第480話:またぞろ悪い虫が
「なんだこれは」
あれから数日。
しばらくぶりの雨のあと、心配になって再び孤児院を訪ねた俺は、顎が落ちそうになった。
「これは酷いな……」
案内された部屋は比較的ましだったが、そもそも廊下からしてシミだらけ。雨漏りがあったのか、というより、雨漏りがなかった場所はどこだ、というくらいに。前回はあまり気づかなかったことも多いが、本当に酷かった。
シミだらけの壁はカビだらけ、床板はぬるぬるで、不快なカビ臭さは絶望的なレベル。歩いていると首筋に雨垂れが落ちてくるというありさま。
そのうえ、かさかさとムカデのような節足動物が歩いているとなれば、不快さも倍増というものだ。マレットさんから「そいつは刺されると
そしてなにより、石造りの家の欠点である「窓の小ささ」が、薄暗い屋内を作り出して心理的な不快指数を上げる。
そして通された部屋。
「……マレットさん、どう思います?」
「大工としちゃあ、ほっとけねえなあこりゃ……」
建付けの悪いドアを若干蹴り開けるようにして案内された部屋で、ジメッとした、クッションの中身が潰れ切った椅子に座って、改めて部屋を眺めまわす。
……ため息しか出てこなかった。
濡れた埃にまみれた廊下に比べれば、まだ綺麗に掃除されていると言っていいだろう。だが、あくまでも比較論だ。
「……ムラタさんよ。あんたも多少は大工に染まってきただろ? どう思う、この黒ずんだ床板」
「……腐ってますね。妙にシケていて、ヌメリすら感じられる部分までありますし」
「壁なんか見ろよ。ここ、客室だろう? なんだありゃあ。模様にしてはずいぶんとけったいじゃねえか」
壁のシミは比較的ましだが、それでもやはり廊下と比べて、だ。黒々としたカビが、点ではなく線や面で、しかもあちらこちらで堂々と自己主張をしている時点でお察しである。もちろんその上の天井など、言うまでもない。
雨垂れに打たれたであろう調度品はニスがボロボロで、本当はそこそこの価値ある品だっただろうに、
「客を通す部屋の調度品ですら、アレだ。しかもほったらかしってことは、誰もそれを何とかしようとしてないってこった。もう、大工としてというより、ひととしていろいろと言いたいことがあふれ出てくるってモンだ」
マレットさんのぼやきに、俺も頷く。
だが、信じがたい話だがこれでも客を通す部屋なのだ。おそらく「まだましなレベル」のはずだってことだ。
「ああ、分かる。つまり、この孤児院の連中が寝泊まりする部屋は、もっとひどいありさまだろうってことだろう?」
「いつも湿度が高くなるキッチンやダイニングなどは、見たくもない惨状になっているかもしれませんね」
「だろうなぁ」
「それからずっと気になってるんですけど……」
言いかけた時だった。
ドアがきしみながら開けられた。一瞬、ドン、という音がしたのは、引っかかる下部を蹴り飛ばしたに違いない。
「申し訳ございません。遅くなりました。改めましてわたくし、コイシュナと申します。こちらは院長のダムハイト様です」
「どうも、院長のダムハイトでございます。このたびは寄付の相談に来ていただけたそうで。ありがとうございます」
カップやポットが乗せられたトレイを手にしたやや小柄な女性と、その隣に並んでいるせいか、やけに高く感じる、丸眼鏡の痩身の男性が入ってきた。
前に来たときに対応したのはこのコイシュナと名乗った女性ひとりだった。だから、この孤児院の管理者はこの女性なのだと思い込んでいた。しかしダムハイトという男が院長だというのなら、この男がこの施設の管理者なのだろう。
「寄付は本当に助かります。私ども子供たちのために日々奔走しておりますが、やはりなかなかご理解がいただけないものでして」
ダムハイトさんは、丸眼鏡を押し上げながら柔和な笑顔をこちらに向けた。
「
なるほど、これはかなり経営が厳しそうだ。
あるいは、経営の厳しさを率直に口に出すことによって、こちらの善意をさらに引き出そうとしているのかもしれない。
いずれにせよ、この孤児院の経営状態はかなりろくでもないことになっていそうだ、ということだけは分かった。
「いいえ、私どものわずかな喜捨が、どれほどお役に立つか分かりませんが……。先日のリヒテル君のお怪我が少しでも良くなればと思い、見舞金としてこちらを用意させていただきました。どうかお納めください」
そう言って、麦を一袋、そして大銅貨がいくらか入った袋を渡す。
はっきり言って大した額ではない。だが、見栄を張って銀貨なんぞ渡してしまったりすれば、今後こちらの負担が重くなりすぎて、寄付が続けられなくなる。
ダムハイトさんは中身の確認もせず、深々と頭を下げた。
きっと、悪い人ではないのだろう。だが、俺はこの環境をどうしてやるべきか――そんなことをずっと考えていた。
