来ました。
私は建築士をやっておりまして、ある日、仕事場から帰ろうとして、真っ黒な穴に落ちたんです」
俺の言葉に、瀧井氏もうなずく。自分もそうだったと言うように。
「――ですから、なんとかして日本に帰る手掛かりはないかと思って、本日はこうして参りました。どんな小さな手がかりでも構いません。なにか、ご存じなことはありますか?」
瀧井氏は、じっと俺を見つめる。
「……村田さん。お前さん、日本に帰りたいのか?」
「はい」
「……そうか。わしは、帰る理由を失ってしまったからな……」
「なぜですか?」
「決まっとる。それ以上に、大切なものができてしまったからだ」
「大切なもの?」
「ああ。そのためならば、戦場に帰ることなど、できなくなってな……」
そうか、確かにそうだ。
いつ殺されるか分かったもんじゃない戦場に帰るよりは、平和な世の中がそこにあるならそこで暮らしたいと思うだろうしな。
「始めのうちは、たしかに帰るための手がかりを探したものだ。靖国で会おう、と約束した戦友たちに申し訳なくてな。
だが、いざ帰ろうという段になって……帰れなくなってしまったのだ」
そう言って、一度言葉を切る。
「……おそらく、お前さんは今、揺れとるんじゃないか? 本当に、帰りたいのかと」
「馬鹿なこと言わないでくださいよ。今の日本は平和だ、隣の国とはうまくいっていないですが、それでも世界で有数の豊かな国で、暮らしやすい国になったんです。帰りたくないと思うやつなどいませんよ」
「そうか……わしらが戦ったことに、意味はあったということか。よかった――」
よくはない。あんたらのせいで韓国と北朝鮮は同じ民族でありながら分断され、中国も利害が一致する部分以外では日本を未だに許していない。
などと言って機嫌を損ねては、俺の利益にならない。ぐっとこらえる。
「だが、わしは帰れんかった。お前さん、その娘さんのこと、どうするのだ?」
リトリィの方を見ながら言われて、俺は目が点になる。
「じつはな、先ほどまでわしも外出しておったんだが、広場でずいぶんと仲睦まじい様子を目にしておったのさ。
この城内街ではあまり
――まさか……まさか、あの場面を見られていたということ!?
雑多な通りすがりの人間など気にも留めていなかったが、それを今こうして指摘されると、妙に気恥ずかしくなってくる。
隣のリトリィなど、顔を真っ赤にしてうつむいて、ぐうの音も出ないようだ。
「わしも同じだった。わしのことを愛してくれた女性がいてな。いよいよ帰るという段になって、行かないでほしいと、飛び込んできたのだ。衛兵に取り押さえられて、床に叩きつけられて、それでもなお、な。
――そうまでしてわしを慕ってくれる女性を、置いていけなくてな」
――――!
それは、俺が最も恐れていたことだ。
リトリィと別れて、一人で日本に帰れるのか。
「――その女性は、
ぴくり、と瀧井氏の眉が上がる。
「……ああ、
「では、一緒に日本に行く、という選択は、できなかったのですか?」
俺の言葉に、瀧井氏は顔をゆがめる。
おそらく、それは、彼自身も考えたのだ。では、なぜ、その選択肢を選ばなかったのか。
「わしは、さっきも話したように、避難民のばあさんを背負っておった。だが、この世界に来た時、ばあさんはどこにもおらんかった。思うに、
――その発想はなかった!
確かに、俺も肩にリュックをかけていたが、穴に落ちた際、肩から外れて落としてしまったという自覚はある。――そのリュックはどこに行ったのか。
少なくとも、俺と同じ場所に落ちてはいなかった。
「何かの拍子に、わしはこの世界につながった。だが、せっかく助けたあのばあさんはどこに行ったのか、分からん。
逆もまたしかりだ。仮に還れる穴ができ、一緒に飛び込む機会を得られたとしてだ。愛する女性が、わしのせいで、わしのいない世界に飛ばされるかもしれないという危険がある選択肢を、選べると思うかね?」
……確かに、そうだ。
究極的には、リトリィを連れて日本に帰る、という選択肢を選ぶことも、できないことはない。獣人という生物が存在しない世界にリトリィが現れた場合、過酷な運命が想像できてしまうが。
しかし、穴に飛び込んだ後、ほんとうに、離れ離れにならずに、二人とも同じ世界に、同じ座標に、同じ時間軸にたどり着くことができるのか。
肩にかけていたリュックですらどこかへ消えたのだ。仮に同じ世界、同じ座標にたどり着いても、時間軸が一日でもずれたら、もう二度と会えないかもしれないのである。まして座標がずれたりしたら、リトリィは、言葉も通じず、異形の存在として好奇の目にさらされる環境に、たったひとりで放り込まれることになるのだ。
もっと恐ろしい想像――たとえば地上二十メートル、何もない空間にポンと放り出されたとしよう。待っているのは墜落死あるのみだ。たとえ無事、地上に降り立つことができたとしても、交通量の多い道路の上だったら。もっと単純に、太平洋のど真ん中だったら。――深海、宇宙、いしのなか。
つまり俺は、そういう確率を乗り越えて、本当に偶然、生きてこの世界に降り立つことができた、幸運な個体であるという可能性もあるのだ。
もし――もし仮に、日本に帰るための穴が開いたとして、俺は、飛び込めるだろうか?
出口が、俺にとって都合のいい場所に開いている保証は、あるのだろうか。
「……わしが、帰ろうと思えなくなった、その理由が分かってもらえたかな?」
俺があれこれ想像を巡らせたことを、おそらく確信しているのだろう。
俺一人なら、たとえ死ぬことになろうとも、俺自身の選択だ。
だが、俺の選択によってリトリィに何らかの不幸が訪れるのは――想像もしたくない。
「それでも――それでもお前さんが情報を欲しいというのなら、紹介状を書いてやる。王都に行くといい。わしが世話になった、法術師がいる」
「――!」
法術師――聞いた事がある! たしかこの世界に来た時、魔法のような力をつかう人間のことを、そんな風に呼んでいたか!
「わしは結局、日本に帰るのをあきらめた。一人の女のためにな。正直に言えば、それを後悔することもある。だが……」
瀧井氏は、少し遠い目をして、だが、はっきりと言った。
「――だが、それでもわしは間違っていなかったと信じている。わしの帰るべき場所は、彼女の元であったのだと」
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