第531話:春はもう、すぐそこに
「んう? だんなさま、どうしたの?」
いつものモーニングルーティン。
なぜか俺は、リノの体を抱きしめて、ずっと、泣いていた。
泣けて仕方がなかった。
膨らみかけた彼女の胸の、その間――真ん中から感じられる、鼓動。
あの赤ん坊たちも、あと十数年生きれば、リノのような背格好になったのだ。
あの子たちは男の子だったけれど。
リノは父の顔を知らず、母親の愛にも恵まれなかった。
だからこそ俺と巡り会えたとも言えるし、その出会いを逃さなかったからこそ、彼女は今、俺の元に身を寄せて、こうして命を抱えて生きてくれている。
「……リノは、あたたかいな」
「ボク? えへへ、ボク、あったかい?」
「ああ……。あたたかい」
土気色の肌、かさついて半開きの唇。およそ赤ん坊にふさわしくない、あの姿。
小さな小さな棺のなかに収まったあの姿が、脳裏から離れない。
だからこそ嬉しいのだ。
生きている――リノの鼓動を感じ取れることが。
その白く薄い胸の奥で、確かな拍動を感じ取れることが。
何にも増して。
ああ、君は、生きている――
「だんなさま、おっぱい好きなんだよね?」
「……は?」
突然の問いかけに俺は驚き、顔を浮かせてリノの顔を見た。
「だって、ずーっとボクのおムネにお顔くっつけて、おっぱい、じーっと見てる」
「い、いや、目は閉じて……って、そういう意味じゃなくてだな? リノの鼓動を――」
「えへへ、ボクだっておっきくなったでしょ! いいよ、おっぱい飲ませてあげる! はい、飲んで!」
――ええ、突然頭を抱きしめられ、その胸の先端を口に含まされたものですから、俺は慌てて離れようとしたんですがね?
意外に力があって振りほどけなくて、しかし突き飛ばすわけにもいかず、おまけに意外なふくよかさがあって顔が埋まって窒息しそうになり、またしても朝からドタバタでしたよ。
「どしたの? お姉ちゃんたちのおっぱいみたいに、ボクのもいーっぱい吸って?」
「むむむ、むむむンむっむ~っ‼(だから、違うんだって‼)」
「おひげ、ちくちくする。えへへ、これを我慢するのが、愛?」
「むっむむ、むむぅっ‼(絶対、違う‼)」
「あふ、ん……。だんなさま、むーむー言いながらおっぱいぱくぱく食べるの、くすぐったい……っていうか、変な感じ、するの……。ねぇ、だんなさま……?」
俺がふがふがやるたびにリノがなにやら興奮しだして、しまいには思いっきり抱きすくめられて鼻も口も埋められて、窒息か頸椎骨折あたりで死ぬかと思ったぞっ!
ていうかだリノ、俺の口に押し込み続けていたときのあの声、君みたいな子供が出していい声じゃないからな。
まったく、いくら春がもう、すぐそこに来てるからって、シェクラの花みたいに脳内をピンク色に染めやがって。そのノリを無自覚に続けると、おそらく許されない行為として、鉄格子つき別荘送りになるんだぞ、俺が!
いや本当に勘弁してくれ!
「……朝から本当に酷い目に遭った」
「だから朝から不景気な顔をするんじゃねえって」
リファルに小突かれながら始まった今日も、昨日に葬儀があったとは信じられないくらい、いつも通りに日常が進んでいく。
瓦がなるべく割れないように、スクレーパーを差し込むようにして接着剤を剥がす。
剥がした瓦は足場の方にまとめ、あらわになったバラ板を撤去。三日もすれば慣れてくるというものだ。
気をつけなければならないのは虫食いの垂木。ここ数日の雨でスポンジみたいになっているし、腐っているのでよく滑る。バーザルトたちには特に注意を促しているが、気をつけないとな。
なにせ――
「うわあっ! だから素人は! もうお前降りてろ、俺たちがやるから!」
さっそくバラ板の一枚を踏み抜いて動きが取れなくなった俺を、リファルが慌てて引っこ抜きにかかる。
いや、俺だってやりたかったんだって。だって俺、資材の運搬しかしてないんだよ。適材適所、それは分かるけどさ、俺だって一応、二級建築士なんだから――
そう思って屋根に乗って、三歩ほど歩いたらズボッ、である。
ちくしょう。グラニット、お前絶対、必死で笑いをこらえてるだろう!
