第286話:神様の意志? 人の意志?

 花のつぼみも膨らみ、ぽつぽつと咲き始めている春先とはいえ、夜はやはり冷え込む。特にこうした山の中では。

 マイセルは、やはり慣れない山道を歩いた疲れからか、テントの中でもう寝入っている。俺はリトリィと肩を並べて、星空を眺めていた。

 一緒に夜空を見上げながら、焚火に薪をくべ足していたリトリィが、ぽつりとつぶやいた。


「ムラタさん……お父さまとは、どんな話をされたんですか?」


 リトリィに問われ、俺は結局、親父殿と大した話などしていないことに気が付いた。返答に困り、正直に話すことにする。


「……女性が贈ってくれる短刀の意味を教わった」


 リトリィの手が止まった。

 こちらの顔色を窺うように、上目遣いで、見上げてくる。


「女性からの、婚約と貞操の誓いみたいなものだって、な」


 リトリィは、黙ったままだった。ぎこちなく、枝を折る。


「いや、俺の世界でもさ、刃物を送るってことが、特別な意味を持つっていうのは、聞いたことがあるんだ。結婚式に短刀を贈る、とかな」


 神前結婚式なんかだと、女性の衣装の小物の一つに懐刀、なんてのを聞いたことがある。魔除けの意味だったか。


「つまりリトリィは、俺の手の中で果てたい、なんてあのとき言ってたけど、本当は俺への一途な想いを、この短刀で表してくれてたんだな。……ごめん、気づくのが遅れて」


 しばらく彼女は、無言で焚火に薪をくべていた。

 ちろちろと燃える火を、二人で見つめる。


「……あなたの腕の中で死んでしまうことができたら――あのときそう思っていたのは、事実です」


 リトリィが、口を開いた。消え入りそうな声で。


「わたし、あなたのことがだいすきで。……どうしても、あなたのことがあきらめられなくて。でも、あなたはあのとき、わたしをおいて山をおりるつもりだったでしょう? あなたをつなぎとめたくて打ち始めた短刀でしたけど、受け取ってもらえないだろうなあって」


 たしかにそうだった。

 俺はあのころ、まだ日本に帰るつもりだったし、だから彼女とは離れなければならないと思い込んでいた。犬に近い顔かたちのリトリィを日本に連れ帰ったりなんかしたら、大騒ぎになるだろうからと。


「だから、あんなことをしてしまいました。――ごめん、なさい……」


 そっと彼女が、俺の左腕を撫でる。

 ひきつれたような傷跡に、指を這わせるようにして。

 あのとき、ナイフで、俺が勝手に自分で自分の腕を傷つけてしまった、その痕だ。


「いや、いいんだ。これは、俺の馬鹿さ加減に対する戒めだから」

「そんなこと、いわないで。あなたがばかなら、わたしはなんなのですか?」

「俺を拾ってくれた、この世で一番の天使様」

「……もう」


 困ったように、だが、微笑む彼女は、うん、誰がなんと言おうと、この世で一番の天使だ。

 あらためてそう断言すると、リトリィは小さく笑った。そして、そっと身を乗り出して俺の頬をそっと舐めてみせる。


「わたしは、あなたに救われたって思っているのに……。どうしてそう、わたしばかりを持ち上げるんですか? もうすこし、ご自身を誇っていいと思いますよ?」

「俺は君に救われた。それも、何度もだ。命も、心も。だから君が一番大事だし、君のためならなんだってするつもりだ」


 もうすぐ、結婚式を挙げる。

 それなのに、ギリギリまで、彼女を泣かせてきてしまった。

 だから、もう、そんなことがないようにするのだ。


「……そうやって無茶をするから、けがばかり増やして……。あまり、わたしを心配させないでください。わたしは、あなたのおそばにいられたら、それで十分にしあわせなのに」


 リトリィが、俺の額と、そして後頭部を撫でる。

 ああ、この二つの傷跡は、リトリィを守れなかった俺の、不甲斐なさの印。

 それを、リトリィは包み込むように、俺の頭を抱きしめる。


「わたしは、あなたのつがいでいられるだけでいいんです。そのためなら、どこまでもあなたについていきます。だから……」


 そっと腕を緩めると、身をかがめ、そして、唇を重ねてきた。


「わたしは……」


 されっぱなしでいるものか。

 彼女の頬を両手で挟み、今度は俺の番だという意味を込めて逆襲してやる。


 


