第610話:この街を子供たちの楽園に
「ほら、パイが焼き上がりましたよ!」
オーブンの扉を開けたマイセルのまわりで、子供たちが歓声をあげる。
「シェクラのパイ! シェクラのパイ! あまーいあまーいシェクラのパイ!」
リノが大はしゃぎするそばで、同じくパイが焼き上がるのを待っていた子供たちも、嬉しそうにそばに寄ってきた。
「こらこら。みなさん、奥さまのお邪魔になってはいけませんから、テーブルの方で待ちましょうね」
ヴァシィが、ちびっこたちに声をかける。リヒテルも、ちびっ子たちを外に誘導しようとするが、孤児院『
「いただける施しに不満があるヤツは、いらねえってことだな? いいぞ、他にもパイがいらねえヤツはここに残ってろ。さーん、にー……」
ファルツヴァイだった。それを聞いたちびっこたちが大慌てで玄関を出て、外にしつらえたテーブルに向かう。
「……なんだ、えらく聞き分けがいいな。トリィネ、ファルツヴァイはいつもあんな感じなのか?」
「えっと……じ、ファルさんって、そういうこと、面倒くさがってやりたがらなかったんですけど、シュールくんが……」
「トーリィ、余計なこと言うなよ」
どうもトリィネの話によると、元々そういう仕切りは、あの口八丁で陰湿なシュラウトがやっていたらしいんだが、最近はナリクァン商会の商店にほとんど泊まり込み状態でこき使われているそうで、あまり帰ってこないらしい。
そんなときに、例によって面倒くさそうな雰囲気を出しながら、それでも声をかけて場を締めるようになったのが、ファルツヴァイだということだった。今では実質的なリーダーとして動いているそうだ。
今では、ファルツヴァイとシュラウトはすっかり立場が入れ替わってしまったらしい。シュラウトが一時期、ミュールマンを中心にコウモリ連中を扇動して嫌がらせをしたこともあったらしいのだが、ファルツヴァイは敢然と立ち向かい、真正面から黒幕たるシュラウトを殴りつけたことで、もはや誰もシュラウトの扇動に耳を貸さなくなったのだという。
ファルツヴァイは、それによって罰を受けたらしいのだが、彼は一切の不満を言わず、罰である水汲み当番を引き受けたそうだ。しかも罰の期間を終えても、本来の水汲み当番を手伝い続けたものだから、すっかり皆のヒーローとして受け入れられてしまったのだとか。
そりゃそうだ。ひとを後ろから煽り、焚き付け、そして自分は知らん顔をする──そんな奴、本当に人望を獲得した人物が現れたなら、敵うわけがない。諸行無常、盛者必衰とは、まさにこのことか。
「そうか、ファルツヴァイも頑張ってるんだな。お前はすごい奴だ」
「……だから言うなって言ったのに。おいトーリィ、後で覚えとけよ」
「はいはい。覚えておくよ」
ファルツヴァイに肩をつかまれても、にこにこしながら返事をするトリィネ。多分、ファルツヴァイは悪ぶってみせているだけで、実際に何かをするわけではないのだろう。そしてトリィネもそれを十分に分かっているから、笑顔を返すのだ。
「……そんなことより、奥さん手伝わなくていいのかよ」
「ああ! 本当だ、ファルツヴァイの言う通りだ」
リトリィが、オーブンからパイの乗った鉄板を引っ張り出す。
俺は耐熱ミトンを手にすると、それを受け取った。
──重い! リトリィは軽々とそれを持っていたのに!
