第479話:お腹いっぱい食べられるということは
家に帰って真っ先に怒ってみせたのは、フェルミだった。家に帰ってみて微妙に固い雰囲気の中、笑顔で出迎えてくれたリトリィとマイセルの世話焼きのあとで、キッチンに引っ張られたんだ。
「マレットさんところの坊ちゃんに連れて行かれたと思ったら、監督はいなくって、それでいて女の園に放り込まれた私の気持ち、想像できるっスか?」
「いやお前女だろ」
「女になるのは、女扱いしてくれるあなたのそばにいるときだけ――その気持ち、どうして分かってくれないんですか?」
分からねえよ!
ヒッグスとニューとリノが奪い合うように食卓のものを平らげている様子を、俺の隣でリトリィが目を細めて見守っている。ニューの口の周りがソースでベタベタになっているのを拭いてやっているのは、マイセルだ。
そして、そんな食卓の風景を少し引き気味で眺めているのがフェルミ。いや、お前もしっかり食えって。
リトリィがよく、俺の食いっぷりを「いっぱい食べてくださるあなたを見ているだけで、しあわせになれます」と評してくれるんだが、たしかにチビたちがリトリィの飯を美味そうに食っているのを見ると、つい自分の分まで差し出して、これも食えと言いたくなってくる。
笑顔で飯を食う――それ自体が、周りの人間をも巻き込んで笑顔にするようだ。
「……腹いっぱい食えるって、幸せなことなんだな」
俺がチビたちを見ながら何気なく口にすると、リトリィがふわりと微笑んで、俺を見上げた。
「そうですね。おなかいっぱい食べられるって、とってもしあわせなことだと思います。……どうかなさいましたか?」
「あ、いや……」
俺は、リヒテルと孤児院のことを話した。
屋根があれほど荒れていて、壁も雨漏りのシミだらけだった、あの建物に住む子供たち。
一日の稼ぎを悪びれもせずにせびる粗暴な同居人に、それをとがめることもできない管理者。
さらに言うなら、リヒテルのような子供が働いて稼いでこなければならない状況だ。食べ物も満足に食えているとは思えない。
話せば話すほど、彼の境遇を思い、やりきれない気持ちになってくる。
「だったらムラタさん、その子、ムラタさんの現場で怪我をしてしまったんですし、うちに連れてきてご飯を食べさせてあげるっていうのはどうですか?」
マイセルの笑顔の言葉に、一瞬、それに乗りたくなった。だが、俺は首を横に振ってみせる。
「それは俺も考えた。でもそれじゃ、なんにも解決しないんだ。一時的に食べることができたからといっても、彼の本拠地があの孤児院である限りは」
俺はチビたちを見た。
ヒッグスとニューとリノ。このチビ三人は、この家からものを盗んで俺たちにとっ捕まったことが縁で、この家に来た。
同行してくれた冒険者たちにもマレットさんにも、「自分で背負いすぎだ」とあきれられたが、すさんだ子供たちが嬉しそうにリトリィの飯をほおばる様子を見て、放ってはおけなかったんだ。
まあ、そのおかげで俺は先日の戦いでリノのナビゲートを得ることができ、結果として生き延びることができたんだから、人生どう転ぶかわからないものだとは思う。
だが、それをすべての恵まれない子供たちに振り向ける、なんて力は俺にはない。チビたち三人については、たまたま引き取るだけの動機ができて、かつ、その余裕があっただけだ。
たしかにリヒテルも、チビ三人のように貧しく苦しい境遇ではあるだろう。だが、彼は孤児院で暮らす少年だ。明日も知れぬありさまだったチビ三人とは違う。
「ナリクァンさまにお話したらいかがでしょうか?」
小首をかしげるリトリィだが、おそらく難しいだろう。かの夫人は、たしかに今も俺たちの家を使って、貧しい人々のために炊き出しをしている。