「考えてみたら、わたしたち、まるでこうして、ふたりでつがうことが運命だったみたいな……そんな、気がしてきます」


 リトリィはそう言って、指を折りながら、数え始める。


 出会いは、リトリィに温めてもらったところから。

 調子に乗った俺による妹背いもせみ、櫛流し。

 そして。


「あなたに首鐶くびわを贈られたときに気づいたんですけれど、そもそも、わたしたち、ずっとおそろいの首鐶をつけていたんですよ。ムラタさん、気づいていましたか?」


 彼女がいたずらっぽく上目遣いで言うものだから、リボンか何か贈ったっけ? などと真剣に考えてしまった。


「ほら、これ……」


 リトリィが、喉元のふかふかな毛の中から、翻訳首輪を取り出す。


「……あっ!」

「ふふ、わたしたち、出会ってすぐに、もう、婚約をしていたようなものだったのかもしれませんね?」


 言われてからやっと気づいたよ。俺もリトリィも、同じ翻訳首輪をしていたんだ。彼女の翻訳首輪はいつも毛の中に埋まってるから、俺が気づいてなかっただけで。


「こうして考えると、わたしたち、最初から大きな力にめあわせていただいていたのかもしれませんね。……それこそ、神さまの思し召しとして」


 リトリィの言葉に、俺はすこし、面白くない思いになる。

 じゃあ、するとなにか? 俺たちの出会いも、今の俺のこの思いも、なにもかも神が書いた筋書きだったわけか?


「……俺はこの世界に来た時に、神になんか会わなかったぞ?」

「じゃあ、こっそりと応援していただいていたんですよ、きっと」


 リトリィは、微笑みを浮かべたまま目を閉じ、俺の肩にそっと、もたれかかる。


「ムラタさん……わたし、いま、幸せです。このままずっと、こうしていたいです。あなたがとなりにいてくれて、わたしだけのあなたでいてくれている……。ずっと、ずっと、こうしていたいです」


 ……俺は答えられなかった。

 これはリトリィの、偽らざる本音だろう。

 彼女は、信じられないくらいの人格者だ。

 でも、それでも、俺を独り占めしたがっている。


 そうできなくしたのは、俺だ。


 神様というのがいるのなら、なんと意地悪なんだろう。

 俺自身、リトリィだけがいれば満足だったはずなのに。


 ――いや、それはもう、過去の話だ。

 俺は、リトリィと、そしてマイセルと、三人で人生を共に歩んでいくと決めた。

 ――決めたんだ。二人と共に、幸せになるんだと。


「わかって、ますよ?」


 目を閉じたままのリトリィが、ぽつりとつぶやく。

 ぞっとした。俺、また、口に出していたのか!?


「わかって、ます。マイセルちゃんも、いっしょだって。

 ――目をさましたら、また、いつものリトリィにもどります。いまだけ……いまだけ、あなたにあまえさせてください。あなたを独り占めしたいわたしを、ゆるしてください……」


 そう言って、リトリィは俺に覆いかぶさって来た。


 ああ、彼女を。

 俺だけがいればいい――そう言ってくれる彼女を、寂しがらせているのは、俺なんだ。


「……ごめん、リトリィ」


 彼女を抱きしめると、そのまま体を起こす。


 彼女が、俺を、愛している――それだけではなくて。

 俺が、彼女を、愛しているのだと。

 俺の愛は、俺自身の意志なのだと。


 そう示してやりたくて、あらためて、彼女を組み敷いた。




 朝はやはり息が白い。

 俺とリトリィは夜明けで起きる習慣だが、そのあたりは街育ちのマイセルには厳しいらしい。スープを作っているときに起きてきて、ひどく恐縮していた。


 ――いや、起きるのが遅くて助かったのはこっちだ。昨夜はをせぬまま眠ってしまっていたのだから。


「ムラタさん、できましたよ!」


 マイセルが、俺の器にスープをよそう。

 熱々のスープは、春とはいえまだまだ寒い朝にはとてもありがたい。

 マイセル自身も、器を両手で抱えるようにして差し出してくる。

 熱々のスープで温められた器は、冷えた手に心地よいようだ。


「ありがとう」


 あえてその手を、さらに包むようにして受け取ってみせる。

 マイセルは少し驚いたような顔をしたが、しかし、嬉しそうに微笑んだ。


 皆にスープとパンがいきわたったところでいただく。

 固く焼き締めたパンをかじって、スープで流し込む。

 ああ、体が温まる!


「お姉さま、今日は街まで帰れそうですか?」


 マイセルの言葉に、リトリィが微笑んだ。


「今日中には、ちょっと難しいと思います。明日の昼くらいになるでしょうね」

「下りだから行きより速いと思ってたけど、違うんですか?」


 きょとんとするマイセル。

 山歩きには、俺よりも慣れていないらしい。

 山の下り道は、膝への衝撃の連続だから、結構きついんだよ?

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