どう考えてもこの環境は子供にとって良いはずがない。そして、ずっと気になっていたことを俺は口にする。
「さっきから、子供の鳴き声がずっと聞こえているのですが……この孤児院では、赤ん坊も育てているのですか?」
「はい」
ダムハイトさんは、目を伏せて首を横に振った。
「大変悲しいことですが、捨て子は後を絶ちませんので……」
捨て子は春になると増えるのだという。
そう、今がまさにその、増えている時期なのだ。
そして子供を捨てる親は、どうせ孤児院に置いていくなら昼間の間に連れて来ればいいのに、明け方に、誰も見ていない頃合いを見計らって捨てていくのだという。
「なぜ明け方だと分かるんですか?」
「外気に触れる頬などは冷えますがね。おくるみの中は、大抵は十分に温かいからですよ」
もう育てられない、けれどもそれを知られたくはない――だから、発見までにそれほど時間がかからないであろう明け方に、我が子を捨てに来るのだろう……ダムハイトさんは、そう言って首を振った。
「春というのは、そんなに捨て子が増えるんですか?」
俺の質問に、ダムハイトさんはまたしても首を振った。
「増えますね。苦しいのは冬の盛りでしょうが、やはり春ならば発見まで長くかかっても、子供が風邪をひかないだろう――そんな、親の最後の愛情なのでしょうね」
多い時には二日や三日に一人のペースで捨てられているという。
俺なんて、マイセルの妊娠を聞いた時には嬉しくて嬉しくてたまらなかったというのに。
さすがにフェルミの時には驚きはしたものの、それでも俺の子を妊娠してくれたということ自体が、とても嬉しかったのだ。
まだ見ぬ我が子だが、一度に二人も授かった――大変だろうけれど、でも誕生の日がとても楽しみなのだ。
それなのに、親の顔も知らないまま――覚えることもないままに親に捨てられる子供が、二日に一人だって? なんともやりきれない話だ。
「それなら早朝に見張っておいて、我が子を捨てようとする親を見つけたら思いとどまるように説得する、ということは――」
「ムラタさんよ、そこまでだ」
マレットさんが、俺の肩に手を置いた。よく知らぬ相手の、それも経営方針に口を出すものじゃない――そう言わんばかりの目。
ダムハイトさんは、苦笑してみせた。
「……そうですね。捨てようとする、まさにその場で考え直すように言えば、おそらくその場では思いとどまらせることは可能でしょう。ですが――」
ダムハイトさんは、またしても首を横に振った。
「考えてもみてください。子を捨てる、その結論を、軽々しい思いつきで出すような親がいると思いますか? 何度も何度も悩み、どうしようもなくなってわが孤児院を頼ってくるのです。そこで説教をしたところで、もはや手遅れなのですよ」
「そうでしょうか? 思いとどまって、やっぱり我が子は自分の手で育てようという親だって――」
思わず反論してしまった俺に、ダムハイトさんは笑った。
力のない笑いだった。
「確かに、一時的には思いとどまるでしょうが、それも一時的なものでしょう。結局はどうにもならなくなって、どこかに子供を捨てることになるでしょうね。そもそも、自分たちの力では育てられないと結論付けたから、孤児院に捨てることに決めたはずですから」
自分たちの力では育てられない――重い言葉だ。言い返そうにも、言葉が続かない。
「そうなった時、もう一度私たちを頼ってくれるのか、それとも煩わしい説教を避けるために、もっと条件の悪い所に捨てるのか。頼ってくれれば、まだましです。ですが、容易に捨てられる場所に捨てる、などというようなことになれば、子供は生きていくことができないかもしれません。それでは、何のために説教をするのか分からなくなります」
ダムハイトさんは、小さくため息をついた。
「ですから我々は、受け入れるしかないのですよ」
首を振りどおしである。俺の浅知恵程度でなんとかなるような、そんな甘いことではなかったのを思い知らされた気分だった。
『いただいたものは、子供たちのために使わせていただきます。ありがとうございました』
深々と、門の前で頭を下げるダムハイトさんの姿が忘れられない。
おそらく、いい人なのだ、彼は。
――だが、善意だけで世の中が渡って行けるわけではない。
現に、あのカビの山のような館で、経営自体が危ぶまれている、あの孤児院。
……なんとかならないか。いや、なんとか――
「おい、ムラタさんよ。またぞろ悪い虫が出てきた――そんな顔をしているぜ?」
「悪い虫、ですか?」
「自分がなんとかしよう、そういう顔だ。まったく、身の程知らずな男だ」
そう言ってため息をついてみせるマレットさんは、しかし、言葉とは裏腹に小さな微笑みを浮かべていた。しょうがない奴だ、と言いたげに。
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