それにしても、焼き立てのパイは、蜂蜜の甘い香りとシェクラの実の甘酸っぱい香りで、もう頭がくらくらする。
俺自身、このパイを食べるのは一年ぶりだ。だから、食べる時が待ちきれない。以前作ってもらった時には、結婚三カ月目の記念日に無理に合わせたものだった。だから渋抜きなどの下処理に手間がかかったと聞いたし、そのせいか、これほどの鮮烈な香りは無かった気がする。
それに対して、今回は完熟した実を使っている。そのままでも甘酸っぱくてなかなか美味しいのだが、パイにしてじっくり焼くと、甘みが増してより美味しくなるのだとか。
さらに今回は、孤児院の子供たちにも食べさせるのだからと、パイの生地に蜂蜜をたっぷり練り込んだ。我が家でお菓子作りといえばマイセル。お腹の大きくなったマイセルの陣頭指揮のもと、一家総出プラスアルファでパイの生地をこねるところから始まり、みんなで作り上げた特製の一品だ。
しかも我が家は元々、ナリクァン夫人が炊き出しに使うための公民館、という前提の設計だ。一般家庭には無い、一度にたくさんのパンが焼ける縦型の大型オーブンに広いキッチン。
普段は狭く仕切って使っているオーブンだが、今日は全力で使っている。なにせ今日はたくさんの子供たちにパイを食べさせなければならないのだから。使える手は使わねばならない。そう、例えばそこのソファーに転がっている男。
「おい、リファル! お前も手伝え!」
「パイ生地を練るのに散々こき使われたのに、さらに使う気か! オレは客だぞ!」
「愛しのコイシュナさんが見てるぞ? 頼りになる姿を見せなくてもいいのかな?」
「クソッ、てめぇ、後で覚えてろよ!」
そんなやり取りを、子供たちの様子を玄関で見ながらにこにこ見守るコイシュナさん。やはり野郎を動かすには女性の目の力を借りるのが一番だ。
「あらあら。遅くなってしまったと思っていましたけれど、これからナイフを入れるの?」
玄関からひょっこり顔を見せたのは、猫に近い顔の初老の夫人──ペリシャさんだった。隣には瀧井さんもいる。
「ええ、すみません。予定より、少し遅れておりまして」
「いいのよ。手伝えることはあるかしら?」
そう言いながら、もう入ってきてしまったペリシャさん。こうなったら、切り分けを手伝ってもらうことにしよう。
「おまかせあれ。フェルミさん、ナイフを二つ、持ってきてちょうだいな。あなたも大工さんなんだし、目分量でいけるわね?」
突然指名を受けたフェルミは、しかし笑顔でキッチン下からナイフを二つ手に取った。隣の部屋のテーブルに並べられた鉄板上のパイを切り分けるために。
「ご主人、均等に切って、全員に平等に配った方がいいスか? それとも小さめに切って、たくさんあるように見せかけます?」
「おい、見せかけるってなんだよ」
相変わらずのフェルミの挑発的な物言いに苦笑いするが、しかし彼女の言わんとしていることは分かる。
「でも、そうだな。おかわりがあるように見えた方が、幸せな気分に浸れるかもな」
「でしょう?」
「分かった。大きさについてはすべてフェルミに任せる。ペリシャさん、フェルミに合わせて切ってもらえますか?」
「ええ、いいわ。フェルミさん、まずは手本を見せてちょうだい」
庭は、子供たちでいっぱいだ。
パイにかぶりついた子供たちが、歓声を上げ、笑顔をはじけさせる。
子供たちのほかに呼んだお客さんたちにも好評のようだ。我が家のパティシエールたるマイセルの面目躍如といったところだろう。大変だったけれど、やり切れてよかったと思う。
「何がやり切れただ、客までこき使いやがって」
「何言ってんだリファル。友達だろ、親友だろ」
「てめぇなんざ友達じゃねえ!」
「そうか、友達でなく相棒か!」
「ざけんなこの野郎!」
「いやあ照れるなあ!」
お互いに小突き合ったあとで、互いの口にパイを突っ込む。
「……うめぇよな」
「……最高だよな」
「コイシュナさんほどじゃないけどな」
「けどマイセルのほうがうまいけどな」
「……てめぇ、ケンカ売ってんのか!」
「お前こそけんか売ってんじゃねえ!」
お互いに今度こそ青筋を浮かべながらひきつった笑みを浮かべて対峙していると、
「だんなさま、あまい! おいしーい!」
リノが目を目を見開き、そして満面の笑顔でパイのかけらを持ってくる。
「はい! あーん!」
言われて思わずそのかけらを食べてしまった俺に、リノがうれしそうに飛びついた。
「えへへ、だんなさま!
リノのはしゃぎっぷりに毒気を抜かれた俺たちは、苦笑いをしてとりあえず場を納める。にらみ合いどころじゃなかったからだ。
小さな子供たちは、そんなリノのはしゃぎようがよく分からない様子だったからいいのだが、年長者たちはリノの言葉の意味が理解できたようで、みんな一斉に俺を見たのだ。
見ると、マイセルが何やら意味深な笑みを浮かべている。──やられた! 同じ手をマイセルにもやられたことがあったっけ!