リトリィ特製のツナギは、布の段階からこだわり抜いた至高の逸品で、踏み抜いた際に割れた瓦の破片などでも破れたりほつれたりするようなことはなかった。
そんな立派な服装をしていても、やっていることは倉庫から屋根までの資材運び。道具すら握らせてもらえない。ちくしょう、せっかくのリトリィが作ってくれたノコギリも、宝の持ち腐れ状態だ。
不貞腐れながら、それでもリファルたちが快適に作業できるようにするために、木材や予備の瓦などを運ぶ。
いや、重機もクレーンもないから、全て手で運ぶ。いやはや、辛いなんてもんじゃない。
でも、現場の中には重機を入れることが難しい、狭い場所で家の建築をやりくりしたこともあった。大工さんたちは、自分たちで持ち上げたんだ。それを今、俺は
「ああ、ムラタさん、ありがとうございます。ちょうどこれから、虫食いの垂木を交換するところだったんですよ!」
バーザルトに頭を下げられ、なぜかリノが偉そうにふんぞり返る様子に苦笑し、そしてリヒテルと一緒に下から持ってきた角材を、リファルに渡す。
同時に、口ではぶつくさ言いながら重い瓦を運んできたファルツヴァイと、そんな彼をなだめながらバラ板を抱えてきたトリィネ。
足元が危険なため無理はさせられないが、それでもいつのまにか結構な量を抱えて歩き出そうとするから、いつも止めなければならないのが少々手間である。
けれど、頑張ろうとする姿は嬉しい。
「おうムラタ、すまねえな。リヒテル! 手は大丈夫か!」
「大丈夫です! お気遣い、ありがとうございます!」
「ファル、トーリィ! そこに置いておいてくれ。ムラタ、無理はさせるなよ!」
すると、ファルツヴァイが必ず文句を言うのだ。面と向かってではないのだが。
「……無理なんかしてねぇ、これくらい朝飯前だっての」
「ファルさん、気を遣ってもらえてるんだから、そんな言い方はしないでおこうよ」
「うるせえよ。だいたい、トーリィをトーリィって呼んでいいのはオレだけだ」
「ファルさぁん……」
ゴホゴホと咳き込むファルツヴァイの背中をさするトリィネ。長年の友人のようで、見ていて微笑ましい。
一つの現場ができると、そこで働く人間の人間関係が出来上がる。
護られてはいたが、同時に狭くもあった人間関係の中で、例の事件は、そんな孤児院の少年たちと社会とを触れさせるきっかけにもなったと言えるだろう。
問題を起こした少年たちは、それぞれやったこともなかった赤ん坊の世話や、商店での下働きで、目を白黒させている。リヒテルが怪我をしたことで、ファルツヴァイとトリィネが一緒に働くことにもなった。
最初は死んだような目をした彼らだったが、今ではぶつぶつ言いながらも働くファルツヴァイ、そんな彼のそばで愚痴を聞いてやりながら、励ましつつ自分も頑張るトリィネ。
冬はもうすぐ春にとって代わられる。
早い者では、初夏を迎える前に誕生日を迎え、独立するときがやってくる者もいるという。
すべてが巡り始める春が来る。
彼らが独り立ちを迎えるとき、この経験はきっと活きるはずだ。
そんなこんなで、屋根も半分以上の修理が終わったころだった。
雨が降ったりやんだりの天気が、少々続いた。あまりまとまった雨が降ることのない土地だと思っていたから、少し珍しいとは思っていたんだ。
「ねえ、みてみて!」
朝の水浴びのときに、リノに手を引かれてシェクラの木を見に行くと、俺は思わず目を見開いた。
「ね! これ、今年最初の花だよ! ボクが見つけたんだ!」
嬉しそうに俺の周りをグルグルとはしゃぎまわるリノ。
そう、随分と膨らんできたとは思っていたが、遂に我が家のシェクラの木が、最初の花をつけたのだ。
一つ目の花だからか、幾分小さいようにも感じたが、八重桜にも似た豊かな花弁は、確かに花を開かせ、ほんのわずかだが、たしかに甘い香りを漂わせている。
これで実も一応は食えるのだから、
……毛虫が付きやすいのが欠点だけどな。
「えへへ、ねえ、これ取ってお姉ちゃんたちにも見せてきていい?」
「どうしてだい?」
「だって、早くみせてあげたいもん!」
嬉しそうに枝に手を伸ばすリノだが、俺はあえて止めることにする。
「どうして……?」
「せっかく、今年最初、記念すべき第一号のシェクラの花だ。みんなで、ありのままを眺めよう。もちろん、リノが見つけたってことを、みんなに分かってもらうためにもね」
リノは最初、不満げというか、むしろどこか恐る恐るといった様子で俺の顔色を窺っていた。自分が良かれと思った提案が俺に受け入れられなかったことに、不安を覚えたらしい。
「とってきてしまったら、それでしばらくはもつだろうが、それでおしまいだ。でも、このままつけておけば、いずれ実ができる。そうしたら、マイセルにシェクラのパイを焼いてもらうことだってできるぞ?」
「パイ!」
リノはしっぽを直立させる勢いで目を見開いた。
「ボク、ずっと食べたかった! だんなさまに教えてもらってから、ずっと! これ、残しておいたら、パイ、いっぱい食べれる⁉」
「ああ、お腹いっぱい、食べることができるぞ?」
「ボク、我慢する! 代わりにお姉ちゃんたち、呼んできていい⁉」
「食事が終わったあとでな」
飛びついてきたリノの勢いに足を取られ、しりもちをついてしまう。芝が育ってきていてよかった、これが泥の上だったりしたら目も当てられない。馬乗りになってきたリノが、嬉しそうに頬ずりをしてくる。
彼女も、ずいぶんと育ってきた。まるで今までの成長できなかった分を取り返すように、とは以前にも思ったことだが、生理を迎えて、それがより一段と加速してきた気がする。いかにも幼い少女らしい体型だった彼女は、今じゃすっかり、思春期の娘だ。
俺が見ないふりをしてきただけだ、間違いなく、リノの体は一人の女性としての体格に近づきつつある。直視するのがためらわれるほど。
そんなとき、俺は本当に、春の到来を感じるのだ。
しかし相変わらず言動が幼いのをなんとかしないと、そのアンバランスさの差が開くばかりだ。いっそ、この春を機に、リトリィを躾けてくれたナリクァン夫人に預けるのも、悪くないかもしれない。
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