ただ、基本はやはり商売人。そして、かの御仁は「自ら助くる者を助く」、つまり努力を示す者に手を差し伸べるひとだ。ただ助けてくれ、と求めるだけでは助けてくれないだろう。
「リトリィ姉さまがお願いしても、ですか?」
「まあ無理だろうな。リトリィについては、どうも
孤児院が、現状を変えるために陳情し、その上で改善の努力をしてみせれば、ナリクァン夫人も動くかもしれない。だが、俺たちが「なんとかしてやってくれ」とお願いするのは、筋違いというものだ。そしておそらく、ナリクァン夫人はそういうことも最も嫌うだろう。
なぜなら、ナリクァン夫人自身、膨大な従業員を抱えるナリクァン商会の経営者だった人で、従業員ひとりひとりの家庭に対する責任を背負ってきた人なのだから。
回収の見込みのない事業――要は無駄な出費は商会の経営に悪影響を及ぼすことにつながり、それはつまり、その肩に背負う従業員の生活を傾かせることにつながりかねないのだから。
リトリィを奴隷商人から助ける時だって、ナリクァン夫人は、俺が大義名分を提案できるようになるまで動いてくれなかった。単純な縁故では動かない人なのだ。
「……ただ、やっぱり何とかしたいところだな。せめて屋根の修理はしたい。あんなにじめじめしたカビ臭い建物では、健康に悪影響がありそうだし」
なぜかそこでフェルミがむせる。
「どうした、大丈夫か?」
フェルミは若干ひきつった顔で、なんでもないと繰り返した。
「そうなのか? 喉の調子が悪いなら……リトリィ、
風邪の引き始めや、いがらっぽい喉に薬効があるという
「ほ、本当になんでもないです、ただむせただけなので……」
「そうか? もうお前ひとりの体じゃないんだ、なにか体調が優れないとかいうときには、遠慮なく言ってくれよ?」
俺の言葉に、フェルミは困ったような笑みを浮かべながら、しかし首を横に振るばかりだった。
「……本当に、監督ってお人好しっスね」
フェルミの家に送る道中、彼女は笑いながら言った。
「孤児院でしょ? 監督には、なんにも関係ないじゃないスか」
「関わっちまったんだから、気になるんだよ」
「……私も、関わってしまったから、こうして世話を焼いてくださるんですか?」
突然口調を変えるフェルミに、俺は苦笑いを浮かべるしかない。
「……そういう言い方は、嬉しくないな」
「だって、あなたの言葉を素直に受け取れば、そういうことになります。……私も、関わってしまった厄介ごとの一つですか?」
「……違う!」
俺はつい、声を荒げてしまった。
「いつも言ってるだろ。君との関わりは確かに、互いの傷を舐め合うようなところから始まったことなのかもしれないが、だからって君のことを厄介だなんて思ったことはない!」
その、大工をやってきたわりに華奢な肩を抱き、俺は一言ずつ、かみしめるように続けた。
「俺は君のことを、俺のことを慕ってくれる君を、一人の女性として愛している! もちろん、君のお腹に来てくれた、赤ちゃんも含めてだ!」
フェルミは、月明かりの中で、うつむいた。
うつむいて、そして、わずかに顔を上げ、恥ずかしげに微笑んだ。
「監督ってホント、そういうことを恥ずかしげもなく、往来で口にできちゃうひとだから、こっちはいつも困るんスよ……?」
……言わせるようなそぶりを見せたのはお前だろ。
ついでにその笑顔は反則だ。妙にほだされる。
「……ねえ、お人好しの監督さん?」
唇を離したあと、フェルミはうつむき、つぶやいた。ためらいがちに。
「孤児院のお話……。なんとか、してあげられませんか……?」
「なんとかって……」
「お腹いっぱい食べられる、それがどれだけ幸せなことか――それをご存じだから、私を今日、呼んで下さったんじゃないんですか?」
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