リトリィが、そんな俺たちに対して苦笑いを浮かべている。いや、リノがいずれ成長した暁には、彼女を貰い受けること自体は確定してることなんだけど、でもこんな公衆の面前で。
「すでにリヒテルを絶望に叩き落しておいて、いまさら何言ってんだよ」
「ふぁ、ファルさん! でも、そのおかげでリヒテルくんも素敵な恋人ができたんだし、よかった、よね……?」
相変わらずの毒舌だよ、ファルツヴァイ! それでもって、トリィネがいいひと過ぎる! でもこの凸凹コンビだからこそ、いい感じに収まっているのかもしれない。
「……でも、ヴェスさんも来てくれたらよかったのにな」
赤ん坊の世話があるからと、ヴェスさんはダムハイト院長と共に残ったそうだ。
「じゃあトリィネ、いくらか包むから、お土産に持って行ってもらえるか?」
「はい!」
子供たちが、顔中を蜂蜜とジャムでベタベタにしながら、パイを食べている。
ちょっと作りすぎたかもしれないと思いつつ、それでもうれしそうに三個、四個と食べる子供たちの姿に、俺は胸が温かくなってくる。
「だんなさま」
子供たちの世話に回っていたはずのリトリィが、いつのまにかそばにいた。
「まだ、ほとんど召し上がっていないでしょう?」
そう言えば、最初にリファルと一緒に食って以来、食べていない。そう言うと、リトリィはふわりと笑顔になった。
「わたしたち、あなたに食べてもらいたくて焼いたんですよ? だんなさま、はい、あーん……」
リトリィに差し出されたパイを、ぱくりと食べる。さくり、という歯ざわりとしっとりとした生地、香ばしい香り、そして蜂蜜の甘さと、シェクラの実の甘酸っぱさが口の中で絡み合い、極上の味わいだ。
「うん、美味しい。さすがだな」
「ふふ、だって、あなたのためですもの」
そっと、その薄い唇をついばむようにキスをする。
「あ……」
「愛してる、リトリィ」
さっと赤くなる頬。潤んでくる、透き通るような青紫の瞳。ぱたぱたとせわしなく動く耳、そしてばっさばさとしっぽが振られる。
……ああ、なんて愛らしく、
もう一度キスをしようとすると、マイセルがひょいと顔を割り込ませてきた。その隣には、フェルミも。
「ムラタさん! 私のパイも食べてください!」
「ご主人、ご主人。ご主人の女は、お姉さまだけじゃないんスよ?」
返事をする間もなく二人からパイを突き出され、戸惑いながら口を開けると、二つ同時に突っ込まれる。
「ひょ、ひょっほ、おまへら!」
目を白黒させる俺に、リトリィがくすりと笑う。
「ふふ、だんなさま、幸せですね」
そんな俺たちを見て笑う子供たち。
いや、幸せだよ⁉
幸せだけどさ!
「幸せでしょ? だったら問題ないスね、ご主人」
「えへへ! ボクもボクもーっ!」
さらにリノが手をいっぱいに伸ばしてパイを突き出してくる。
ああもう、分かったよ、食うよ!
そんな俺を見て、ヒッグスもニューも、互いに楽しそうに食べさせ合っている。お前ら、いちゃつく前に助けろっ!
「……しあわせ、ですね」
「ああ、幸せだよっ!」
「このまちが、こうして、こどもたちにとっての楽園になっていけばいいですね」
リトリィが、子供たちを眺めながらぽつりとつぶやいた。
「この街を子供たちの楽園に……か」
「そのために、ゲシュツァーさんのおしごとを、『学校』というものに、してもらうことにしたんでしょう?」
「……まあ、な」
子供たちが幸せになれる街、それは誰もが幸せになれる街でもあるはずだ。
それは、俺たちの間にやがて来てくれるであろう子供にとっても、幸せになれる街となるはずなんだ。
「こんなふうに、みんながわらいあえる……そんなまちに、していきたいですね」
「……ああ。子供たちが笑い合って、幸せになれる街にしたいよな」
今はまだ、障害が多い。
ヒッグス、ニューとリノ……
そして多くの孤児たち。
今この瞬間にも、孤児となる子供がいるかもしれない、そんな世の中。
現実は、かくも厳しい。
けれど、だからといって手をこまぬいていても、良くはならない。
今の俺にできることをやるしかないのだ。
それが、いずれ俺たちのもとにやってくる子供たちにとっても楽園となりうる、そんな街づくりにつながってゆくと信じて。
( 第五部 異世界建築士と子供たちの楽園 了 )
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